土下座王
なあ、つぶらや。正しい謝り方って考えたことあるか。
「ごめんなさい」だけで済むなら、警察はいらないって、ガキの頃からよく聞くし、確かに大人の世界じゃそれだけで済まないことがあるだろう。
注文した品に問題があれば、交換する。被害を出しちまったら、関係者に菓子折りを持っていく。あとは土下座だ。
特に土下座に対してはちょっと特殊だな。いくらやったところで、物理的な損害は補填できない。代わりに、相手の精神を癒す。相手が自分に対して平伏しているのを見ると、優越感とか陶酔感とかを、多かれ少なかれ感じるもんじゃないのか? それを持って「勘弁してください」という気持ちを受け取る。
相手に快感を与えること。土下座にはそんな謝意の表し方が、含まれているんじゃないかと思うのよ。
ちょっと聞いたことがあるんだが、今の法律だと、相手に土下座を要求するのは「強要罪」といって犯罪になるらしい。義務じゃないことを、無理やりやらせるからとのこと。
これがひと昔前だったら、大名行列の「下に、下に」が当たるんだろうが、そんな言葉をかけられる前に、すでにみんな平伏していただろうな。立ってたら斬られるだけだもんよ。
そんな、自分の命を大事にする精神が、遺伝子として残っている影響かもな。最近は土下座を、謝罪じゃなくて保身の手段だと、後ろ向きにとらえる考えが増えている気がする。色々な人がマスコミを通して、土下座を連発したからな。重みが消え失せたんだろう。
おかげで土下座を面白がる奴まで出てくる始末。すでに一種のエンターテイメントだな。だが、エンタメで済まなかったケースがあったんだよ。
むかし、うちのおじさんの同僚に「土下座王」のあだ名で呼ばれた男がいた。土下座がめちゃくちゃ芸術的だったんだってよ。
正座した時の姿勢、手のつき方、額のこすりつけ方、すべてがみじんもそっぽを向かず、相対した相手にきっちり向いているんだ。あそこまできれいな土下座は、今まで見たことがないと、おじさんが思ったくらいだったらしい。
聞いたところによると、地元では小さい頃から周りにいじめられて、土下座をしているうちに慣れたとのこと。この芸術的な土下座に感心する輩もいれば、面白がってことあるごとに土下座させようとする動きもあったんだってよ。
土下座は屈辱の極み、という考えのおじさんにとっては、抵抗もなく土下座をする同僚は、とんでもない恥知らずに思えた。土下座要員として徴用されるならまだしも、ちょっと相手が強気に出ただけで、へーこら頭を下げるのは、自分の品格を下げるも同じ。非を認めることで、自分を下に置きたくない、という若気も手伝って、おじさんの中で同僚の評価は高くなかったようだ。
「僕の土下座には、背負っているものがあるんだよ」と、いい張る同僚に対して、表向きは穏やかに接し、だが内心では卑下していたおじさん。
やがてある事件が起こった。
おじさんの勤める下請け会社に、珍しい大口の注文が入った。そこは何年も前に、おじさんの会社が不手際をやらかして以来、注文が減らされていたところだったらしい。同僚が土下座要員として向かった会社でもある。
なぜ、今さらウチに頼るのか。おじさんが少し探りを入れてみると、乗り換えた新しい会社が、社員の横領や違法取引の発覚など不祥事の多発により、あっという間に潰れてしまったとのことだ。
その会社はおじさんの会社にとって、ライバルのひとつだったから、その脱落に関して経営陣は胸のつかえがとれたんじゃないかと思う。おじさんたちにとっては、納期までのデスマーチの幕開けだったらしいけどね。
だが状況が変化したのは、社外にとどまらなかった。
毎年、入れ替わりの激しいおじさんの会社だったけれど、その年は上層部が軒並み入れ替わった。一身上の都合らしいけれど、おじさんが聞いたところでは、身内に不幸があったところばかりとのこと。
引継ぎの仕事をしている上司たちを見て、おじさんはふと思った。そういえば、今回辞めていく人たちは、全員、例の同僚の教育に当たっていたのではなかったか。厳しい指導で、新人時代のおじさんたちに恐れられていた者たち。そういえば、同僚は誰にも一度は土下座をしていたような気がする。
そして、デスマーチ明けの帰り際。
久しぶりの帰宅。たっぷり眠ろうと思って、おじさんは家路を急いでいた。けれど、最寄り駅の改札を抜けて、少し歩いた時、後方で怒鳴り声が聞こえた。
振り返ると、一方の背広姿の男が罵倒をし続け、もう一方の背広姿の男が土下座をしている。よく見ると、土下座をしているのは例の同僚だった。
相手の男のろれつが回らないセリフからすると、同僚が彼の肩にぶつかったらしく、それについて延々と説教を垂れているという状況らしい。
ずっと続くかと思われた説教も、遠くから響いてくる踏切の音で終わりを告げる。男は電車に乗りたいようだった。最後に悪態をついてつばを吐き、男は千鳥足で改札を抜けていく。
同僚はというと、男の姿が駅の中に吸い込まれていくや、先ほどまでの殊勝な態度などどこへやら。ひょいと立ち上がると、おじさんの方に真っすぐ歩いてきて、声をかけてきたらしい。
「今日もまた、背中が軽くなったよ」
底抜けに明るい声音に、おじさんは鳥肌が立ったらしい。
ほどなく、駅の構内から電車が急ブレーキをかける音。人の悲鳴。人身事故の発生を告げるアナウンスが流れて来る。
「さ、早く帰ろ」
それらを意に介さず、ぐいぐいとおじさんの腕を掴んで引っ張っていく同僚。普段から卑屈な態度ばかりとる優男が持っているとは、とうてい思えない強い力だった。
そういえば、こいつの土下座の姿勢。見事なまでに相手に向いているものだったよな、とおじさんは思ったらしい。
それこそ、背中を伝って何かが降り立つのに、これ以上ない向きと角度だったな、と。