命の尻拭い
つぶらやよ、考え事をする時に、お前にとって一番適しているのはいつだ?
風呂に入っている時、ふとんやベッドに入っている時、電車で揺られている時……ま、人それぞれだろうな。
俺か? 俺の場合はトイレだな。個室で便座に腰を下ろしている時なんかが、特にいい。
あの空間から隔絶されている感じ、独特だと思わないか? 誰だって生きている間は、ずっとお世話になるだろう。音が聞こえてくるのは仕方ないが、人の目をはばかるために作られた親切設計。自分と向き合うのに適した環境の一つだと思っているがね。
自分の中でごちゃ混ぜになってインプットされたものを、じっくりとアウトプットする。生物の仕組みって奴は、本当によくできているな。だが「尻拭い」という言葉も昔から存在している。自分が絞り出したものに関して、後始末は大事というわけだ。
俺自身も、尻の拭い方を考えないといけなかった事態がある。ちょっと恥ずかしい話だが、聞いてくれないか?
先ほどの熱弁ぶりからもお察しだと思うが、俺は昔からトイレ空間に安らぎを感じていた。その理由として考えられるのは、これだ。
俺、一人目の子供だから、えらく家では親にちやほやされて育ったのよ。
つらいこと、面倒なこと、全部、周りがお膳立てしてくれた。俺はそのまま流されるだけで、甘い汁を吸い、おいしい思いに何度もありつけたんだ。
右も左も分からない、ルールも知らない子供にとって、最初のうちはそれでよかっただろう。親は俺のご機嫌を取るために、俺が笑うと一緒に笑い、悲しむと一緒に悲しんだ。
何度もそうされているうちに、俺は周りが自分に合わせてくれるのが、当たり前だと思うようになっていたよ。世界が自分中心に回っている感という奴を、植え付けられちまったんだと思う。
幼稚園では、運よく問題を起こさずに済んだんだが、小学校に上がった後。特に高学年になったあたりから、俺は猛烈にストレスを感じ始めた。
頻繁に行われるクラスでの話し合い。低学年の時よりも、中身の詰まった案件に、俺は頭を絞ったさ。そうしてひねり出された案は、俺にとっては世界最高の出来。それ以外は有象無象の愚考に過ぎない、なんて思いあがったことを考えていたな。
結局、俺の案は敗れた。自分が有象無象だと思っていた、他の案の一つに。
俺の案は完璧だった。なぜそれを受け入れてくれない。決が採られた後でも、俺はしつこく食い下がったよ。
俺をいつも受け入れてくれるのが、世界だったはず。こんな世界、絶対間違いだ、という思いで、いっぱいだった。
周りから見れば、はた迷惑な奴にしか見えなかっただろう。俺に向けられる視線は冷たいものに、差し伸べられる手はまばたきするより早く消えていった。
自分は世界の中心なんかじゃない。肯定も否定もされる、コミュニティの一分子に過ぎない。それが現実。
――認めたくなかったんだろうな。生まれた時から、信じていたことを突き崩されちまった。俺は現状を打破するために「逃げ」を選んだ結果、休み時間になるとトイレに駆け込んだんだ。フロア唯一の洋式便座のある個室へ。
戸を閉める。便座に腰を下ろす。視線を落とし、耳をふさぐ。そして、自分が妄想した、心地よい空間に逃げ込む。それが当時の俺の、現実に立ち向かう手段だった。
以来、俺は教室にいないといけない時以外は、トイレにこもるようになっていた。自分を守りたいと思ったし、閉じ込められた空間にいる俺に、声をかけてくれる誰かを待っていたんだと思う。
けれど、俺がトイレにこもったところで、誰も気にしてはくれなかった。教室ではそれなりの受け答えをするくせに、いざ休み時間になるとどうでもよくなる。
俺は腹に据えかねていたよ。自分中心の特別感は、拭うどころか、ますます頑固にこびりついていたんだ。
俺の座る洋式便座には尻の洗浄機能がついていて、けっこう気に入っていた。誰かが勝手に俺のために動いてくれる。その最たる例だと、俺は感じていたんだ。精神安定剤といっても過言じゃなかっただろう。
そんなある日のこと。俺はその日も、昼休み中ずっとトイレにこもっていた。実際に用を足す必要もあって、これまたいつもどおり、「おしり」ボタンを押した。
聞き慣れた、ノズルが出てくる機械音。だが、その日の水流はいつもと違い、強い勢いがあった。
突き刺す、という表現がぴったりだったな。俺は穴に、水の槍をもろに突っ込まれて、「ひっ」と、飛び上がっちまったよ。実際、ちょっと血が滴っていた。
水の勢いは天井に届くほど。見たことのない事態に、故障を疑いながらも、俺は慌てて「止める」ボタンを押した。ノズルは引っ込んだものの、すでに空に舞い上がっていた水たちは、重力に引かれるまま、ばしゃっ、と僕をずぶぬれにした。
トイレでびしょ濡れなど、冗談じゃない。幸い誰もトイレにはおらず、僕はトイレットペーパーで、身体中をごしごしこすったよ。それでも多少の濡れはどうにもならず、何食わぬ顔で過ごすより他に、名案は思いつかなかった。
だが、その時以来、俺の成績はぐんぐん上を向いた。
全科目は軒並み点数が上がり、体育ではタイムが縮まるし、対人競技でも相手の狙いや球筋が面白いように読めた。
小学校のころってよ、勉強でも運動でも、「できる奴」がちやほやされるくさいな。ヒーローへの憧れって奴か。次々に、良い結果を残す俺に対して、やがて周りの方から、俺に声をかけてきたよ。それどころか、進んで俺の使い走りになってくれる人も出てきた。俺自身が「能ある鷹は爪を隠す」典型に見えたんだろ。
久しく忘れかけていた、かしずかれる快感。俺はまた天狗になり始めた。クラスでの意見も通りやすくなってくる。味方が増えたんだから、自然な流れだった。
やっぱり俺は世界の中心だったんだ。ようやく、価値がにじみ出したんだと、棚からぼたもちな事態に酔いしれる俺。とてつもなく心地よかったんだぜ。
やみつきになるだろうな。大勢の上に立つ快感と、精力を奪っていく快楽って奴はよ。
そうしてクラスで有頂天になって、何カ月も過ぎた。
俺は休み時間、今日もみんなに囲まれてくっちゃべっていたんだが、突然、腹痛に見舞われた。ゴロゴロと腸の中がうなり、脳みそに警戒信号を飛ばしてくる。俺は席を立つと、トイレに向かってまっしぐら。ゆっくり座りたいと思って、反射的にあの洋式便座に飛び込んだ。
腰を下ろした途端、俺の痛みは急激に尻に集まる。早く楽になりたい、と俺は必死で「いきむ」んだが……なかなか出てこない。
それどころか、すぼまった穴を無理やり広げているような、あのきつい痛みが襲ってきた。ブツはかなり固いらしい。こうなるたびに、自分の水分不足を呪うが、もう遅い。
ぎゅっと目をつぶり、尻が割れ裂けそうな激痛に、意識が遠のきだした時。ずるりと何かが抜け出る感覚と共に、下っ腹のつかえが取れた。あの長い雲が途切れて、晴れ間がのぞいたような快さ、つぶらやも分かるだろ?
だが、力の抜けた俺の耳に妙な音が聞こえてきた。普通なら「とぷん」と水音がしてそれっきりの便座の中。そこで水をかく、小さな音が混じっていたんだ。
俺はさっと便座から立ち上がり、まじまじと中を見る。わずかに色味がかった水の中で、赤いムカデのようなものがうごめいていたんだ。身体をくねらせながら、そいつは便器の奥へと消えていき、俺は尻を拭くことも忘れ、夢中で何度も何度も水を流したよ。
それからの俺は元通り、いやそれ以上のくずに逆戻りだった。
成績は例の一件以前よりも落ち込み、当初は慰めてくれていた連中も、時間と共に離れていく。みんなが俺自身じゃなく、俺の成果にすり寄ってきていたのが分かって、とことん人間不信になったよ。
小学校を卒業した後、中学、高校、大学、職場でも、一向に俺の運気は上を向かなかった。何をしても裏目に出てな、成功体験なんぞ全然ない。モチベーションもなく、その日を暮らすので精一杯。使い走りがいた頃が、まるで夢のようだったさ。
時々、俺は思う。あのムカデ、将来の運気全てを、俺に前借りさせたようだと。人生の絶頂期を味わわせ、それが済んだらおさらばする。搾りかすすら残さずに。
言い訳だと思うか? 俺の努力のなさを責めるか?
正解が何かはわからん。ただ、あの日から俺は、人生栄誉前借りの負債を返すという尻拭いを、課せられているんだと思っている。