脱兎のごとく
ん、こんなものでいいかな。
はい、つぶらやくん、ウサギリンゴよ。ちょっと耳を長めにしてみたの。皮も一緒に食べると栄養があるって、聞いたことがあるわ。きちんと洗ったから大丈夫。
勉強にせよ執筆にせよ、あんまり入れ込み過ぎちゃダメよ。こんな風に療養にあてる時間も、人生の大事な時間。そこからも新しい何かが掴めると思うの。行き詰ったら、たまには立ち止まって、周りをゆっくり見回してみて。もしくは動物と戯れるとかね。
つぶらやくんは今、動物とかは飼っていないんだっけ? 私の実家はウサギを飼っていたなあ。子だくさんだからお世話とかすごく大変で。
私の地元だと、ウチ以外にもウサギを飼っている家、たくさんあるわよ。理由を尋ねてみたら、面白い話を聞くことができたわ。
つぶらやくんのネタの一つになればいいけれど。
古事記に「イナバの白兎」の伝説があるように、ウサギというのはずっと前から、その存在を知られていたようね。
けれど、愛玩動物として大々的に扱われるようになったのは、最近になってからと聞くわね。それまではいざという時の食料や、狩りの訓練の標的として扱われていたみたい。
その傾向は戦国時代でも同じものだったらしいけど、今みたいに愛玩動物として見ていた人も、わずかながら存在したみたい。
その一つが、今から話すことよ。
その城主には、年の離れた二人の子供がいたみたい。
上の子は男の子で、将としての修練を積んでいたけれども、内心では戦を望んでいなかった。ただ、一刻も早い平和の到来のために、という強い使命感を帯びていたらしいわね。
下の子は女の子で、その代の一族では、数少ない姫だった。その姉たちも、周辺諸国や有力な武将たちに嫁いで、当家の地盤を固めるための、贄の花となっていた。
彼女もいずれはそうなる運命だと、幼いころから聞かされて育ったわ。けれど、できることならそんなことになる前に、戦の世が終わって欲しいと願っていたようね。
他の兄弟たちと比べても、この兄妹は特に仲が良かったらしいわ。兄は趣味も兼ねた狩りの際に、妹が大好きな子ウサギを捕まえては贈り届けた。
妹もまた、いずれ放したり、殺したりしてしまうだろう、ウサギのことを忘れないために、紙を折ってウサギを作り、兄にお守りとして渡したそうな。
「私はいつでも、兄上のそばにおりますよ」
妹の精一杯の告白を、兄は笑いながらも、厳格な口調でたしなめた。
「われらは、もののふ。黄泉路へつながるこの道に、そなたを巻き込むわけにはいかぬ。むろん、死に急ぎはせぬつもりだが、そなたは死んではならぬぞ」
無邪気な妹と、命を見つめる兄。価値観は違えども、お互いを思っていたのは、確かだったようね。
しかし、戦国の世は激しさを増していった。
ついに彼らの城も、大軍が攻め寄せてくるという報が届いたわ。すぐに迎撃のための兵が集められたけど、刈り入れ時ということもあって、十分な数が集められなかった。
兵士と農民を兼ねていた、兄妹の領地では、年貢と兵糧を確保するために、農民を残す必要があったのが大きな原因。
それに対して相手の主力は、金にものを言わせて雇った傭兵たち。農民たちに年貢を納めさせている間でも、兵を集められる。
その上、四六時中、武器を握っているような戦闘集団。数でも質でも劣る城主の軍は、次々に打ち破られていった。
父や兄たちが城を発って、何日も過ぎた。
戦の影響で、年貢の搬入は遅々として進まず、城の兵糧庫は心もとないまま、前線への荷駄隊も出さねばならず、米だけで空腹を満たせなくなっていたわ。そうなると、貯蔵しておいた、ウサギたちにも手が伸びる。
いくつもの昼夜を共にしてきた、ウサギたち。彼らが物言わぬ、変わり果てた姿となって目の前に現れるたび、妹は涙をのんだそうよ。
このままでは、父や兄たちも、ウサギたちも、すべてが失われてしまう。幼い妹は、ただひたすらに、戦いが早く終わることを願いながら、城の奥の間で過ごしていたそうよ。
その日の朝早く。
目が覚めた妹は、城二階の奥の間からつながる渡櫓の狭間から、外をのぞいた。危ないからやめなさい、と侍女に何度も止められたことがあるけれど、欠かすことない、彼女の日課だった。
兄たちが戻ってくる姿を、一刻も早くこの目におさめたかったから、らしいわ。ただ、その日は櫓の下に、見慣れた、人ではないものの姿を見かけた。
それは純白の毛を持ったウサギだった。調理場から逃げ出したのかもしれない。ウサギは櫓の下からじっと、妹の方を見上げていたそうよ。
誰かに見つかったら、捕まって食べられちゃう。そう思った彼女は、はじかれたように櫓の下へと向かう。すれ違う侍女たちの制止を振り切って、外に飛び出した姫は、先ほどと同じ場所でたたずむウサギの姿を認めた。
ウサギは姫を見つめて、軽く首を傾げると、文字通り、脱兎のごとく逃げ出す。そのまま放っておいても良かったけれど、あの騒いでいた侍女たちが現れたら、捕まる恐れがあった。どうにか城外まで導かないと、と妹が走り出した時。
いかづちが落ちたかと思うほどの音、光。一瞬遅れて、立つことができないほどの地震が、足元を揺らした。
倒れ伏した姫の目に映ったのは、自分が先ほどまでいた奥の間と渡り櫓の間に、大きく空いた穴と、立ち上る硝煙だった。パラパラと、壁を構成していたしっくいが剥がれ落ちて、妹の上に降りかかる。
更に続いて、二発。先ほどと同じ轟音と共に、黒い玉が宙を飛んだのが見えた。
一発は兵糧庫を。一発は火薬庫を直撃。小天守や他の櫓に燃え移った火の手は、たちまちのうちに広がっていく。
大筒。兄の話の中で聞いたことがある、鉄砲以上の威力を持つ大砲。圧倒的な威力で城郭を粉砕する様から、「国崩し」の異名を持つ、と。
奥の間には逃げ込めない。どこに逃げるか。人々の怒号が渦巻く中、辺りに目を走らせる妹は、ふと、先ほど駆けていったはずのウサギが、何歩か先で立ち止まり、こちらを見ていることに気づいたわ。人の混乱など、気にもとめぬかのように、その顔は真っすぐ妹に向いている。
ついてこい、ということかしら。
彼女は自分の勘を信じて、ウサギに走り寄っていく。その姿を見たウサギは踵を返すと、まっすぐに走り出した。その歩みは迷いなく、塀の破れ目、曲輪の隅など、人目につかず、かつ城から遠ざかる道筋を通っていく。
夢中で追いかけていた姫は、いつの間にか城を抜け出して、近くの小高い丘の上にたどり着いていた。振り返ったその瞳には、国崩しに無残に破壊され、火の手をあげる城の姿が映ったそうよ。
生まれ育った城との別れ。こみ上げる思い出と共に、涙があふれ出す。ひとしきり泣いたあと、彼女が辺りを見回しても、あのウサギの姿はなかった。
ただ、自分の足元には、かつて兄に渡していたはずの紙のウサギが、ひっそりとたたずんでいたそうよ。
身分を捨てて、農民に溶け込んだ彼女は、やがて、父や兄が討ち死にしたという噂を耳にすることになった。
兄はきっと、死した後に姿を変えて、自分を救ってくれたのだろう、と彼女は再び涙したらしいわ。
やがて彼女は出家し、ウサギのように長い耳を持つ、特徴的な頭巾をかぶり、残りの生涯を多くの命のためにささげたそうよ。