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のれんのけ

 日本人て、物理的な防御力より精神的な防御力に期待している節、ありませんか?

 いや、学校からの課題で、東西の仕切りのあり方について調べているところなんですが、西洋の仕切りってちゃんとした壁のことが多いんですよ。

 姿かたちばかりでなく、音まできっちり遮ろうと試みる。その強固な防御力は相手へ容易に心を許さない鎧であるかのようです。隙あらば、にゅるりと入ってくる獣のたぐいとみなしているような。


 その点、日本はしめ縄、障子、屏風などの、先のものに比べればずいぶんと「やわ」なもので境を作ります。

 もし力でかかったならば容易に取り除くことができ、姿は隠せても音などは隠せない。気配を断つ性能はそれほど高くありません。

 しかし、その防ぐ力はかなりのもの。ここより先は別の領域だと示すには十分なもので、実際に取り除こうとするものは相当の胆力持ちか、不心得ものでしょう。

 いわば「空気を読む」。かすかな仕切りの向こうにある、こことは別の空気の存在を感じ取り、それを大事にしようとするのですね。

 へたに踏み込めば、どのようなカミナリが自分へ落とされるか分からない……そう感じさせるしつけや教育を、幼いころから大勢が施されているのでしょう。

 この破ることが簡単、というのがときにくせものです。強い意志や覚悟をもって臨んだのならともかく、思わぬ事態に起因する場合は不運と言わざるを得ません。

 実は私も「境」に関する、ちょっと妙で現在進行形な経験をしているんですが、つぶらやさん、耳に入れてみませんか?


 のれん、といったら、先にあげたものたちに劣らない、内と外とを分ける境目のひとつでしょう。

 日よけ、風よけともなり、それでいて行き来そのものは簡単です。

 お店のマークなどを入れて目立たせることもでき、のれんが汚れている料理屋さんは繁盛している証ともされたようですね。

 なんでも、食べ終わったお客がのれんを分けるとき、手ぬぐい代わりに生地で指を拭いていくことがあって、その頻度の高さを汚れが物語ってくれるとか。

 しかし、家によってはもっと身近で目にする機会があることでしょう。たとえば、台所に入るところなどは。


 料理場は古来、神聖な場のひとつとされてきました。

 調理から食事、その片づけに至るまできっちりとやり遂げなくては、命をつなぐことはままなりません。それは毎日行われる、神秘の行事といっても過言でありません。

 余計なもの、よこしまなものにひょいと気軽に入り込まれては、大きな差しさわりとなる。だからこそその領域をはっきりとされる、のれんが愛用されるわけですね。


 あれは私が中学生くらいのときでした。

 夜更かしの楽しみを覚えた私にとって、親がほぼ家の仕事を終えて台所が空くときが、待ち遠しかったんですね。

 台所とはいわば、つまみ食いの宝庫といえますから。普段のおやつなどもここでいただく以上、そのストックはすぐ手の届くところにあります。

 育ち盛りの身体は、貪欲に栄養を求めるもの。なかば本能に近いそれらを満腹中枢や半端な理性がおさえられるわけがなく。その日も夜な夜な起き出して、お菓子でも食べようと思っていたんですね。

 台所前の入口に欠けられるのれん。我が家だと冬場はしっかりとした生地のあるものでして。部屋の外側にある明かりのスイッチを押しながら、ばさりと音たててめくったのですけれど。


 明かりの差す瞬間、視界の端で動いたものを私は見逃しませんでした。

 向かって右奥。コンロの置かれている台の影へ、ささっと隠れるものがあったのを。

 はっきりと形を確かめられたわけではありません。しかし、あの黒、あの所作、あの格好、ゴキブリのたぐいと判断するのは難しくなかったです。

 私の中で優先順位はたちまち変更。ここに常備されている、細いところにも噴射できるノズル付きの殺虫剤を手に、現場へ急行。先の影が隠れたところ目掛けて、一気に中身を発射しました。

 死体を確認しないうちは、おちおち夜食もできません。隠された脅威、その存在がほぼ確かなときなど、白黒はっきりつけなくてはこれから何があるか分かりませんから。


 こうも居場所に殺しの薬を撒かれたのなら、たまりかねてどこかしらか逃げ出してくるはず。実際、これまでも苦しげに姿をさらしてくる虫の姿は何度も見たことがありました。

 しかし今回は1分以上は出しっぱなしにしたにもかかわらず、音沙汰がありません。日々、強く進化を続けている殺虫剤といえど、たちどころに命を奪えるほど劇的な効果はなかなか見られないもの。

 絶対に逃げ出してくるはず……そう信じて願う私は、なおも30秒ほどは例の場所に噴出を続けましたが、かんばしい結果は得られませんでした。


 せっかくの楽しい時間。そのはじまりに水を差されて、気分良くはいられません。

 次こそ見つけたら容赦しないと、殺虫剤の缶を戻して、台所を後にしかけたときです。

 視界を遮るのれんをさっとかき分けたとき、正面の壁を右下から左上へ、目にもとまらない速さで駆けあがるものがあったんです。

 あの影に違いありません。

 置いたばかりの缶を再び手に、今度は影の去っていった方向へ噴射をする私。

 先の狭い空間でしかないコンロの影とは異なり、広々とした廊下を相手にどれほどの効果が期待できるか分かりません。でも、やつを仕留めるまでは、このままでいさせられるかと、夢中で駆除しようとしていましたね。


 私が噴射をとめてあきらめかけると、待っていたかのように、また視界の端で影が横ぎり、物影へ逃げていく。

 それから親たちに止められるまでの間は、とにかく連中を全滅させようと家じゅうを殺虫剤まみれにしていましたね。

 事情を問いただされるときも、親たちの背後で影が横切ることが何度もありました。そのたび悲鳴をあげ、親たちは振り返るのですが、そのときにはもう遅く。けっきょく、一度も親たちへ例の姿は見せることはかないませんでした。

 以降もたびたび、あの虫らしき影は家じゅうでみかけたましたが、私以外はろくに確認できずじまいだったようで。つい始末に動いちゃうものですから、はたからみたらかなりヒステリックだったと思います。

 今でも回数は落ち着いてきましたが、皆無とは言いがたいですね……。


 ただし家じゅうといっても、例外が一カ所ありました。あの台所です。

 最初の一度をのぞき、あの影は台所にだけはもう現れることはなかったんですね。

 ことによると、あの影は意図的か偶然か、台所に封印された形だったのかもしれません。あの垂れたのれんも、その封印の一部だったのかも。

 それをあのタイミングでたまたまかき分けた私が、家の中へ解き放ってしまったのかもしれませんね。

 今のところ私一人の奇行で済んでいますが、何事もないのを願うばかりです。

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