調整者たち
健康って大事だと思わない? つぶらやくん。
何をいきなり言い出すのか? いや、つい先日熱を出しちゃってさ。一人暮らしだから辛いのなんの、自分で自分の面倒をみなきゃいけない。意識はもうろう、足下フラフラの中で、身の回りのことをどうにかこなし、大半はふとんでウンウンうなる、それで大事な時間が奪われていくなんて、たまらないな。
とっとと医者に行け? だから、一人だとそれが辛いんだって。結局は一人での戦いじゃん? それに僕は昔の出来事から、医者に不信感を持っていてさ。他の誠実な方には申し訳ない話だけど、あまりお世話になりたくない。
どんな出来事かって? ああ、聞いてくれるのか。ちょうどよい発散になるかも知れない。感謝するよ。
数ある医者の中でも、僕は歯医者が苦手なんだ。
あの神経に響く音、脳まで揺らされそうな痛み。抜歯の時にガンガン叩かれてさあ、あの記憶が生々しく残っているんだよ。
知っているかもだけど、歯医者ってコンビニより数が多いんだって。競争も激しければ、当たりはずれが激しいのも、道理かもしれないね。最も、患者側からしたら、はずれに当たるなんて、耐えられないけど。
そしてこれは、僕が歯の治療を行っていた時期の話になる。
僕は家の近くにある歯医者さんに、数ヶ月通っていた。かなりの負担だったよ。痛みと費用的な意味でね。
ある日、僕を担当してくれていた歯科医さんが、近々、ここをやめて一人立ちをすることを教えてくれた。ついては、僕の歯の治療に関しては、その歯科医さんの新しい医院で受けてもらいたいとの話になった。
新規顧客の囲い込みか、と僕は少し渇いた感想を持ったけど、治療し続けてくれた歯科医さんが、一番、僕の歯の状態が分かっているはず。ここで別の歯科医さんに代わると、治療を一からやり直す羽目になる、なんて言われちゃってさ。
言うことに従うか、頑なに突っぱねるか。僕の頭には、お金がかからない方がいいな、という漠然とした考えしかない。そう考えたら、事情を知っている人に診てもらい続けた方が、治療期間も短く済むだろう。
今、考えると、これが本当に正解だったか、怪しいんだよねえ。
虫歯治療のあとに矯正も必要になるという説明があってね、僕は予め、変な生え方をしかけている親知らずを、すべて抜いてしまった。その時にガンガン叩かれる振動が、頭をぐわんぐわん揺するものだから、正直、気持ち悪かったよ。
それから治療が始まった。
歯医者って、思ったよりも治療に長く時間がかかる。毎回、横たわった身体の節々が痛くなったよ。
僕以外にも通院している人はいた。ただ、風邪気味なのか、大きいマスクをつけていたことが印象に残っている。
こんなに体調の悪い人を、立て続けに診なきゃいけないのか。そりゃ、医者が病気に強くなるよなあって、ぼんやり考えちゃったよ。
だが、僕の予想は外れているんじゃないかと、疑念を抱く日がやってきた。
その日は例の担当医に急用が入ってしまって、代わりの方が治療を担当してくれた。
先生は女で、とびきりの美人。いつもの担当医が強面で小柄なおじさんだから、そのギャップが大きくてね、思わず「ラッキー!」と心の中で叫んじゃったよ。
でも、それはすぐにぬか喜びだったことを知る。
時々、口の開き方が悪いせいで「もっと開けてくださーい」とか言われることが多いんだけど、その先生、尋常じゃないくらい口を開かせるんだよ。
音楽の時間でも、縦に並べた指4本が入るくらい、口を開けろと言われたことがあるけど、それ以上開いたままキープしろとかいうんだよ。唇の端なんか、痛くて仕方ない。
いつも通り、目にタオルを被せられてさ、猛烈に歯を削らされる。神経には触れていないみたいだけど、いつもに倍する気持ち悪さだ。時間の流れさえ忘れそうで、時たまはさまれるうがいの時間が、文字通りのインターバルだったね。
うがいをして、けずる。うがいをして、けずるを繰り返し、時間の感覚さえまひしそうになった時、ようやく先生の手が止まった。
「手鏡を渡すので、歯を確認してください」
先生がカルテを片手に、僕に手鏡を渡してくる。受け取った僕は鏡に自分の歯を映そうとしたんだけど、その直後に先生が「あっ」と声をあげた。
「いけない、これ、次の予約の人にやるものだった」
聞いちゃいけないセリフと共に、一度は握らされた、僕の鏡は取り上げられ、再び布を被せられた。問答無用に口をこじ開けられて、今一度、ドリルらしきものが突っ込まれたけど、あのわずかな間で、鏡に映ったものを、僕は覚えている。
異常に長く、鋭くなった犬歯。それ以外の歯も、刃物の先を思わせるような、とがったものに変わっていたんだよ。
人間の歯並びとは思えなかった。
鏡を取り上げられてからの治療は、今までのもたつき具合が、ウソのように早く終わった。改めて覗いた鏡には、見慣れた歯並びが映し出されていて、安堵のため息が漏れたよ。
待合室に戻ると、おじいさんが一人、腰かけていた。たいてい僕の直後に呼ばれる人で、いつもマスクで口を覆っている。何度か見たことがあるけれど、それだけの間柄。僕は離れた椅子に腰を下ろした。
やがて、名前を呼ばれた僕は、会計を済ませて歯科医院の外に足を向ける。背中では、あのおじいさんが呼ばれる声がした。
おじいさんのマスクの下は、やはり僕が見たようなものなのだろうか。もしかして、僕以外の人も……。
その歯科医に通わなくなった今でも、しばしば、思い出してしまう出来事だったよ。