益ありながら、罪深し
あ、つぶらやくん、そっちの虫退治は終わった? そう、お疲れ様。
いや〜、困っちゃうよね。うちの部活って虫苦手な子が多くてさ。私たちがいなかったらどうなっているんだろう。女の子なんか、私くらいしか対処できないってのに。
ああ、私は実家が田舎だからねえ。土いじりとか手伝っていると、こーんなに大きなクモに出くわしたりするわけよ。だから、こっちに出てきた時、指の先ほどの大きさでみんながキャーキャー騒いでいるの見て、びっくりしちゃった。小さい頃からの積み重ねって、やっぱり大きいのね。
――つぶらやくんも、好きこのんで、虫を始末したくないって顔ね。男手はこういう時に率先して駆り出されるでしょう。色々、うんざりしてきたんじゃない?
実際、さっき挙げたクモみたいに、利益をもたらす虫も多いのだけど、ルックスが生理的に受け付けないという人もいるわ。人同士ですらあり得るのだから、生態が違えばなおさら自然でしょ。
田舎のおばあちゃんから聞いた話だけど、興味ない?
害虫を駆除する、益虫とされながら、苦手な人が多いクモ。
まあ、見た目からして身体の作りが特徴的だものね。それに立体感が加わっているとなれば、「おお」と身震いしたくなるのも、少しは分かるかな。小さい頃から見慣れていると、むしろ当たり前じゃない? なんて考えちゃうから、育った環境って大事ね。
そして、よく言われるのが、「朝のクモは殺すな、夜のクモは殺せ」。
よく聞く俗信で、ルーツも色々と考えられている。それらがごちゃ混ぜになっているんでしょうね。
これはそれらのルーツの中で、江戸時代に語られたものだと言われているわ。
この頃になると、古来から伝わった「土蜘蛛」伝説などから、新しいクモに関する怪談話が多く語られるようになっていたわ。
これらは書物に多く記載され、読み書きのままならない幼少の頃に、祖父母などの年配の方々から教わることが多かったらしいわね。
いわゆる「すりこみ」教育の一貫よ。知識の多さは、相手の感心を促し、訓戒を交えて繰り返すことで、後々の人生の指針とする。「しつけ」がいかに大切さかがうかがい知れるわ。
「朝のクモは殺すな、夜のクモは殺せ」。その教え、とある商家でも教えられていたことみたいね。
大ぐもの怪談を聞いたばかりの跡取り息子。夜におばあちゃんに尋ねてみたらしいの。
「話の中の男はクモに生気を吸い取られて、まともに動けなくなってしまった。それでも朝のクモを生かしておいていいの?」
怪談話って、小さい頃に聞くとインパクトが大きいせいもあったのでしょうね。男の子は怯えた声音で、おばあちゃんに問うたわ。
すると、おばあちゃんはゆったり答えた。
「朝というのは、一日の始まり。命全てが、これから仕事をして、元気になっていく。それを無理やり止めるのは、必ずどこかでひずみが生まれる。対して、夜は一日の終わり。陽と共に、命全てが暮れていく。ここで働く者に、ろくな奴はいない。だから、始末するべきなのじゃ」
おばあちゃんの言葉は、男の子にとって納得できそうで、できないものだった。何か、あいまいな言葉で濁されてしまった気がしたんだって。
心のもやもやは取れないけれど、昼間は忙しい両親の代わりに、勉強を教えてくれる先生でもある。ひとまずは納得した態度で、床についたそうよ。
男の子はすでに十歳前後。どこかに丁稚奉公に出されてもおかしくなかったけれど、「まだまだ。このままでは恥をかく」という、家族の意向で、あと一年間は勉強しろ、ということになったみたい。
その商家の裏手の雨どいには、クモの巣ができていて、朝は大きいクモがいる。おばあちゃんは毎朝、そのクモを眺めていたみたい。「こうやって見ていると、今日の天気から、客の入りまでよく分かるのよ」って。
実際、おばあちゃんの予想は、だいたいが当たっていた。遠方からの来客以外は、ほとんど予測ができたみたい。そのクモも夜間はなぜか巣におらず、教えに則って殺されてしまうこともなかったそうね。
でも、男の子としては、クモの怪談話を聞いて以来、すっかりクモが嫌いになってしまっていた。昼夜を問わずに、息の根を止めたいと思っていたみたいで、実際に家の中で見つけたクモたちは、全部、その手で誅したらしいわ。
当然、おばあちゃんが毎朝語りかけているクモも、対象だった。彼はおばあちゃんの体調が優れず、寝たきりの日に、こっそりクモを始末したのよ。
ところが、その晩。おばあちゃんの容態は急変した。ただの風邪だと思っていたのが、ふとんの中で激しく全身をかきむしり、悶えながら苦痛に満ちた叫びをあげたわ。
駆けつけたお医者様が、診察のためにおばあちゃんの服を脱がせると、集まった皆による悲鳴が、部屋に満ちる。
おばあちゃんのお腹を中心に、クモの巣の形をしたミミズばれが、足から胸まで広がっていたんだって。
おばあちゃんはその場にいた、男の子をにらみつけたわ。
「たわけ! たわけたわけ! 本当に朝にクモを殺しおったな! 朝から仕事をするのが当然。夜に仕事をするのは悪者だと、あれほど言ったじゃろうが! もう、おしまいじゃ!」
おばあちゃんは怒りの形相のまま、鬼籍に入った。その表情は、一同を震え上がらせるほどの恐怖を持って、それぞれの胸の内に刻まれたわ。
それ以降、男の子はクモそのものに近づくことすら怖くなり、始末するどころが逃げ出すようになってしまったそうよ。
店も徐々に客が減り、看板を下ろさざるを得なくなった。他の大きな店が、自分たちの目玉商品とよく似たものを売り始めたのが大きかったらしいわ。
門外不出の技術で作られたはずの商品が、どうしてこのようなことになったのか、男の子には何となく察することができた。
クモたちは夜の間に様々なものを盗み出すのだ。そして、朝にはそれらを縁あるものに伝えてくれるのだと。
だからこそ、益をもたらす朝のクモを殺さず、宝を盗み出す夜のクモを殺すべきなのだろう、と。