紡ぎ手と守り手
うぷっ、久々の倉庫掃除はたまったもんじゃないね。ほこりがすごいのなんのって。
こーちゃん、装備は十分? ガラスとかが散らばっているかも知れないから、靴下とかじゃ危ないよ。足下に気をつけて……って、ぐわー、顔が、顔が、ひいぃ、なんかくっついたよー! むわァっと!
あっ、はあ〜、クモの巣、クモの巣です! 彼らの捕獲用ネットをぶち破ったようです。なお、家主は留守にしていた模様! いやはや、びっくらこいたー。
油断しているとさ、顔を初めとするいろんな部位で、クモの巣を破壊しないかい? クモにしてみたら、ある日突然、現れた巨人が家と狩場を荒らしていくわけでしょ。大した「人災」もあったものだ。
僕たちだって意図的ではなくても、さっきみたいに無意識に壊してしまうこともあるから、巡り合わせの問題かな、うん。
不注意に対する責任転嫁じゃないかって? いやあ、人間の無意識下で起こるわけだし、そこまで責められるいわれはないんじゃないかと、僕は思うよ。人間、何でもできるわけじゃないっしょ?
……こーちゃん、納得がいかないって顔だね。じゃあ、人間サマにも限界があるというケースの話、してあげよっか。掃除の後でね。
さっきも言った通り、人間がいくら気を張っていたとしても、虚を突かれることはある。それどころか、兆しを感じ取ることもできずに、突然の事故を迎えることも多い。車なんて便利さゆえにみんなが使っているけど、「走る凶器」でもあるからね。油断したら、命すら持っていかれかねない。
とはいえ、人を殺すのに車はオーバーパワーな代物だ。方法や目的によっては、針一本……いや、徒手空拳でもいけるだろう。それが牙や爪を持つものなら、楽に斃せるだろう。
だから、人間は古来より優秀なパートナーを求めた。
有名なものは、犬。鼻、足、戦闘能力と、どれをとっても人間の上をいく。人が気づいていないものにも、気づくことがある。こーちゃんもいくつか、そんな例を知っているんじゃない?
これはその中でも、比較的、新しめのケースだよ。
いとこの兄ちゃんが、まだ小さいころは、野良犬がけっこういたと聞いたことがある。普通に道路や公園を闊歩していてさ、不用意にえさをあげて懐かれちゃう友達もいたって話。学校でも、野良犬にえさをあげないように、注意が促されたんだってさ。
兄ちゃんたちの間にも、遊び仲間と言えるくらい、仲がいい野良犬がいた。手のひらに乗せられるくらいの大きさで、白黒のぶち模様をしていたから、「ぶっち」とみんなで呼ぶようになったんだ。
いつもは、アパートに囲まれた、近所の公園の茂みに潜っているんだけど、兄ちゃんたちが遊びに来ると、自分から飛び出してくるらしい。
首輪がなかったけれど、あごや前足を乗せてきたり、かがむと口をべろべろ舐めてきたりするあたり、人に長く飼われていた捨て犬じゃないか、というのがお兄ちゃんたちの見解だった。
お兄ちゃんたちが遊びに夢中になっている間も、「ぶっち」は冷静だった。ペンキ塗りたてのベンチに誰かが座ろうとすれば、袖を引っ張ってでも止めるし、公園から出たボールを追いかける子が、接近する車に気づかずに飛び出しそうになった時には、盛んに吠えながら、小さい身体で行く手を遮る。
たいしたしつけをされたもんだな、と兄ちゃんたちは笑って、小さい友達をほめたたえたみたい。
「ぶっち」と出会ってから、しばらくして。
お兄ちゃんたちの地域で、保健所による野良犬の保護強化が知らされた。野良犬駆除の強化とも言える。狂犬病の予防のために、必要なことだと説明されたんだ。
その間、野良犬との接触を避けるため、特に子供の外出が制限されて、一ヶ月ばかりの間、お兄ちゃんたちは外で遊ぶことができなかったらしい。
そして、禁止が解かれた一カ月後。お兄ちゃんたちは公園に集まって、久しぶりにサッカーをすることにした。一番乗りをしたお兄ちゃんだけど、公園に入ろうとした瞬間、身体に違和感を覚えた。
クモの糸。軽く、柔らかく、ともすれば見落としてしまう儚げな繊維が、兄ちゃんの体当たりで断ち切られた。ご無沙汰していたから、その間に巣を張られてしまったのかな、とお兄ちゃんは思ったみたい。
ほどなく、みんなが集まって来たけれど、サッカーが始まる頃には、お兄ちゃんは身体が少しずつ重くなっているのを感じていた。疲れではなく、重りを背負わされているような感覚。それはプレーにも差し障りが出るほどだった。
人がいないのをいい事に、公園全体を使ってサッカーをしていた兄ちゃんたちだけど、みんなもプレー中に、クモの糸に絡まれて、足を止めることが多かった。巣を張れないような、広々とした空間を使っているにも関わらずだ。
様子がおかしい。全員がそう思って、少し休むか、帰ってしまうかを検討しだした時。
「わんわん!」と吠え立てる声と共に、小さい犬が公園に躍り込んできた。全身のぶち模様。「ぶっち」に違いなかった。「ぶっち」はみんなの足元を抜けて、公園の中央に立つと、囲んでいるアパートのうちの一つを目がけて、盛んに吠え立てている。
いや、違う。よく見ると「ぶっち」は、アパートの屋根を目がけ、顔を上げながら、吠え続けていた。みんなもそれに釣られて、アパートの屋根を見上げる。
クモがいた。この距離からでも視認できる、大きさ。アパートの屋根全体を覆うほどに大きなクモがいた。その三次元の立体感は、屋根に取り付けられた像の一種ではないかと、疑ってしまうほど。
けれど、「クモの像」は動いた。わずかに後ずさりをすると、やや身体をかがめたのち、大きく跳躍。他の建物の屋根に次々と着地しながら、遥か彼方に去っていってしまった。
みんなが一部始終を呆然として見届けた後、ふと視線を落とすと「ぶっち」の姿はなかった。ひとまずみんなはその場で解散。公園を使うことは禁止にして、今、見たことについては、大人に黙っておくことになった。どうせ、信じてくれないと思ったんだ。
翌日。お兄ちゃんのクラスの人が何人か休んだ。聞いたところによると、貧血と栄養不足とのこと。揃って、給食をおかわりしまくるメンバーだっただけに、にわかには信じられない。
だけど、兄ちゃんたちは、あのクモにやられたんじゃないかと思った。退院後に彼らに尋ねてみたけど、蒼い顔をして首を振るばかり。本当のことは分からなかった。
それからもお兄ちゃんのいる地域も含めて、野良犬の保護は続いている。「ぶっち」とも久しく会っていないみたい。
この一件以来、お兄ちゃんは出歩く時には、常に周囲に気を配り、クモの巣を不用心に破らないようにしているんだとさ。