地獄狼
「地獄狼吠えるとき、枕をよくよく低くして、頭蓋ささげる礼をせよ」
私の地元に古くから伝わる言い伝えのひとつなんだ。
どうにも地元は、全国にいくつも存在している黄泉の入口のひとつがそばにあるようでね。ときおりそこから、黄泉の住人たちの気配が漏れてくるんだと。
それらを察したならば、ふさわしい対応を求められる。ややもすると、彼らのほうが我々を仲間と勘違いして、引き込もうとしてしまうから。
いずれ誰もが仲間となるのに、一刻も早くくわえようとするその姿勢は、貪欲と称するしかないな。ならば食いつかれないよう、こちらも気を付けてやるしかない。
くだんの地獄狼に関しても同じことなんだ。
私も子供のころはどうにもうさんくさく思っていたのだけど、とあることから気をつけたほうがいいかもしれない、と思い始めてね。
その時の話、来てみないか?
地獄狼の声は、音で再現することはできない。身体の反応によってのみ、判断がつく。
かの声を耳にすると、それがどのようなものであっても、全身へいっぺんに鳥肌の立つ心地がする。
ぞぞぞっと、足の裏から背中を伝い、頭のてっぺんに至るまで。存分に冷やした特大の筆の穂先でもって、撫でられるかのよう。何人たりとも、それが与える震えに抗することはできない。
私の場合は、夏場のプールの授業のときだった。
身体を洗うためのシャワーを浴びていた最中に、カエルがのどを詰まらせたような、ぐっ、ぐっ、と抑え気味のうなりを耳にしたんだ。
降り落ちる水の音へ、かすかに混じりながあ聞こえるその声を、私はぼんやりと聞いていたんだが、つい自らの腕をさすってみて気づく。
指先へ、はっきりそうと感じられるほどの鳥肌が浮かんでいたんだ。
その勢いたるや、なぞる指が実際に盛り上がってしまう軌跡をたどるほど。ぶつぶつのひとつひとつがミリ単位の出っ張りを伴っていたのさ。
私はまだ、鳥肌が立つのを経験した機会が少ない。この時はまだ、その異状さにさほど関心を覚えることなく、そのまま授業に臨んでしまったよ。
身体を水にくぐらせる間も、鳥肌は一向に引く気配を見せなかった。
今日の水温は高めだ。朝早くからの日差しに暖められて、ぬくみすら感じてしまうほど。
その中にあって、なお鳥肌を立て続けている生徒は私しかいなかったんだ。別段、寒がりというわけでもない、私のみが。
風邪を引いたにしても、寒気をひっきりなしに感じるわけでもなかった。
ただみんなの声や水の波打つ音に混じり、あののどに詰まらせたような鳴き声が、かすかにでも聞こえてくるとき。
鳥肌はなおはっきりとした突起となって、私の身体中をまたたくまに席巻するんだ。
――ひょっとしたら、これは地獄狼の声じゃないのか。
私は親から聞いた話を、ふと思い出した。
この身に立っている不自然な鳥肌は、以前耳にした、地獄狼の声を耳にした者に現れる兆候、そのものだったんだ。
しかし、まだ第一の段階。第二の段階を確かめるまでは、まだ単なる身体の不調という可能性をぬぐえないものだが。
それまでは、様子をうかがうべきとの言いつけもある。
午前中にあった水泳の授業だが、直後に寄ってくる眠気と戦いつつ、私は第二段階が来るかどうかにばかり、心気をこらしていた。
幸い、話半分に聞いていても、理解はできる内容の授業。昼になっても、午後を迎えても、私はその兆候の気配を探り続けていたんだよ。
そして、それは下校時に来た。
私は通学路のなんともない歩道の上で、がっくりと膝を折りながらかがんでしまう。
そうだな……階段を降りている最中、もう一段残っていると思って踏み出したら、そこには何もなく、踊り場へダイレクトに着地してしまったという感じだ。
本来、重さを預けられるべき足場がそこになく、タイミングをずらされる。そのまま身体のバランスを崩し、膝をついてしまったのさ。
足を踏み出した刹那の、あの浮遊感と引き込まれる感触は、一度味わったら忘れられない。
これまでの歩行から、確かにそこへ地面があると染みついていた感覚。それをまんまと外されたとき、足は明らかに空をふわふわと漂っていた。
そのしばしの自由ののち、明らかにぐんと強く下へ引っ張られたんだ。地面よりなお下へ引っ張りこまれるかのように、さ。
それをアスファルトがしっかり受け止め、私はその勢いのままかがみこんでしまったんだ。はためにはケガをしたと思うか、ちょっと変なヤツの挙動だったろう。
当の私は、おののくばかり。これこそが、地獄狼のもたらす兆し第二弾だからだ。
主に足元に関する自分との感覚のずれ。それは地獄狼が自分を引き込もうとする証。
いくら注意をしても、この段外しと引っ張られの感触は何度も味わうことになり、家へ着くまでの間でけがをしないのが精いっぱいの、肝を冷やす道のりとなったよ。
もう疑う余地はなく、私はすぐさま親へこのことを報せ、地獄狼への対策を練った。
とはいえ、行うことそのものは日常から外れるとて、えらく極端なものでもない。
寝る際に、足をかなり高めにして横になる、というものだ。
科学的には、足を高くして寝ることにより、重力によって足元にとどまりがちな水分、血液、老廃物などの流れを良くして、むくみの解消の手助けとしたり、新陳代謝を高めたりする効力があるとされる。
しかし地獄狼に対しては、むしろ頭と心臓を低い位置へ持っていくことに、大事な意味がもたされるらしい。
頭部も心臓も、生命維持へ直結する代表的な部位だ。そいつを地獄狼のいる地面へ、形の上では差し出すかのような角度、姿勢を維持する。
それによって地獄狼に敬意を示し、ご機嫌を取るのに役立てるのだと。
その姿勢を保つように指示された晩。
当初は、頭がカッカし続けて、なかなか寝付くことができなかった。
高くした足先から、熱のこもった血がどっと頭へ押し寄せるわけだからね。にわかに起こった洪水には、上半身もおおわらわだろうさ。
その勢いたるや、やがて頭蓋骨の内側から木槌で、ドンドンと叩いてくるかのような拍動をともなう痛みが生まれるほど。
しかし、親の言いつけ通りにその姿勢でなおも我慢を続ける私へ、急に変化が訪れる。
より角度をつけて、枕へ接する形となったつむじ。
そこがいきなり、氷でも押し付けられたかのように冷え切ったんだ。
そこから目の奥、鼻の奥、のどの奥……たちまち浸透する冷気は、氷の粒を皮下でじかに泳がせているかのよう。
感じていたほてりは、たちまち神経もろとも引きつるような、凍てつきへと変えられていく。身をこわばらせる私を置いて、その冷たさは傾いた身体を駆けあがり、五臓六腑へ染み渡っていったんだ。
夏場だというのに、氷の浮かぶ風呂の中へたっぷり浸からされたように、私は止まらず震えた。またぐらもキンキンに冷えて、おもらししていやしないかと、心配してしまうくらい痛痒さが続いた。
その頭の奥、枕へほど近い部分はまた強い拍動を放ってくる。
先ほどまでの、内から怒鳴りかけるような痛みを伴うものじゃない。外から包み込んできて、中身をたっぷり吸い出しにかかる嚥下の気配だ。
おそらく、私は食べられているのだろう。
足の下から集められた、今日一日の命の証。その酸いも甘いも、地獄狼の心のゆくまま存分に。
同時に、冷え切っていく身体とともに、おぼろげながら察した。
おそらく、通常の姿勢のままで寝ると地獄狼の要求に体が応えきれないのだ、と。
血とそれに伴うものを餌とする地獄狼は、全身のめぐるものを結集しないと、その渇きを満たすに至らない。結果、標的とされたものは命を落として、地獄狼に連れ込まれてしまうと。
幾度目か分からない拍動を経るうち、私の頭はすっかり楽になってきた。
上った血がすっかり抜き取られてしまったか、頭がますます冷えるにつれて、急速に押し寄せてきた眠気へ、つい意識を任せてしまったんだ。
翌日。
もう私には妙な鳥肌が立つことも、歩いていて不自然にバランスを崩すような事態にも陥らなくなっていた。
それから久しく、地獄狼の世話にはなっていなかったのだけど、やがて寝たきりになって病院に入院した祖父が亡くなったとき。
その全身には死してなお消えていない、鳥肌が盛大に立ち続けていたんだ。
ひょっとすると祖父の死因は、地獄狼に吸われきってしまったからではと思ったことがあるんだよ。




