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息のつながり

 10デシベル、と聞くとどれくらいの大きさの音か、イメージがつくかい?

 蝶の羽ばたきの音がこれくらいとされるが、人間だと自然な呼吸音がこの音に当たるわけだ。

 息を殺し、潜んでいるつもりでも、このレベルの音を感じ取れる相手にとっては気配をさらしているも同然。悲しいけれど、個人の「つもり」は必ずしも相手や目標にかなうとは限らないわけだ。

 より気配を殺すには息を止めにかからなきゃいけないだろうけど、それがいつまでも続かないのはみんなも知っての通り。苦しさを感じて、口や鼻から乱れた呼吸をするなら、余計な騒がしさをもたらしてしまうだろう。


 ――ん? まるで先生が息を感じ取る手合いと出会ったかのような口ぶり。


 ふふ、さすがにみんなは鋭いな。

 音の授業をするときになると、ついこのときのことを思い出す。先生にとっちゃ一生の中でも印象深い事件のひとつだ。

 息に関する体験、聞いてみないか?


 みんなは寝るときに、どちら向きになって眠るかだいたい決めているかい?

 あおむけ、横向き、うつ伏せ……好みはあると思う。

 先生はあおむけ派でね。途中で寝返りを打つことはあっても、最終的にはあおむけへ戻して夜を過ごしていく。

 ただ、その日の寝覚めは良くなかった。

 まなこを開けたとたん、ぐっと喉の奥が詰まってね。息ができなくなってしまった。

 映るのも、見慣れた自室の天井じゃない。目の前は真っ白になってしまったのだけど、何もないわけじゃない。


 動いていた。

 視界を覆う白は、かすかな濃淡をたたえて、脇からどんどんと背後へ逃げていく。

 冷え冷えとした空気が肌を差し、眼球の裏まで凍り付くんじゃないかと思った矢先に、目の前が開けたんだ。

 それは社会科の時間に見た、この地域の上空写真にそっくりだった……と思ったところで息苦しさは消えて、先生は自分の部屋へ戻ってくる。

 汗こそかいているが、あの時感じたはずの冷えはまったく気配を残していない。肌越しに感じる熱は、先生自身の興奮を物語っていた。

 荒く息をいくつかついてから、今日が休みの日だということを思い出す。

 先のことは起きかけだったこともあり、夢かどうか微妙なところ。少なくとも寝直す気にはなれなかった。また同じような目に遭っても困る。

 しかし、その先生の願いもはかないものだと、すぐに知れた。

 着替えてから顔を洗い、口をすすいだおり。うがいしようと上を向いたところで、思わぬ角度から気管支へ水が流れ込んで、強くせきこんでしまったんだ。

 せきは1回で2キロカロリーを消費する。100回本気でせきをしたならば200キロカロリーと茶碗一杯分くらいにもなるんだ。苦しさを感じるのも道理だと思わないかい?


 その茶碗一杯分を、おそらくはこの数分間のうちで消費してしまった先生。

 胸に痛みを覚えるほどの息苦しさに、ついふらふらと後ずさり、背後の洗濯機へしたたかに背中を打ち付けてしまった。

 すると、また目の前が一変。ここではないどこかへつながってしまう。

 今度はまず、飛び込んできたのが緑だった。先の白のように前から後ろへ通り過ぎていくのではなく、上から下へ勢いよく登っていく。

 枝葉の折れる音が聞こえる。これが落下している状態なんだ、と悟るや唐突にそれも止まった。目の前に広がる木々にむき出しの地面。いずこかの山の中だと思ったね。

 だが、勢いの割に着地したときの音も衝撃も、何も伝わってこない。もちろん、先生本人がそこにいるはずもないのだけど、見ているものとそこから感じられるべきものが一致していないのは妙な心地だったよ。


 ほどなく、その景色も元の家の中へ戻ってきたのだけど、ここからが厄介だった。

 安静にしているときより、ちょっとでも大きく息を吸い込んだり、吐き出したりしてしまうとね、目の前がすぐにまた別の視野につながってしまうんだ。

 今度は先生自身も足を止めていない。見えているものと、実際に家の中にあるもので配置が違うから、景色には存在しないはずの柱や家具へごんごんぶつかった。痛みを感じたそのときは家の中へ風景が戻るも、気は抜けなかった。

 またうかつに息をしてしまうと、あの別の視点とつながってしまうのだから。流行りのヴァーチャルリアリティに無理やり引きずり込まれるような心地だったよ。


 そして、別の視野に関してだけど、移動を続けているんだ。

 おおよそ、早歩きする程度で道をめぐっているものの、ときおり平然とガードレールや橋の欄干部分を外れ、宙へ飛び出していく。それでいて、最初に見たような落ちる気配がなくて、どんどんと進んだ。

 この視界、人のものじゃないと先生は察する。午前中からたびたび、このつながっていた景色は、午後に入ると先生の知るものになりはじめた。

 視界の主はどんどん近づいてきていたんだ。先生のいるところへ向かってね。


 そして午後に入ると、先生も特に呼吸を乱すようなことがなくても、すぐさま向こうの主に視覚を奪われてしまう。

「家の中」にいられるのは、鼻と口をすっぽり手で隠し、息を止めていられる間のみだ。それもいつまでも続かず、やがては向こうへ連れていかれる。

 外出どころか自室を出ることさえはばかられた。これに何かしらの決着をつけない限り、いつまた衝突事故に遭うか分かったものじゃない。

 対する主はもう迷いなき歩みだ。すでにこの家から数百メートルほどしか離れていない交差点まで来ていて、歩行者信号の上を軽やかに飛び越してきたところだったよ。


 ――もう、ヤルしかない……!


 何を? どう? 具体的に? そんなプランなどない。

 未知へ対するのに必要なのは、とどのつまり勇気と気合と根性だ。

 先生は部屋の物置で長いこと寝かせていた木製バットを手に、じっと視界の主の到来を待ち受けていたんだ。


 やがて、その視界。屋根より高い上空を進む主は、先生のいる家をとらえた。

 息を止めて視界を自分のものに戻し、空を見やる。目を凝らしてみるも、広がるのはやや灰色がかった曇り空ばかり。

 肉眼で見える輩でないとなると、だいぶやっかいだ。そもそも用意したバットが通用するかどうか怪しい。


 ――こちらの視界でタイミングがはかれないなら。


 止めていた息を吐き出す。

 瞬間、先生の視覚はまた向こう側へ戻された。


 決着は、驚いた間についていたよ。

 視界を戻したとき、もう主はバットを持つ先生の全身を正面からとらえていた。難なく部屋の中へ入り込んでいたんだ。

 その中で先生がたじろいだ表情を見せるや、ぐんと加速。バットを振るわれるスキさえ与えず、鼻の中へ突っ込んでいったんだ。

 慌ててティッシュ越しに鼻の中をごしごしとほじってみたけれど、主らしきものを発掘することはできなかったよ。

 その晩から、先生は熱を出すことになる。

 インフルエンザウイルスなどは出てくることはなく、数日で体調は元に戻ったよ。

 風邪のたぐいだろうと周りの人はいうが、先生はあの視界の主の仕業だと思っている。

 症状こそ風邪に似ていても、実情はどうだったのか。何かしらの後遺症があるのか。

 それはまだ、生き続けてはじめて分かることかもしれないな。

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