別れ告げる校舎
おう、こーちゃん、今帰りかい。お疲れだな。
暑い日が続くよなあ。おじさんが小さい頃なんて、秋といえば過ごしやすい気温がウリで、うっとおしい蚊も姿をすっかり消していたもんなんだが。
最近は一年中蚊を見かける。それも数が増えたのか、自転車こいでると目に飛び込んでくる、教育のなってねえ無鉄砲が増えてる気がするぜ。こーちゃんも学校は退屈かも知れんが、しっかり学んどいたほうがいいぞ。蚊たちのごとく、無知なために危険を察知できず、最期を迎えるかもしれないからな。
それにしても、学生時代か。懐かしいな、もうどれくらい前かねえ。あれほど、バカをやって、好きに時間を使える時期なんて、二度と来ないだろうな。もし来たとしても、体力の切れかけた老人になってからだ。肝試しもできねえ。マジで心臓が止まっちまう。
ん、おじさんが学生の頃の肝試しに興味があるか? とはいえ、特別なことをしなくても、毎日が肝試しな学校だ。こーちゃんのネタになるといいんだが。
おじさんが小学生の頃は、校舎もまだまだ木造が多かった。鉄筋コンクリートの壁面、リノリウムの床なんて、現代の雰囲気はない。どこもかしこも、木の板を組み合わせてできていた。
金属に比べると強度で劣ると見る人も多い木だが、お国柄に合わせて研究された木造は、丈夫であると共に、歩く時などに、足にかかる衝撃をほどよく吸収してくれる。長時間動き続けても、疲れづらいんだ。
その分、衝撃を逃がすためにたわむものだから、「ギイ、ギイ」と大きな音が出ることもしばしば。それは同時に、気配を伝える材料にもなる。
静まり返った校舎の中。たった一人で歩く廊下。目的の教室について、はたと足を止めると、なぜかもう一つ、すぐ後ろから「ギイ、ギイ」と……ふふふ。
こんな現象が、学校の怪談につながっていったんだろうな。今回はおじさんが体験した不思議な話をしようか。
おじさんの通っている学校の七不思議の中で、最も規模が大きいものに、「おしゃべり校舎」がある。
文字通りの内容だ。誰かが会話していると、それに答えるように話し出すこともあれば、ひとりごとをつぶやくこともある。
おじさんの場合は、古典の時間。あまりの眠気に、机で舟をこいでいたら、先生に当てられちゃってね。「今の続きから、読んでみろ」なんて言われて困った。クラスメートたちはおじさんの公開処刑を、ニヤニヤ笑って見守っている。助けてくれる様子はない。
あせって、教科書をパラパラめくっていると、ぼそりと声が聞こえたんだ。
「89ページの3行目アタマからだよ」
耳元で囁くような、小さな声だった。驚いて辺りを見回したけど、おじさん以外の誰にも聞こえていないようだった。
でも、声の通りのところから読み出すと、たちまち周囲の笑みは消えていった。残念そうに舌打ちする奴さえいる。おじさんは窮地を脱したんだ。
ただ、後で色々聞いてみると、おじさんはたまたま運が良かったらしい。校舎の声を聞いたという、他の子たちは間違いを教えられたり、夜におねしょしたことをからかわれたりと、恥ずかしい目にあった人もいた。
朝一番に学校に来た人は、どこからともなく「平家物語」や「枕草子」を朗読する甲高い声を聞いたらしい。各教室を廻ったけれど、その校舎には自分一人しかいなくって、ぞっとしたんだって。
おしゃべり校舎の正体を突き止めようとした人は数知れなかったけれど、校舎を壊すような真似をするわけにもいかず、個々に呼びかけることがメインだった。
だが、故意に問いかけても、校舎は答えてくれなかった。おじさんのように、困った時に助けてくれたり、更に困らせたり、ふと漏らした言葉の揚げ足を取ったりする以外は、ほぼひとりごとや、一方的なからかいだった。しかも、ほとんどは当人にしか聞こえない音量だから、言質も取りづらい。
恥をかかされた生徒が、ところかまわず塩をまいたりしたけど、効き目はなし。おしゃべり歓迎派と、とっとと黙らせよ派に分かれて、喧嘩もあったっけなあ。
なんだかんだで、不思議な空間だった。そして、おじさんたちにも卒業の時が迫って来ていたんだ。
実はその学校は、おじさんたちの代が最後の生徒で、卒業後に取り壊されることが決まっていた。その時はその時で、「おしゃべり校舎」との別れを惜しんだものだけど、年をとってからだと、また格別の想いが溢れてくる。
自分の母校。ひとときの心の寄る辺を、永遠に失ってしまったんだと、思い返して心がぽっかりと寂しくなる時が、今でもあるね。
おじさんは校舎に助けてもらった人間の一員。他の人も名残を惜しみながら、一人、また一人と帰っていく。結局、先生に無理やり帰されるまで、校舎の前にたたずんでいたよ。
そして、先生方が校舎内に戻っていった時。おじさんは去り際にもう一度、「さようならあ」と校舎に向けて呼びかけたんだ。
そこから起こった事は、おじさんの脳裏に刻まれたよ。
校舎の屋上が、途端に黒くなったんだ。そこだけ夜になってしまったかのような、不自然な黒は瞬く間に校舎全体に広がったかと思うと……一斉に飛び立った。
校舎の隙間から飛び立ったものたち。遠目には分かりづらかったけれど、羽を持つ多くの虫たちに見えたよ。
彼らの羽音が、「さようなら、さようなら」とおじさんに向けて告げるんだ。その一群はきれいに列を保ったまま、煙のように空高くに消えていってしまったんだ。