表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
186/3093

地の底の天の川

 ほむほむ、今度のこーちゃんの研究対象は、各地の風習ね。

 物を書く時って、ターゲット層をしぼれと、よく言うじゃない。僕みたいな都会育ちだと田舎の風習ものは、がぜん興味が湧くね。でも田舎育ちの友達からすると、因習ものなんて「あほらし」の一言。それよりも都会のごみごみした空気に潜んでいる、闇や怖さとかのドロドロしたものがいいんだってさ。

 両方を一つの作品で満たそうとするのは、なかなか難しいと思うし、字数もかさむんじゃない? あれもこれも入れようと文字数を増やす、水増しってやつにつながる。

 水増しするなら、元の題材はそれこそ、ストレートで出したら命を奪いかねないレベルの、毒や薬じゃなきゃあかんでしょ。どぼどぼ、あれこれ付け足して、ほとんど水になったカルピスを「カルピスでござい」なんて出してみなよ。お客は大激怒間違いなし。ソースは僕だよ。

 こーちゃんもさ、たまには濃縮還元の濃いいミルクのような作品、作ってみたら?

 なに? 言い方が気に食わない? また、アホなこと考えたんじゃないの? 

 ま、いいや、たまにはこーちゃんのアホさにレベルを合わせて、話を提供しようか。

 ミルクに関する、エピソードをさ。


 ヨーロッパのある地域では、枕元にミルクを注いだ入れ物を置き、眠りにつく風習があったと聞いたことがある。こーちゃんも知っているかと思うけど、「夢魔」対策の一種だ。

 夢魔は、堪え難い悪夢から生まれる恐怖。もしくは抗い難い快夢から生まれる悦楽。これらを糧に生きていると信じられていた。特に後者が具現化したものが、男性の子種だと強く信じられていたんだね。

 ミルクはそれのフェイク。枕元に置くことで、夢魔は子種と誤認して持っていく。よって、精力を吸い取られずに済む……という寸法だ。

 夢魔が子種とミルクを区別できないはずがない、と思うかも知れないけど、僕たち人間だって、男だと思ったら女、女と思ったら男と、判断を誤ることがある。

 悪魔も人間的。いや、人間が悪魔的なのかな。


 今から数百年前の、江戸時代での話。

 その家は、母親が早くに亡くなり、父親と息子の二人暮らしだった。

 父親は男手一つで、息子を育てていたものの、仕事に加えて妻が行っていた家事全てを受け持つことになり、心身共に疲れ果てていた。伴侶を失った、悲しみ、わびしさを十分に拭いきれていなかったことも、原因の一つだったんだ。

 周りの人は、早く後妻を迎えろとうるさかったが、まだ妻の顔も声もぬくもりも、よく覚えている彼には、すぐに次なる伴侶を選ぶことなど、容易じゃなかった。

 何より、選んだとしたら、またこの辛さを伴う別れが、いつかやってくる。自分が先に逝くのなら構わない。だが、新しい妻に先立たれてしまったら……そう考えると、身震いが止まらなかった。

 しかし、身体は正直なもので、仕事で疲れた帰りなど、すれ違う女房たちの腰、尻、うなじを、自然と目で追っている自分の姿があり、家で悶々とすることが多くなった。

 そのたびに、亡き妻への想いがあふれ出して、自分の浅ましさ、申し訳なさをにじませながら、己を慰めていたという。そんな日は、決まって息子に、家の地下で眠るように告げた。

 自分のむさくるしい泣き声と喘ぎ声を、息子には絶対に聞かせたくなかったからだ。


 妻への想いはかげることなく、一年が流れた。

 この頃になると、父親は女々しい奴呼ばわりされて、皆から非難めいた視線で見られることが多くなっていた。ほとんどの男が、祭りでの「らんちき騒ぎ」に乗じて、奔放に振舞っている時でも、父親の周りだけはお通夜のように、寂しげだった。

 結局、その日の祭りも早々に席を立ち、家路を急ぐ父親。月の光のない、満天の星空。長大な天の川も、この目ではっきり見ることができた。

 あの川の向こうに、お前は今もたたずんでいるのだろうか。また父親の胸に、妻の笑顔が思い浮かぶ。織姫と彦星は天の川をはさんで離れ離れになったが、自分と妻も地と空を挟んで分かれている。

 逃れられない運命だとしても、それはずっと先のことだと思っていた。なのに、どうして……。

 男の視界は歪みながらも、足は止めなかった。


 家に戻ると、昼間、祭りの前に眠っていた息子が起き出していた。手には牛乳が軽く入った水桶を持っている。

 当時の牛乳は人よりも、むしろ馬の薬として飲まれることが多かった。息子に尋ねてみると、「昼間見た夢の中で、今夜は牛乳を枕元に置いて寝なさいって言われた」という答え。

 奇妙なこともあるものだと、その日も息子には地下で眠ってもらうよう頼んだ。そして男は声を押し殺しながらも、瞼の裏に必死に妻の顔を、身体を思い浮かべていた。


 どれくらい時間が経っただろうか。

 気づくと、眠っていたはずの父親は、二本の足で立っていた。辺りを見回してみるが、目を開いているにも関わらず、閉じている時と大差ない暗闇が広がっている。

 試しに、一歩踏み出してみる。足は見事に下へと吸い寄せられて、慌てて態勢を整える。踏み出した先に足場はなかった。ぐるりと周囲を回ってみたが、自分一人が立てるすき間しか、この空間にはないらしい。

 これが夢だとしたら、もう一度眠れば起きられると聞いたことがあるものの、こんな不安定な足場で目を閉じたら、身体感覚を失って、奈落へ真っ逆さまかもしれない。

 手をこまねいていると、父親の耳に、「ぽちゃん」という水音が届いた。

 見ると、先ほどまでは確かに足場がなかった一方向。そこに白い雫が垂れている。次々と垂れる水滴たちは、落ちて、つぶれて、広がって、やがて細い道を描き出す。男はその白くて細い道目がけ、そうっと足を踏み出してみた。

 踏める。歩ける。確かになかった足場が、今、ここにできている。

 空からの道しるべは、相変わらず、垂れ続けていた。それが辿る道筋を、男は慎重に追いかけた。


 細くて長い道の先。

 今まで一滴ずつ垂れていた白の雫は、どばりと一気に、濁流となってこぼれ落ちた。

 するとどうだろう。黒を帯びた空間が、閉じられた扇が開かれるように、目の前から左右に向かって、白く染まっていく。空虚だった足元も、純白が塗りつぶしていく。その中で唯一、白にならないものが、父親の前にいた。

 妻だ。一年間、忘れることがなかった、あの日の姿で、彼女は目の前に立っていたのだ。男は我を忘れて、彼女に駆け寄る。彼女もまた、優しいほほえみを浮かべたまま、夫に抱きすくめられた。

 何度夢想し、何度夢破れてきただろう、心地よさ。父親はこのまま潰してしまいたいほど、強く強く、妻を抱きしめた。

 けれど、彼女は抱いた感覚こそあれど、匂いもなければ、ぬくもりもなかった。熱かったり、冷たかったりではない。ゼロなのだ。ただ、そこにある。それだけなのだ。


「ごめんなさい。あなたが求めるもの。もう、私はあげることができないの」


 妻は夫の腕の中でしゃくりあげながら、静かにつぶやいた。


「あなたが求めるものは、きっと、もっと、あなたのそばに。こんな遠いところじゃないの。忘れないで。私はずっと遠く、ずっとかなたで、もう一度あなたを待っている。あなたは今いる場所で……」


 不意に地面が揺れる。

 夫が抱く力を弱めた瞬間、妻はその腕から這い出すと、夫を力強く突き飛ばした。

 しりもちをつく夫。その足の先で、地面にひびが入ったかと思うと、大きな裂け目が口を開いた。夫が立ち上がった時、地割れはもう、妻の姿を届かぬ先へと送ってしまっている。

 妻はこちらに向かって、悲しげな顔で手を振っていた。夫は諦めきれず、手を伸ばし――。


 目が覚めた。

 空がやや明るい、夜明け前。男が寝返りを打つと、その先に桶を抱えた息子がいて、ぎょっとする。

 変な夢を見た、と息子は言った。自分は枕元に置いたはずの水桶を持ったまま、細い道の上に立っていて、目の前には手を引いてくれる、おじいさんがいたらしい。


「いいかね、坊や。その水桶に入った乳。この道を歩きながら、少しずつ、少しずつ垂らすんじゃ。合図をするまで、一気にこぼしてはならん。あくまで少しずつ、少しずつじゃ。合図をしたら、残りを全部ぶちまけるんじゃ。わしの言いつけ、守らぬ時には、父親の命はないと思え」


 脅しじみた文句におののきながら、息子は言われた通り、一滴ずつ乳を垂らしていき、やがておじいさんの合図と共に、残りの乳をぶちまけたらしい。

 すると目の前が真っ白になり、気がついたら起きていた。そして、父親が心配になって、枕元まで来たとのこと。

 息子の導きがなければ、妻に会うこともできず、自分は生きて帰ってこられなかったかもしれない。父親はそっと息子を抱き寄せて、「ありがとう」とつぶやいたそうな。


 父親はそれから少し経って、後妻を迎えることになった。周りの男たちも、ようやく踏ん切りがついたか、と安心したらしい。

 二人の間には何人か子供が生まれ、元々いた長男ともいさかいなく過ごすことができたとのこと。

 晩年、西洋の天文学の知識を聞きかじった男は、天の川が「ミルキーウェイ」。すなわち「乳の道」と呼ばれていることを知った。

 命につながる乳の道。それは空ばかりでなく、地の底にもあったんだと、父親と息子はあの夜の夢を、しばしば、感慨深く思い出したんだとか。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ