こもる網
ううむ、外も寒い空気はあるけれど、ちょこちょこ機械の排熱で妙な熱気が漂う……というのも妙な感じだね。
夏場でもそうだが、この「いきれ」みたいな籠る熱気はどうにも苦手でね。妙に包んでくる気配に、どこか逃げ場のなさのようなものを感じる。束縛感というかね。
熱気は「こもる」ものだが、寒気は「する」ものだろう? 科学的な理由はさておき、情緒的には熱の通った存在に、そばにいてほしい心持ちがにじみ出ている表現のように思う。それをわずらわしいと感じるのは、まだ私が健やかでゆとりがあるからかもしれない。
こもる、ということは熱と共につながりを求めること。
もし、自分たち以外で「こもる」ものがあったなら、気をつかってあげたほうがいいかもしれないね。
私が以前に体験した、熱がこもることの体験、聞いてみないかい?
虫取り網を、生涯で一度も振るったことがない人。残念ながら、これからは増えていくかもしれないな。
昔は虫取りといえば娯楽であり、子供たちにとって格好の競争手段のひとつだったが、いまはいかんせん娯楽も競争も種類が増え過ぎた。おのおのの興味から同調圧力まで、様々な理由でいろいろなものを選びうる。
虫取りもまた、それを好む一部の者たちの選択肢に入るのみとなってしまった。選択肢をいかに限らせるか、それにしかない強みを探るのは今後もあらゆるジャンルで課題となるだろうな。
その数少ない選択肢だけだった時分に、虫取りをチョイスした私は、下手は下手なりにその時間を楽しんでいた。
虫の収集に力を入れている一部の子はいたが、私の楽しみ方とは合わない。
私は虫との刹那のやり取りこそを、至高の楽しみとしていたんだ。彼らへ、いかに気づかれずに近寄ることができるか。逃すことなく網中へとらえることができるか。
毎度出くわす、同じ場所でも違う相手との勝負。どのように出るか分からない手合いとの技術と勘の読みあい。人間相手とはまた違うランダム性の楽しさを、私はそこに見出していたのだと思う。
そして、私がいつもの公園で、異なるセミと出くわしたのは、小学4年生の夏だったんだ。
近所の公園までは、歩いてほんの数分程度だ。
家を出た直後までは、相手を求めるセミの声が絶えず響いてきていたさ。
それが公園の見える位置まで来たとたん、ぴたりと止んでしまったんだ。あの瞬間は今でもはっきり覚えているよ。
セミの声に関してのみだが、テレビをいきなり消したかのような静寂。つい足を止めかけてしまうも、それ以外の音や気配は全然やんでいない。
こんなこともあるか、と私は虫取り網を肩へしょいなおし、敷地内へ入っていく。
入ってやや右手にある、大きな樹。例年ではここで、セミたちと何戦か交えさせてもらっているポイントだ。
難易度的にはそれほど高くないように思っていたよ。彼らは鳴くことに必死な個体が多めで、こちらへの反応に鈍る姿を見ること、しばしばだったからだ。
中には見事な機敏さで、網を逃れるものもいる。さて、今回は……と樹へ寄っていくと、一匹だけ幹に張り付いているものがいた。
そいつは羽化したてのように、白みを帯びた身体をしていたよ。よもや、出てきたばかりなのかと思ったが、周囲にそれらしき抜け殻の姿はなかった。
未成熟なもの相手に勝負を挑むのは……と若干気が引けてしまうが、それもさほど時間が経たないうちに引っ込んでいく。
私の見ている、ほんの十数秒の間でセミはたちまち色づいていったんだ。私がよく目にきた茶色気味な色合いよりなお濃くて暗い、黒々としたものへ、ね。
――こいつ、セミじゃないんじゃないか?
直感のまま、私はすぐさま臨戦態勢。かついでいた網に手をかけて、ぐっと身構える。
虫を刺激しないよう、自分なりに考えだした忍びの歩法。これでもって間を詰めていった私は、網の届く範囲まで接近した。
セミもどきは動かない。されど、鳴き出す様子も見せない。神経はいったい、どちらへ向いているのか。
一分ほど、そのまま待ったよ。
あせってはならないと、自分の心自身にとめられた気がしてね。そのままセミもどきと微動だにせずにらみ合っていたんだ。
が、私はそこまで我慢強くない。じりっと、右足を半歩ほど前へ出すや、網を思いきりかぶせに行った。
そのセミもどきは微動だにしなくて、私は目を丸くしたよ。
これまでのどのようなセミでも、この異常な事態に見舞われたなら、すぐさま樹から飛び上がり、逃げ出そうと慌て始めていた。
それがこいつは、何事も起きていないかのように不動の姿勢を貫いている。網をかぶせてしばらくしても、そのままだから、まさか眠っているのかなんて考えちゃったほどだ。
でも、すぐにそれが異なることを思いしる。
セミもどきは、ぱっと消えてしまったんだ。同時に、網の先っぽがかすかに揺れた。
その網目はわずかにやぶれている。ちょうど、あのセミもどきが通り抜けられるくらいに。
そっと指を破れ目に近づけたけれど、すぐひっこめてしまったよ。
熱かったからだ。それも、じかに触れていないにもかかわらず、熱しに熱したやかんのごとき攻撃を、私の指は受けた。
網の前後、破られたところとセミもどきに最も近づいていた箇所こそが、一番ひどい。なのに網から火が出たりはしない高熱がこもっている。
セミもどきもどこへ消えたか分からないし、公園の水道でいくら洗っても熱がひく様子はなかった。妙なことになっちゃったなあ、と家へ引き返した私は、虫網をいつも通りに自室の壁へ立てかけた。
熱はこもり続けていたけれど、火事につながりそうな気配もない。このまま落ち着いてくれればいいが……と過ごした晩が開けて。
目が覚めると、部屋があのセミだらけになっていた。
厳密には私と向き合う前の、あの羽化直後のような真っ白いセミ。それが何匹も壁のあちらこちらに取り付いていたんだ。
代わりに、私の虫網は「網」の部分がすっかり消えて、ワクのみが残っている。
――網目が、全部あのセミに化けちゃった!
すぐさま私は窓を全開にし、このセミたちを順番に外へ追いやっていく。さすがにもので突っつけば飛んでくれるらしい。
もし色づいたら、あの得体の知れない熱を発せられるかもしれないし、そうなったら火事でもないのに熱さで部屋にいられない……なんて、へんてこな目に遭うかもだったからねえ。
どうにか一息ついた私は、あの黒いセミもどきのことを思う。
鳴いて相手を求めるのではなく、「こもる」ことのできる相手をひたすらに待つ。
そして機が訪れればそれを逃さずにやり遂げ、子を残していく。あいつなりのやり方だったんじゃないのかと。




