かみなりさまのおいた
へえ〜、「だるまさんがころんだ」に色々と派生の言葉があるんだね。
「ぼんさんがへをこいた」、「インディアンのふんどし」、「くるまんとんてんかん」……。
今度から別の言葉を使ってみるのも、面白いかもしれない。
僕の地元でも「だるまさんがころんだ」じゃなかったな。「かみなりさまのおいた」だったよ。
ルールは通常の「だるまさんがころんだ」と同じなんだけど、鬼にタッチしてからは純粋な鬼ごっこなんだ。それで最初に捕まった人が「かみなりさま」になって、ゲームを続行するんだ。
由来する昔話もある。こーらくんも聞きたいんじゃないかい?
「だるまさんがころんだ」という遊びに関しては、かなり新しいものだという研究が進んでいる。世界的に見ると、似たような遊びがたくさんあるのだけど、少なくとも日本では明治時代あたりまで、「だるまさんがころんだ」のごとき遊びは、姿を見せないらしいんだ。
というのも、昔は遊びにするのもはばかられる、儀式やまじないの一種だったと聞いたことがある。それが「かみなりさまのおいた」の名前に込められているんだって。
むかしむかしのこと。
僕の地元は、毎年、台風の通り道になっていた。そのせいで、雨、風、雷はお友達で、よそと比べて、雷雨を怖がる人はあまりいなかった。「子供は風の子、元気な子」とはよくいったもので、悪天候の中でも平然と遊びまわる子供がたくさんいたんだって。
そんな子供たちを、大人たちはめったに怒りはしなかった。けれども、ひどく雷が鳴る日には、決まって不思議な怪談話を聞かせたらしいんだ。
子供たちはその怪談話を怖がりながらも、どこかで軽く見ていた。考えないようにしていたのかもしれない。持て余した元気が、怖さを振り払うだけの虚勢を、彼らに張らせていたんだ。
ある曇り空の日。子供たちが村はずれの大きな木の近くで、鬼ごっこをしていた。
昼ごろに差し掛かった時、ふと遠くの空から「ゴロゴロゴロ」という音が、届いた。雷が来たな、とみんなは判断したけれど、まだまだ遠い。恐るるに足りない、と遊びを続けようとした。
次の瞬間、空が激しく、またたいた。
「あっ」とみんなが叫んだ時には、青いいかずちが、大きな木のてっぺんに直撃していたんだ。しかし、巨木が火に包まれることがなければ、雷もまた、光輝いたまま、巨木に突き刺さったままだった。それは天上と巨木を結ぶ、光の糸のようにも見えた。
「いかづち、地上に留まる時、おのれの腹に手を当てよ。へそがなければ、かみなりさまのお越しなり」
大人たちから聞いた、怪談の一節。子供たちは、そっと腹をなでる。触り慣れたくぼみの姿はなく、肉の腹が広がっているばかりだった。
天よりの雷は、やがてその輝きを失ったものの、代わりに巨木の幹は、青白く輝いていた。
「かみなりさまが来られたならば、逃げ出すことなどかないはせぬ。かみなりさまの戯れに、付き合うより他になし。付き合わざるもの、とく、裁きを受けるなり」
男の子供が一人、泣き叫んで逃げ出そうとする。しかし五歩も動かぬうちに、あの青い雷が脳天を貫いた。
子供はその場に倒れ伏す。いかづちに撃たれたその身体は、ぴくりとも動かず。けれど、一片の焦げもない。ごくり、と他の子どもたちはつばを飲んだ。
再び辺りが光ったかと思うと、数拍の間を置いて、ゴロゴロと空がうなり出す。
「動くのは、雷鳴とどろくあいだのみ。その間に、かみなりさまへと向かえ。止んだら、ただちに動きを止めよ。次に空が鳴りだすまでに、わずかな動きも許されぬ。それでも動くを望んだならば、動かぬものへと姿を変えよう」
子供たちはいっせいに走り出した。かみなりさまの御許は、輝く幹に違いない。
空がやむ。みんなはぴたりと止まったけれど、バランスを崩したのが何人か。彼らをあやまたず、青い閃光が貫いた。彼らは地に伏し、一寸たりとも動かなくなる。
それからも雷鳴のたびに、子供たちは幹を目指し、そして倒れ、物言わぬものへと化していく。しかし、すべてを踏み越えて、一人の子供が幹のもとへ。
「かみなりさまに触れるのだ。さすれば、へそも、罰せられし者たちも、すべて元に戻ろう。そののち、一切ためらい無用。不乱に己が住家へ向かえ。決して振り向いてはならぬ」
次の雷鳴が響く時、子供が幹へと手を触れた。
バチリと手がしびれたものの、もう片方の手で腹をなでると、へそは確かにそこにあった。先ほどまで、ぴくりと動かなかった、倒れ伏す者たちも、ふらつきながら立ち上がる。聞いていた通り、彼らは夢中で逃げ出した。
背中で何かが爆ぜている。逆立ち、チリつく、背中の産毛。そのむずがゆさに、子供の一人が振り返った。
巨木は激しく光っている。青いいかづちが、枝のごとく全身から乱れ生え、風もないのに踊っていた。それは一層、輝きを増していき……。
唐突に消えた。巨木だけではない。周りの景色が、いっぺんに夜になったかのように見えなくなった。足元すらも見失い、その場で子供は倒れ込んだ。何とか這っていく子供を、誰かが助け起こした。声からして遊び仲間の一人だ。
「どうして、突然、夜になった」という子供の問いに、仲間は答えた。
「何を言う。周りは昼間のままじゃないか」
そう、その子の目は、強い光により潰されてしまったんだ。生涯、景色を失った彼は、この体験の語り部の一人となった。
「かみなりさまのおいた」ならぬ「だるまさんがころんだ」が近代になって、ようやく広がった理由。それはいかづちの正体を、皆が掌握できるようになったからかも知れないね。