絶対刻感
最近、先輩だるそうですよね。ちゃんと休んでいますか?
夜更かしが多い? あらら、いけませんね。仕事か趣味か分かりませんけれど、無理にでも睡眠時間は確保した方がいいですよ。休みだからって、「寝だめするぞ〜」とか、気持ちはめちゃんこ理解できますが、かえって疲れるみたいなんです、あれ。思い切っていつも通りに起きると、気分がシャッキリするそうですよ!
え? 私も疲れているように見える? ありゃりゃ、これでも目立たないようにしていたんですけどねえ。ただ、私の疲労は特別製なんですよ。こうして、存在しているだけでも疲れる日があるんです。
お、食いついてきましたね。先輩の興味を一本釣り、いただきましたよ! あまり信じてくれる人がいないから話しませんが、先輩にだったらお話しちゃいましょうかね。
体内時計の存在は、先輩もご存知ですよね? 心臓の鼓動から、植物の開花や鳥たちの渡りの周期まで、この体内時計が大きな役割を果たしているとのこと。
ただ、この体内時計って、きっちり24時間でカウントされているんじゃないらしいですね。一時期、25時間周期と言われていましたが、言い切ることはできないとも聞きます。そのずれを修正するためには、朝日とかを浴びる必要があるそうですね。
しかし、それらにとらわれず、常に正しい時間の刻みを測ることができる人が、ごくまれに見受けられるのです。
絶対的に正しい時間を刻むもの。これを絶対音感になぞらえて。「絶対刻感」と名付けられているそうです。
私は小さい頃から、親のしつけを受けて、規則正しい生活を心がけてきました。秒単位で行動を区切られるのが当たり前。トイレ以外は、予め、「この日は何時からこれ」と決められていましたね。
しかも、しつけが尋常じゃありません。私は父母と祖父母を含めた5人家族で、父が仕事に出ています。母と祖父母に面倒を見てもらったのですが、私を徹底的に時間で縛ってきます。
やれ、食事を始めるのが2秒遅れたぞ、とか、布団に入るのがコンマ1秒遅いぞ、とかです。それをストップウォッチも持たずに怒るものですから、言いがかりをつけているようにしか思えません。
でも、私が反論しようとするたびに、母からも祖父母からも容赦のないビンタが飛びました。すっかり痛さと怖さを刷り込まれてしまった私は、反抗する気力をなくし、叩かれたくない一心で、唯々諾々と取り決めを守っていきました。
その甲斐あってか、学校に上がる頃になると、時計を見なくても正確な時間が分かるようになりましたよ。授業が終わるのが、18秒ばかり早い。配膳の開始が23.5秒遅いとかですね。
もはや人間タイマーです。おかげで変な体験をすることもありましたよ。
私が中学校2年生の時です。
朝、起きた私は、すこぶる体調がよくありませんでした。大揺れの舟に乗っているみたいに足元がふらつき、吐き気がしてきます。食卓にはいつもいるはずの祖父母の姿はなく、母のみ。その母も、心なしか顔色がよくありません。
しかし、余計なことを尋ねたり、ご飯を残したりして、また叩かれたくないと思った私は、吐き気をこらえながらご飯をかきこみます。朝食時間もきっちり決まっていましたから。
台所のテレビではニュースをやっていましたが、私は違和感を覚えずにはいられませんでした。テレビの時計は「7時22分」を指してました。けれども私の体内時計だと、今は「7時21分57秒4」のはずなのです。
テレビが間違えるはずがないよなあ、と思いながら掛け時計を見ると、やはりテレビと同じ「7時22分」を指しています。
「もたもたしないで、早く食べなさい」と、母に急かされて、私はどうにかご飯を飲み下して学校に行く支度を整えます。その間、家中のすべての時計を見ましたが、やはり私の体内時計とは数秒単位でずれています。
私がおかしいのかな、と首を傾げながらも玄関に向かうと、お母さんが小さなスプレー缶を渡してきます。虫よけスプレーに見えましたが、ラベルには何も書いてありません。
「もしも、あなたが『おかしいもの』を見つけたら、これを吹きかけなさい」
お母さんの要領を得ない言葉に、疑問符を浮かべながら、私は学校に向かいました。
学校の授業は滞りなく進んでいましたが、私の不快感は収まることを知りません。
私の体内時計に対して、学校のすべての時計はわずかに早いのです。しかも、そのずれは時間が経っていくにつれて、少しずつではありますが、どんどん大きくなっていきます。
耐えられなくなった私は、休み時間を使い、ある仮説を立てました。
私の体調不良は、体内時計が、この時間のずれを感じたためだとする。もし、私の体内時計が正しく、テレビも含めた時計たちすべてが間違っていたら。
今朝、目覚めた時から、私の体調不良は続いていました。仮に午前0時ぴったりから、この時間のずれが起きているものと仮定します。現在の時刻はもうじき午後1時。13時間が経とうとしていました。
私の体内時計とのずれは、約4.6秒。4.6秒分、すべての時計が早いのです。計算してみたところ、1秒ごとに0.0001秒だけ、本来の時間より早く時間が過ぎていることになります。
そして、今日の下校時間は15時ちょうど。この時には約5秒のずれが、世界には発生することになります。
もしも、このまま本来の時間とずれ続けたら……私の頭に一抹の不安がよぎりました。
やがて、帰りのホームルームの時間になります。日直のお決まりの流れを聞き流しながら、「結局出番がなかったなあ」と、今朝もらったスプレー缶を、両手でもてあそび始めた時。
日直の声が途切れました。どうした、と顔を上げた私は、目を見張ります。
私をのぞく、教室の全員が声も出さず、石のように固まっています。先ほどまで風に揺れていたカーテンも、中途半端にはためいた状態から、動きません。
時間は凍っていました。私と――三つ右の机、座っている子の真ん前に浮かんでいる、「おかしなもの」をのぞいて。
「おかしなもの」は、見たところ、サッカーボールほどの大きさの蚊でした。羽音は、普通の蚊のそれの数倍はあります。でっぷりと膨れたお腹は、毒々しい黒と黄色のストライプに彩られていましたね。そして五寸釘もかくや、という大きさの六本の口針を、目前の女子の顔面につきたてようとしています。
私は反射的に立ち上がり、その子の元へと急行します。急ぐあまり、いくつかの机やいすにかすりましたが、彼らは微動だにしません。私にぶつかった痛みだけが残ります。
音を聞きつけて、私の方に向き直る巨大な蚊。その鼻先目がけて、私は例のスプレーを吹きかけました。
噴射口から出る、紫色の煙。それを浴びた蚊は苦しそうに、一層激しく羽ばたくと、のけぞるように離れていき――。
教室が騒然としました。みんなが動き出したのです。
驚いているのは、蚊の姿に対してではなさそうでした。時間が流れ出した瞬間、あいつの姿はパッと消えてしまったのですから。代わりに私を見て、机の女の子がびっくりしています。
「あなた、いったいどうしたの?」
どうやらみんなには、私が瞬間移動したように見えたそうです。先ほどまで机に座っていた奴が、一瞬の間に、三つ隣の机の前まで動いていたのだから、無理もありません。私にしては正味5秒くらいの出来事だったのですが、騒ぎにしたくない私は、頭を下げながらそそくさと席に戻ります。
今朝から続いた体調不良はウソのように消えました。そして、私の体内時計と、実際の時計の進みも、しっかりかみ合ったのです。
家に帰った私は、母と祖父母に出迎えられました。今まではなかったことに固まっていると、母がポンと肩を叩いてきたんです。
「これからも、頼むわね」と。
私は悟りました。このようなことがこれからも起きるのだと。
この現象、今でも時々、起こるんですよ、先輩。そのたびに私も同じことをしています。
昨日、先輩の背中から「わっ」とおどかして、先輩びっくりさせましたよね? あの時もそうだったんですよ。
でかい蚊はいたのか? さあ……どうでしょうかねえ、ふふふ。くれぐれも気を付けてください。今日も来るかもしれません。
「私たちは同じ時を生きている」なんて、創作じゃよくあるセリフですけど、違う時を生きているものも、またいるのですから。