アキノリさん
あ、やっぱりこーちゃんだったんだ。駅降りた時から、僕、ずっと後ろにいたんだよ。同じ電車だったのかもね。
気づいているなら、声かけてくれればいいのに? あ〜、まあ、そうなんだけど、人違いが怖いというか。
時々ない? 知り合いだと思って声をかけたら、他人の空似だったこと。あれで流れる、気まずい時間が嫌いでね、目的の建物の中とか、その人だという確証が持てない限り、僕は自分から話しかけないよ。それどころか、ちらりと影が見えただけで、遠回りすることもザラにある。
失礼極まりない? いやいや、勘弁してよ。過去の経験がものを言っているんだからさ。こーちゃんだって、この理由を聞いたら、ある程度は分かってくれると思うよ。
ことの始めは、今から三年くらい前にさかのぼる。大学に通うための一人暮らしに慣れてきたころ。
僕は、その日、猛烈にだるかった。空腹がいかんともしがたいほどだけど、自炊はしたくなかった。準備、片づけ、考えるだけで気が滅入る。宅配も考えたけど、僕は祝日以外に頼んだ覚えはない。結局、徒歩十分足らずのところにある、国道沿いの牛丼屋行きに決めた。
ところが、家を出て数分。向かいからやってきた、ベビーカーを引いていたおばさんが、不意に足を止めた。くたびれたエプロンを身につけて、頭には薄汚れた手ぬぐいを巻いている。
「あら? あら、あらあらあら?」
ゲシュタルト崩壊しそうな「あら」をくっつけて、近づいてくるベビーカーのおばさん。そのベビーカーも中身は空っぽで、ボロボロの毛布だけが敷いてある。
怖い。足がすくんだ。
「ねえ、あなた、アキノリさんじゃないの?」
誰だ、アキノリさんって。
「違います」と僕は即答した。お腹が減っていて、すこぶる機嫌も悪い。おばさんの尋問をするりと抜けて、僕は牛丼屋へ向かう。念のため、遠回り用に路地を一本多めに通ったけれど、あのおばさんは追いかけてこなかった。
気味が悪かったから、牛丼を持ち帰って、その日はもう外へは出なかったんだ。
翌日。学校までは自転車で十五分程度。ぐいぐい飛ばしていると、同じようにチャリをこいでいる、見知った後ろ姿を見かけた。ゼミで一緒の友達だ。
「オッス」と声をかけて、いつもしているように並走しようとする。これまでも偶然に居合わせた時には、決まって走りながらくっちゃべっていたんだ。
ところが、友達は一切反応せずに、前を向いたまま。もう一度声をかけたけれども、迷惑そうな顔で、こちらをチラ見。やはり一言もしゃべらないまま、僕を置いてどんどん先に向かってしまう。僕も追いかけたけど、結局、姿を見失うくらい早かった。
なんか機嫌が悪かったのかな。そう思った僕は、その日のゼミで彼に声をかけたけど、本人は「なんのことやら」と首を傾げていた。それどころか、今朝は僕と会っていないだろ、と言い出す始末。
他人の空似、なのだろうか。それにしてはそっくり過ぎた。僕はそんなことを思い返しながら、講義を終えて家へと戻る。その途中で、アパートのお隣さんの「アダチさん」が向こうから歩いてくる。時折、お惣菜をもらったりして、大いに世話になっている方だ。
僕は自転車から下りて、あいさつする。けれど、返事もなければ会釈もない。そのまま僕の横を通り過ぎそうな気配だ。
また他人の空似なのか。僕は思わず尋ねちゃったよ。
「あの、アダチさんですよね?」
その問いに対して、「アダチさん」は一言。
「違います」。いかにも迷惑そうな顔をして、足を早めた。もう僕には、止めるいわれがない。
それから数日の間、僕は屋外で知人によく似た人と、すれ違うばかりだった。ついには、僕の家族の空似まで出てくる始末。自分に自信をなくしかけたよ。さすがに家族の顔は、間違えようがないと思っていたんだけどな。
もしかして、みんなで僕を陥れようとしているんじゃないか。そんな突拍子もない想像さえしてしまう。だから、僕は父の空似と会った時、こっそりその後をついていったんだ。
父は僕の住んでいるところまで出て来るのに、電車を使う。その父のそっくりさんは、駅とは反対方向に向かって、歩いていた。僕はさりげない動きで、尾行する。
そっくりさんは背筋をピンと伸ばしたまま、迷いない動きで歩いていく。よそ見も一切せずに、ずんずんと大股で進むから、追っていく僕も一苦労だった。
彼の足は町中を通り過ぎ、やがて河原へと向いた。いつもなら少年野球やグランドゴルフとかでにぎわっている河川敷だけど、その日は誰も何もしていないようだった。ただ、鉄橋の上を、時間を置いて電車が行き来するばかり。
彼は土手沿いに歩いていくと、鉄橋の下のスペースに入っていく。昼間でもあそこは、陽が射しづらくて、とても暗い。そしてそっくりさんは、鉄橋の影から出てこようとしなかった。
あそこを寝床にしている、ホームレスなのか。それでも姿を確認しないと安心できない。家具のすきまに逃げ込んだゴキブリを、いぶり出したい気分に似ている。
そして、鉄橋十歩前まで近づいた時、僕は気がついた。鉄橋の影からわずかにはみ出している物体があったんだ。
それはあの、ボロボロの毛布を敷いたベビーカー。まさか、ここは彼女の……。
僕が想像するやいなや、影から彼女の声がした。
「みんな、アキノリさんよ。お出迎えしてあげて」
たくさんの何かが動く音。その主たちの姿を認めたとたん、僕は全速力で逃げ出した。
ゼミの友達、アダチさん、そして先ほど影に入っていった父、その他、僕が知っているもろもろの人。いずれも人違いだと分かった全員が、一斉に姿を現したんだ。
足音が後ろから聞こえてくる。僕は必死に頭の地図を広げながら、家を悟られないように、夢中で逃げ回った。追手がいなくなった時には、すでに日が暮れていたよ。
それから僕は住んでいたアパートを引っ越した。家の近くを知人が通るたび、探られるんじゃないかと思って、向こうから声をかけてくれるまで、返事はしなかったんだ。
こーちゃんも気をつけてね。いつ、こーちゃんも「アキノリさん」にされるか、分かったもんじゃないからさ。