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沸かしをになう

 つぶらやくんは、最近はヤカンとか使っているかい?

 便利っちゃ便利だけど、このところもっぱら雪平鍋を使っているねえ、私は。

 インスタントラーメンを作るときの調子で、普段の湯沸かしもこなせるから、ついつい優先順位がね。おかげさまで、ヤカンは棚の隅を定位置にしている。

 ヤカンは漢字で「薬缶」と書くように、もともとは薬を沸かすために使われたお椀が変化していったものだという。純粋な湯沸かしに使われ出した記録は、江戸時代あたりから残っているのだとか。

 薬も毒も決定的に異なるものもあれば、ただ量や扱い方が異なるだけで元は同じというケースも世の中にはある。歴代のヤカンたちも目的に合わせて、そいつらを数え切れないほど相手にしてきたはずだ。

 今でこそ人は増え、多くの人が同じ目的で同じものを使うことは珍しくない。

 でも、マイノリティは思わぬ近さに、今も生きていると僕は思うんだよ。

 最近、弟から聞くことのあった話なんだけど、耳へ入れてみないかい?



 夕方ごろ、外を出歩いていたり、部屋で窓を開けていたりすると、どこからか夕餉ゆうげの香りを嗅ぐことがあるだろう?

 カレー、肉じゃが、野菜炒めに使うようなコショウの香り……そこへ揚げる音、ゆでる音などが混じっていき、お腹へ運ばれる準備が着々と整っていく。

 自分が食べるわけではないからこそ、限られた情報に脳をフル回転させて、ありもしないごちそうを平らげる様を夢想する……人の食への欲求は、往々にして強いものだ。


 弟もその日の夕方ごろ。習い事の帰りにとある住宅街の一角を通ったおりに、どぎついにんにくの香りを嗅いだそうだ。

 私もにんにくは好きだが、弟はそれに輪をかけたガーリック好き。出かけの帰りに店の新規開拓もするとは、本人談。

 いつもとは違う道を通っていたこともあって、期待は大。ラーメンくらいだったら食べて帰ってやるのも、やぶさかじゃあない。

 鼻をひくつかせながら、匂いのもとをたどっていく弟。並び立つ一軒家の前を抜けていき、やがて「ここだ」と足を止める。


 あいにく、お店のたたずまいじゃなかった。

 生垣で囲まれた古風な家。二階建ての青い屋根を持ち、背の高いアンテナが天へ突き立っている。垣根の切れ目からは、母屋まで点々と続く敷石が配され、そこを外れた正面には車庫も兼ねたトタン屋根の小屋の姿が。

 屋根の裏側には竿が渡され、大量の玉ねぎが吊るされている。昔ながらの保存方法とはいえ、実践している家はこのあたりじゃ限られていた。

 そしてニンニクらしきものの匂いはというと、かの小屋の脇にある七輪から漂ってきているらしかったんだ。


 七輪で火にかけられているのはヤカン。

 遠目に見ただけだというけど、アルミやステンレスではなく、銅か鉄のように思えたと弟は語る。

 その表面はところどころ、白いものが浮かんでいた。色はげかカビや傷みのたぐいかは分からない。ただその口からはたびたび白い蒸気が漏れ出し、沸騰のころあいを告げんとしている。

 さすがに敷地の中へは入れない。それとなく様子をうかがい、家の中から別のにんにくの香り元があるかと探るも、そちらへ回ると香りが薄れる。

 静止を保ち、七輪にあぶられるあのヤカン。その身ににんにくをそなえているとしたら、どれほどのものなのか……。


 そう、弟がわずかに想像を膨らませた瞬間。

 ひゅっと、視界を横切る小さい影があったんだ。弟のそばじゃなく、もっとヤカン寄り。

 垣根に囲まれたずっと先で、流れ星のように落ち込んだその影は、満足に正体をつかめないまま消え去った。

 いや、見間違いでなければ、あのヤカンの湯気はく口へ落ちていったような……。


 それが確かであった、と裏付けんばかりに、弟はとっさに鼻をつまむことになる。

 放たれていたにんにくの香りがにわかに変わった。

 これはシソの匂い。自然の中で生き生きと、しかも他にさえぎるものがないほどの環境と思うほど新鮮で強烈。そして若者の中で賛否分かれがちな芳香。

 手品のごとき変わりように、弟はつい後ずさり。このまま撤退しようとしたところで、またも視界を横切る影が。

 今度は二度目。先より少し心のゆとりがあり、じっと姿を見やってみる。


 飛び具合だけなら、虫にも思えた。

 けれどもその形は、サイズこそ小さいが五つの角もつ星型をしていたそうなんだ。

 金平糖のたぐいにも思える、緑色をしたその物体は、これもまたあやまたずヤカンの小さい口へ飲み込まれた。

 ほどなく、またも匂いは一変。今度はわさびの香りが漂い始める。

 刺身と一緒にそばへ盛られていても、ここまで強いものはなかなかないだろう。

 鼻の奥が自然とひりつき、意識せずとも涙ぐむ。舌の奥さえおのずと悲鳴をあげそうな、問答無用の攻撃が五感へ攻め寄せてきた。

 ほぼ無事な聴覚さえも、母屋の玄関が開く音を敏感に感じ取る。

 弟はさっと生け垣へ身を隠した。これが目隠しフェンスならばアウトだっただろうが、この生け垣はうまいこと目線が通るすき間があった。

 失礼を承知で、あの得体のしれないヤカンと出てくるだろう家人の顛末を知ろうとしたそうなんだが……あるいは見なければよかったと、弟は話す。


 玄関から出てきたのは、年のころ40ばかりの男性。その両手は、両脇へ差し入れる形で小さい男の子を抱えもっていた。

 男の子の目は涙ぐんでいる。しゃくり上げもほとんどしないあたり、よっぽど我慢強いのか、あるいは泣くのに慣れているのか。

 男性はそのまま真っすぐ七輪へ向かうと、すぐ手前で「ちょっと辛抱な」と男の子を地面へ下ろす。男の子はぎゅっと目をつむって、わずかに両足で立つも、すぐに膝を折って座り込んでしまった。

 足の力が弱いのか……とはじめは純粋に、気の毒に思っていた弟だけど、父親が七輪からヤカンを取り上げるまでで、違和感を覚える。


 膝を折る、といったら君はどう考える?

 普通、膝を前へ出して正座をする格好だろう? だが、弟が見た男の子はその逆だったんだ。

 膝が反対方向の尻の方向へ、引っ込むように曲がり、ぺたんと座り込んでいる。

 見る向きの問題でもない。男の子は正面を向いたまま、ひざをお尻よりも背後へ出して曲げていたんだ。

 自分の目と頭を疑いっぱなしの弟の前で、ヤカンをとった男性は、その口を男の子へあてがう。まずは口通しにしてわずかに中身を含ませる。相当に熱いだろうに、男の子は最初に「ん」とうめいたきり、声を出さない。

 そして残りはあの、逆方向へ突き出した膝へかけていくんだ。ここからでもはっきり見える白い湯気。それを帯びた中身を浴びて間もなく、男の子はみずから立ち上がった。

 いったん直立。すぐまた膝を折り、今度は多くの人がするように膝を前に出しての星座をしてみせる。


 ――そうだよな。あれが正しい正座だよな? 俺、間違ってないよな?


 答え合わせに戸惑う弟をよそに――そもそも見ていないだろうが――改めて立ち上がる男の子は打って変わった笑顔を見せる。

 男性もまた喜色を満面にたたえ、今度は二人して手をつなぎながら、家の中へ戻っていったらしい。もう片手に先ほどのヤカンを携えながら。


 あれが病気のたぐいなのか、あるいはもっと怖いものなのか。やはり錯覚だったのか。

 いずれの答えも出せないが、弟はそれ以来かの家には近づいていないのだとか。

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