名もなきヤナギ
どうだい、こーらくん。ヤギのミルクを飲んでみた感想は?
ちょっと獣の香りがする? ああヤギ肉は香りがきついものが多いからね。ちょこっとミルクに影響が出ているかも知れない。でも、思ったよりも飲みやすかっただろう?
牛乳に比べると、ヤギの乳の知名度は、まだまだ発展途上だ。前者よりもアレルギーが出づらいと先生は思っている。これからに期待といったところだ。
しかし、動物としての知名度なら、決して牛に引けを取らないだろう。紙を食べる、なんてイメージが浸透しているくらい、昔から存在する家畜。色々な話も存在するんだ。
聞きたいかい?
ヤギは大昔から人間と共にある、代表的な家畜だけど、日本に初めてやってきたのは15世紀のころ。中国や朝鮮から輸入されてきたのが、始まりらしいね。
更に、乳用のヤギとなると、黒船来航時に、ペリーが持ち運んだのが発端と言われているから、ヤギのミルクはまだまだ歴史が浅い。牛乳に比べると1000年くらい水をあけられている。そりゃ、普及率に差が出るわけだよね。
生物として見た場合だと、ヤギは乾燥した地域での飼育に堪える強靭な体と、粗食かつ水分が少なくても、体調を維持できる点が大きい特徴だ。ただ、さっき話にも出したように、紙を実際に食べさせるのは、身体に良くないらしいんだよ。
日本の農耕文化において、ヤギはウシほどの役割を果たすことができない。なので、水田に適した土地が少ない九州南部を中心に、ヤギの取引が行われ、家畜への道を辿ることになったみたいだね。
島原・天草一揆が起こり、大勢のキリシタンが処せられ、日本と貿易する国は極端に少なくなってしまった。それでも、当時の中国たる清国とオランダは、どうにか貿易を続けていたんだ。
とある港に、中国船がたどり着いた日のこと。今回の売り物の中では、ヤギがひときわ多かったんだって。すでに家畜化の計画を進めていた商人たちは、こぞって買いつけたらしい。
そして、商談もひと段落して、改めてヤギの品定めを始めようとした時。
ヤギたちがこぞって、水べりにあった一本の柳の木に向かって、鳴き始めたんだ。その柳の木は、昨年、落雷が直撃し、根元近くまで真っ二つになっていた。かろうじて二股に分かれているものの、バランスの崩れたしだれ柳は、どうにも周りから浮いた存在だ。
ヤギたちは次々に柳に向かって鳴きたてて、なかなか動こうとしない。
何かを伝えようとしているのか。商人たちはさして興味を示さなかったが、迷信深い船の乗り手たちは、謎の真意を確かめたがった。
ヤギたちを縄でつないだまま、ゆっくりと柳に近づける。すると、一匹のヤギが柳の裂け目に向かって駆け出していき、ぴょんと飛び越えたんだ。他のヤギたちもそれに続き、柳の裂け目を飛び越えていく。飛び終えたヤギたちは、先ほどまでの憑き物が落ちたように、大人しくなってしまったみたいだ。
それを見た、ヤギの買い手の一人が大いに笑った。
「ヤギが、名もなき『ヤナギ』をまたぐか。正に『ヤギ』。名は体を表すのう」
一同も釣られて笑い、大人しくなったヤギたちは、予定通り売られていった。
その後も、この港でヤギを下ろすと、決まってこのヤナギの木をまたごうとしたらしい。ヤギに関するゲン担ぎとして、あえてこのヤナギに、名がつけられることはなかったとのこと。
やがてヤギが本格的に家畜化すると、外からの輸入が減り、この港でヤギがやり取りされることは少なくなった。同時に「名もなきヤナギ」も人々の記憶から薄れていったのだけど、その柳の最期は、また印象的なものだった。
あの頃のヤギたちから、何世代目かに移った時のこと。
ヤギの肉や乳を購入する者が、目減りし始めたんだ。単に人気がなくなっただけかと思ったが、聞いてみると「肉や乳を摂取して、体調不良を起こした者がいる。確証はないが、購入は控えさせてもらう」とのことだった。
早急に原因を突き止めなくてはいけない。何人もの医者が呼ばれて、ヤギたちが調べられたが、はっきりとした原因は掴めず。
どうにかして、元を絶たなければ、生活が苦しくなる。家族で相談していた時、一番の年配。当時、あの「名もなきヤナギ」のウワサをした老人が提案した。
「『名もなきヤナギ』に本当のヤギを問うてみんか」
若い者たちにとっては、「名もなきヤナギ」は、老人のたわ言に受け止められていた。だが、年の功で無理やり押し切り、老人はかつてのあの日のように、縄にくくりつけたヤギたちを、いくつかのまとまりに分割。日ごとに「名もなきヤナギ」に向かわせた。
そして、数日後。
多くのヤギが、喜んで「名もなきヤナギ」を飛び越えていく中、露骨に嫌がる一匹がいた。老人は無理やり、そいつをヤナギに向かわせる。しまいには、杖で打ちつける始末。
あまりの横暴に、家族が止めに入ったが、老人は構わずに嫌がるヤギをヤナギの下へと追い詰める。
瞬間。しなだれたヤナギの葉たちが、磁石が引きつけられるようにして、ヤギの身体に吸い付き、持ち上げ始めたんだ。
異様な光景に一同は唖然とし、捕らわれたヤギは裂け目へと導かれる。そして、裂け目の中央まで来た時、二又に分かれていた幹は、ハサミを合わせるように勢いよく閉じて、ヤギの胴を挟み込んだ。
響き渡る、ヤギの悲鳴。それを聞きつけて、近づいてきた人々の前で、ヤギの身体からどす黒い煙が噴き出した。
墨がそのまま気体になったかのような煙は、ヤナギの木全体を包み隠すように広がっていく。
ややあって、煙が晴れた時。そこには一気に何百年も年をとったように、枯れてしまったヤナギと、骨だけになってしまったヤギらしきものが残されていたらしい。
「ヤナギの中を抜けぬ者。やはりヤギにあらざるか。ますます、我らは気を付けねばならん」
老人はそう一人ごちて、これからヤギを飼おうとする者たちに、気を抜かないように呼び掛けたそうだよ。
本物に紛れ込もうとする何者かを、今度は自分たちだけでも判断できるようにならなければいけない、とね。