帰れずの森
こー坊、この丘の上からの景色が見えるか。わしはとんと目が悪くなってしまってな、うすぼんやりと、風景の輪郭をとらえることしかできん。正直に、見えるままを話してくれ。
――正面に大きな川が、奥から手前に流れている。川の近くには石が転がっているが、あとは耕すことを止めた、見渡す限り田んぼのような地面が広がり、それにアクセントを入れるように、ところどころが、切り立ったがけのごとき、急斜面になっている、と。ありがとうよ、こー坊。
この景色、じいちゃんのじいちゃんが生まれた時には、見渡す限り、うっそうと茂った森だった、と言ったら、こー坊は信じられるか? にわかには信じられんか。
じいちゃんのじいちゃん。ああ、分かりづらいか。それじゃ「大じいちゃん」と呼ばせてもらおうかの。
大じいちゃんの頃にはな、日本は明治時代を迎えていた。同時に、日本は他の国に比べて、力がない国だと思われていたのじゃ。つまり、なめられとったんじゃな。
だから、外国の技術を手に入れ、追いつき追い越せで、昼も夜もなく、仕事や訓練に明け暮れる人もたくさんいたんじゃと。
こー坊も、それくらいの年代の人から、話を聞ける機会は、もうあるまい。だから、代わりにじいちゃんが語ってやろう。よおく、聞きな。
こー坊、もし戦争をするとして、大事なものは何がある?
兵士? 武器? 食べ物? うむ、こー坊の挙げたものは、本当に根幹の部分じゃな。そこからもう少し踏み込むと、他の大事なものが出てくる。
そのうちの一つが、今から話そうとしている情報じゃ。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」とはよく言ったもので、無駄な被害を出さずに相手を打倒するには、前もって相手のことを知っておくことが大事。
そして、己の通信手段を確保しておくことも、また重要。早く正確に情報を伝える。無線通信が、まだ開発段階だった時代。速さを求めて、日本も海外の真似っこをしようとする動きがあったのじゃ。
こー坊は、伝書バトを見たことはあるか? ないか、最近は携帯電話などが発達しとるしな。若い者にはなじみがあまりないかもしれん。だが、じーちゃんの知り合いには、鳩レースを楽しんでいる者がいるし、小型のicチップなどをハトに運ばせるという試みもあるらしいの。
2時間で200キロを移動できると言われるハト。いかに有効に使うかを、日本の軍隊も研究をしていたのじゃよ。
伝書バトを輸入したばかりの頃、日本のハトの性能は、外国のそれに大きく水をあけられていた。ノウハウは向こうにある。追いつくためには、現代に伝わらないほどの、過酷な訓練を課す必要があったと聞くな。
そうして、軍が課した訓練を乗り切った「精鋭バト」たちは、応用演習を行うようになっていったんじゃ。
その演習場の一つが、ここにあった。先ほども話したように、大じいちゃんの話では、当時、ここはうっそうとした樹林が広がっていての。今、流れている川も、かつては生い茂る緑の中に隠されて、その姿をほとんど見られなかったという話じゃ。
この応用演習の想定は、遭難時における救難信号。たった一人で、敵地に残された時、ハトがもたらす情報のみで、救助されることができるか。それを見極める方法じゃった。
遭難の想定といっても、あくまで訓練。遭難ポイントは決められていたし、遭難する者の装備も、数日間孤立しても十分に生き延びられるレベルで整えられていた。いざとなれば、自分で帰還できる。
用意された「精鋭バト」は3羽。1人に1羽ずつ与えられて、合計3人が遭難訓練を行う。夜明け前に樹林内に足を踏み入れて、チェックしたポイントにたどり着いたら、ハトを飛ばす手はずになっていた。今、こー坊とじーちゃんが立っているこの丘には、かつて演習の本部があったとか。
日が暮れるまでの間に、ハトは全羽戻ってきた。ただ、いずれの筆跡も、たどたどしいこと限りない悪筆で、しかも植物の汁で書かれ、汚れており、読むのに一苦労だったようじゃ。
確かに、戦場では、けがなどのために、いつもきれいな字を書ける状況とは限らないし、筆記用具を紛失することもあるじゃろう。読み解く側の訓練も兼ねているのか、とプラス方向に受け取られた手紙たち。いずれもポイントには到着したことが書いてあり、明朝から遭難救助の訓練が開始されることになった。
ところが、救助隊が要請されたポイントにたどり着いても、遭難者の姿は見えない。三人ともだ。付近の捜索が行われたものの、その日は見つけることができず、救助隊はキャンプを余儀なくされる。
翌日より、遭難役の兵士のミスを視野に入れ、動員数を増やし、森林地帯全体がくまなく調べられた。3つのポイントは奥まった場所だけに、奥地での捜査に力が入れられたんじゃ。
そして、夕暮れ近く。森林の入り口近くが捜査された時、か細い声が聞こえてきた。入念に調べられた結果、土手の急斜面を下りたところにある、一本の木の、うろの中に、遭難役の一人がいた。右足が派手に折れていた上に、手ぬぐいでさるぐつわをはめられ、両腕がロープできつく縛られていたのじゃ。
戒めを解かれて、助け出された遭難役は、本部に運ばれる。少し休まされた後、遭難役は事情を説明した。
森に入って、しばらく経った時、肩の筒の中に入れていたハトが、しきりに騒ぎ出した。異常な鳴き声に、何事かと、筒のフタを開けてしまったらしい。
ハトは筒の中から飛び出し、遭難役の前方数メートル先を旋回。遭難役と向き合った途端、弾丸のように突っ込んできたとのことじゃ。
油断していた遭難役は、その突進をまともに食らった。予想以上の衝撃にたたらを踏んだが、遭難役の背後に地面はなく、代わりに急な斜面が待ち受けているばかり。無様に転げ落ちた遭難役は、どこかに頭をぶつけた衝撃で意識を失い、気がついた時には、あのような状態だったというのじゃ。
ハトが手紙を持って、舞い戻って来たことを知ると、遭難役は驚きの声をあげる。自分はポイントについてから手紙を書くつもりだったので、一文字も書いていないことを告げたのじゃ。
じゃが、彼の荷物からは、確かに、手紙用の紙が一枚無くなっていた。彼を縛っていた手ぬぐいもロープも、彼の持ち物だったんじゃ。
彼を縛り上げ、にせの手紙を書き出した者。人々は、すでに鳥かごの中に移されたハトを見やったが、ハトはこちらを見つめながら、不思議そうに首を傾げるばかりだったそうじゃ。
その後も救助活動は続けられ、どうにか残りの2人も助け出された。先の1人とほぼ同じ状況で、携帯用の筒から取り出したハトに、襲われたということじゃ。
演習は中止。使用したハトは全羽処分された。以降、伝書バトの成功は、1887年の東京~静岡・久能山区間での実験まで、待たれることになる。
ハトが厳しい訓練を根に持ち、報復の機会をうかがっていたのだろうと、一部の者の間で、密かに語り継がれたのだとか。