地の底の天の川
ほむほむ、今度のこーちゃんの研究対象は、各地の風習ね。
物を書く時って、ターゲット層をしぼれと、よく言うじゃない。僕みたいな都会育ちだと田舎の風習ものは、がぜん興味が湧くね。でも田舎育ちの友達からすると、因習ものなんて「あほらし」の一言。それよりも都会のごみごみした空気に潜んでいる、闇や怖さとかのドロドロしたものがいいんだってさ。
両方を一つの作品で満たそうとするのは、なかなか難しいと思うし、字数もかさむんじゃない? あれもこれも入れようと文字数を増やす、水増しってやつにつながる。
水増しするなら、元の題材はそれこそ、ストレートで出したら命を奪いかねないレベルの、毒や薬じゃなきゃあかんでしょ。どぼどぼ、あれこれ付け足して、ほとんど水になったカルピスを「カルピスでござい」なんて出してみなよ。お客は大激怒間違いなし。ソースは僕だよ。
こーちゃんもさ、たまには濃縮還元の濃いいミルクのような作品、作ってみたら?
なに? 言い方が気に食わない? また、アホなこと考えたんじゃないの?
ま、いいや、たまにはこーちゃんのアホさにレベルを合わせて、話を提供しようか。
ミルクに関する、エピソードをさ。
ヨーロッパのある地域では、枕元にミルクを注いだ入れ物を置き、眠りにつく風習があったと聞いたことがある。こーちゃんも知っているかと思うけど、「夢魔」対策の一種だ。
夢魔は、堪え難い悪夢から生まれる恐怖。もしくは抗い難い快夢から生まれる悦楽。これらを糧に生きていると信じられていた。特に後者が具現化したものが、男性の子種だと強く信じられていたんだね。
ミルクはそれのフェイク。枕元に置くことで、夢魔は子種と誤認して持っていく。よって、精力を吸い取られずに済む……という寸法だ。
夢魔が子種とミルクを区別できないはずがない、と思うかも知れないけど、僕たち人間だって、男だと思ったら女、女と思ったら男と、判断を誤ることがある。
悪魔も人間的。いや、人間が悪魔的なのかな。
今から数百年前の、江戸時代での話。
その家は、母親が早くに亡くなり、父親と息子の二人暮らしだった。
父親は男手一つで、息子を育てていたものの、仕事に加えて妻が行っていた家事全てを受け持つことになり、心身共に疲れ果てていた。伴侶を失った、悲しみ、わびしさを十分に拭いきれていなかったことも、原因の一つだったんだ。
周りの人は、早く後妻を迎えろとうるさかったが、まだ妻の顔も声もぬくもりも、よく覚えている彼には、すぐに次なる伴侶を選ぶことなど、容易じゃなかった。
何より、選んだとしたら、またこの辛さを伴う別れが、いつかやってくる。自分が先に逝くのなら構わない。だが、新しい妻に先立たれてしまったら……そう考えると、身震いが止まらなかった。
しかし、身体は正直なもので、仕事で疲れた帰りなど、すれ違う女房たちの腰、尻、うなじを、自然と目で追っている自分の姿があり、家で悶々とすることが多くなった。
そのたびに、亡き妻への想いがあふれ出して、自分の浅ましさ、申し訳なさをにじませながら、己を慰めていたという。そんな日は、決まって息子に、家の地下で眠るように告げた。
自分のむさくるしい泣き声と喘ぎ声を、息子には絶対に聞かせたくなかったからだ。
妻への想いはかげることなく、一年が流れた。
この頃になると、父親は女々しい奴呼ばわりされて、皆から非難めいた視線で見られることが多くなっていた。ほとんどの男が、祭りでの「らんちき騒ぎ」に乗じて、奔放に振舞っている時でも、父親の周りだけはお通夜のように、寂しげだった。
結局、その日の祭りも早々に席を立ち、家路を急ぐ父親。月の光のない、満天の星空。長大な天の川も、この目ではっきり見ることができた。
あの川の向こうに、お前は今もたたずんでいるのだろうか。また父親の胸に、妻の笑顔が思い浮かぶ。織姫と彦星は天の川をはさんで離れ離れになったが、自分と妻も地と空を挟んで分かれている。
逃れられない運命だとしても、それはずっと先のことだと思っていた。なのに、どうして……。
男の視界は歪みながらも、足は止めなかった。
家に戻ると、昼間、祭りの前に眠っていた息子が起き出していた。手には牛乳が軽く入った水桶を持っている。
当時の牛乳は人よりも、むしろ馬の薬として飲まれることが多かった。息子に尋ねてみると、「昼間見た夢の中で、今夜は牛乳を枕元に置いて寝なさいって言われた」という答え。
奇妙なこともあるものだと、その日も息子には地下で眠ってもらうよう頼んだ。そして男は声を押し殺しながらも、瞼の裏に必死に妻の顔を、身体を思い浮かべていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
気づくと、眠っていたはずの父親は、二本の足で立っていた。辺りを見回してみるが、目を開いているにも関わらず、閉じている時と大差ない暗闇が広がっている。
試しに、一歩踏み出してみる。足は見事に下へと吸い寄せられて、慌てて態勢を整える。踏み出した先に足場はなかった。ぐるりと周囲を回ってみたが、自分一人が立てるすき間しか、この空間にはないらしい。
これが夢だとしたら、もう一度眠れば起きられると聞いたことがあるものの、こんな不安定な足場で目を閉じたら、身体感覚を失って、奈落へ真っ逆さまかもしれない。
手をこまねいていると、父親の耳に、「ぽちゃん」という水音が届いた。
見ると、先ほどまでは確かに足場がなかった一方向。そこに白い雫が垂れている。次々と垂れる水滴たちは、落ちて、つぶれて、広がって、やがて細い道を描き出す。男はその白くて細い道目がけ、そうっと足を踏み出してみた。
踏める。歩ける。確かになかった足場が、今、ここにできている。
空からの道しるべは、相変わらず、垂れ続けていた。それが辿る道筋を、男は慎重に追いかけた。
細くて長い道の先。
今まで一滴ずつ垂れていた白の雫は、どばりと一気に、濁流となってこぼれ落ちた。
するとどうだろう。黒を帯びた空間が、閉じられた扇が開かれるように、目の前から左右に向かって、白く染まっていく。空虚だった足元も、純白が塗りつぶしていく。その中で唯一、白にならないものが、父親の前にいた。
妻だ。一年間、忘れることがなかった、あの日の姿で、彼女は目の前に立っていたのだ。男は我を忘れて、彼女に駆け寄る。彼女もまた、優しいほほえみを浮かべたまま、夫に抱きすくめられた。
何度夢想し、何度夢破れてきただろう、心地よさ。父親はこのまま潰してしまいたいほど、強く強く、妻を抱きしめた。
けれど、彼女は抱いた感覚こそあれど、匂いもなければ、ぬくもりもなかった。熱かったり、冷たかったりではない。ゼロなのだ。ただ、そこにある。それだけなのだ。
「ごめんなさい。あなたが求めるもの。もう、私はあげることができないの」
妻は夫の腕の中でしゃくりあげながら、静かにつぶやいた。
「あなたが求めるものは、きっと、もっと、あなたのそばに。こんな遠いところじゃないの。忘れないで。私はずっと遠く、ずっとかなたで、もう一度あなたを待っている。あなたは今いる場所で……」
不意に地面が揺れる。
夫が抱く力を弱めた瞬間、妻はその腕から這い出すと、夫を力強く突き飛ばした。
しりもちをつく夫。その足の先で、地面にひびが入ったかと思うと、大きな裂け目が口を開いた。夫が立ち上がった時、地割れはもう、妻の姿を届かぬ先へと送ってしまっている。
妻はこちらに向かって、悲しげな顔で手を振っていた。夫は諦めきれず、手を伸ばし――。
目が覚めた。
空がやや明るい、夜明け前。男が寝返りを打つと、その先に桶を抱えた息子がいて、ぎょっとする。
変な夢を見た、と息子は言った。自分は枕元に置いたはずの水桶を持ったまま、細い道の上に立っていて、目の前には手を引いてくれる、おじいさんがいたらしい。
「いいかね、坊や。その水桶に入った乳。この道を歩きながら、少しずつ、少しずつ垂らすんじゃ。合図をするまで、一気にこぼしてはならん。あくまで少しずつ、少しずつじゃ。合図をしたら、残りを全部ぶちまけるんじゃ。わしの言いつけ、守らぬ時には、父親の命はないと思え」
脅しじみた文句におののきながら、息子は言われた通り、一滴ずつ乳を垂らしていき、やがておじいさんの合図と共に、残りの乳をぶちまけたらしい。
すると目の前が真っ白になり、気がついたら起きていた。そして、父親が心配になって、枕元まで来たとのこと。
息子の導きがなければ、妻に会うこともできず、自分は生きて帰ってこられなかったかもしれない。父親はそっと息子を抱き寄せて、「ありがとう」とつぶやいたそうな。
父親はそれから少し経って、後妻を迎えることになった。周りの男たちも、ようやく踏ん切りがついたか、と安心したらしい。
二人の間には何人か子供が生まれ、元々いた長男ともいさかいなく過ごすことができたとのこと。
晩年、西洋の天文学の知識を聞きかじった男は、天の川が「ミルキーウェイ」。すなわち「乳の道」と呼ばれていることを知った。
命につながる乳の道。それは空ばかりでなく、地の底にもあったんだと、父親と息子はあの夜の夢を、しばしば、感慨深く思い出したんだとか。