貸すぞ 借りるよ
あ、消しゴム忘れた! 悪い、貸してくれないか?
すまねえ。どうも持ち物の管理がなってないな。
ところで、つぶらやはよ、気軽にものを借りることができる奴って、どのくらいいる? 俺はそこまで多くない。お前を含めて、一握りだ。
文字通り、「借り」って奴は、できるだけ作りたくないだろ。その分、「貸し」という奴はたくさん作っておきたいと思わないか?
世話になった人には、何かしらの方法で恩返しをするべきである……「恩の返報性」というものみたいだな。昔から、色々な駆け引きで使われているテクニック。
ほれ、フィクションでもあるだろ。飛ばされた帽子をキャッチして始まる、ボーイ・ミーツ・ガール。つながりを意識するには、恩って奴はでかいだろうぜ。
だが、できたつながりが必ずしもプラスになるとは言えんな。妙なつながりを増やさないようにしよう、と俺が感じた話をしようか。
俺のダチが中学生くらいの時だ。
あいつは全教科の教材を、毎日持ってくるような奴だった。置き勉が許されない学校だけに、ちょっとした筋トレにはなったかもしれないな。
それだけ用意周到だと、学年中で頼りにされるんだ。忘れ物キラーとしてな。教科書とかを忘れると、すぐにダチに借りに来るわけ。
最初は善意で貸していたんだが、どっかのバカが借りた教科書を無くしたらしくてな。それ以来、ダチはすっかり貸し借りというものに関して、敏感になっちまったんだ。
貸した奴のリストを作って、借りた回数に応じて、見返りを要求する。まるっきり営業マンみたいさ。
モラトリアム万歳な学校じゃ煙たがられる行為。まあ、そういうポーズで、しょっちゅう借りてくるうっとおしい連中から、距離を取ろうとしたのかもしれないけどな。
やがて、席替えの時期がやってくる。
ラッキーなことに、ダチの隣は、絶賛片思い中の女の子。いつも身体のどこかにガーゼやばんそうこうを貼っているような、バリバリの体育会系。
多くの女子がぶりっ子な仕草で「カワイイ〜」とか盛り上がっている中で、黙々と取り組む姿勢を崩さない彼女に、強く惹かれた、と話していたな。
だが、当時のダチは、貸し借りを通して、ドライさを増していた時期。血の通ったコミュニケーションを、どのように取ればいいか、分からなくなっていたってよ。
幸いといっては何だが、彼女は男子と普通に接してくれるし、それなりに忘れ物もしていて、男子に何度か物を借りていたのを、見たことがある。
「忘れ物してくれないかなあ。君なら真っ先に貸しちゃうのになあ」なんて湿っぽい考えが脳みそを濡らす。アクティブにきっかけを作れない自分が、典型的なヘタレで、嫌悪感が募ったって言ってたな。
だが、チャンスというのは、案外、正攻法でやって来る時もある。
その日は走り幅跳び。ダチは計測係の一員だった。巻き尺もって、記録を測る係だな。
男女混合で行っていて、例の子が測る番が来た。スタート前に手を挙げた後、真っすぐに疾走してくる。
気になるあの子の、色々な躍動が見られたら、そりゃ男はチラ見しまくりよ。彼女が踏み切るまで、不自然じゃないレベルで彼女を横目で眺めていたらしい。
しかし、踏み切った瞬間。彼女の膝についていたガーゼが剥がれた。同時に、ポタポタと血が滴り、ぽつぽつと、砂場に黒い斑点を残す。
ダチは一瞬、惚けたそうだが、反射的にポケットに入っていた、ハンカチを取り出して差し出す。彼女も少しびっくりした顔をしたが、すぐにニコリと笑ってお礼を言ってくれたそうだ。
「そのうち、返すね」
自分に向けてかけてくれた、何気ない一言で、ダチはすっかり舞い上がっちまったらしい。事情を知る奴からは、こっそり「うまくやったな」と耳打ちされる始末。そら、テンション上がるわな。
ダチが聞いた話だと、彼女が借りたものを返すタイミングはまちまちらしい。翌日の時もあれば、一週間後に新品を用意して返すこともある。
少々、不義理なイメージがあるが、この頃の男子の妄想力は大したもんだ。比較的、きれいどころの彼女が、何を気に入っているのかに、興味しんしんだったって話だぜ。
一日経ち、二日経ち。彼女がハンカチを返してくれる気配はない。貸し借りにうるさいダチも、気になる女子が相手じゃ狭量なところは見せられねえ。彼女がペコペコ頭を下げるのを、笑って受け止めていたらしい。
それから、更に数日。ダチが塾帰りに、いつも通っている橋の上を歩いていた。たまたま人も車も少ない、静かな時間だったらしい。
だから気づくことができたんだろう。真下の河原で草を刈っているような音が、かすかに聞こえた。
興味本位でダチがのぞいてみると、制服姿の彼女がいた。手にハンカチを持って、あたりの草を薙いでいる。遠くて分かりづらいが「もしかして俺のかな」なんて思ったらしい。
だが、取っている行動以上に、不思議なことがある。
本来、彼女がいくら鋭く草を薙ぎ払っても、手の届く範囲でしか倒すことはできないはずだ。
それがどうだろう。彼女がひと薙ぎすると、波が広がるように草が次々にのけぞっていく。
見えない何かが、草の上を滑りながら押しつぶしている。ダチはそんな感じがしたんだが、草の航跡を追っていた彼女が、「あっ」とダチの方を見上げて、叫ぶのと同時に。
ダチの足元の反対側。橋の裏面にあたるところで、誰かが激しく足踏みをし出したんだ。揺れの強さは、思わずひざをつくくらいだった。
そのわずかな間に、足音は裏側から欄干へ。何の姿も見えないが、夏の暑さを閉じ込めたような熱風が、ダチの肌に叩きつけられる。
「何が来る」と思わず身構えたダチの視界の端で、河原の彼女がクラウチングスタートの姿勢をとった、次の瞬間。
彼女が目の前の、欄干の上に立っていた。スカートを風になびかせながら、手にしたハンカチを振るう。
じゅっという、熱した鉄を水に突っ込んだような音と共に、足音は消えた。ただ、ハンカチは真っ黒に染まって、角からは墨汁のように濃い水が垂れていた。
彼女はため息を一つつくと、片足立ちになったまま、器用にその場で半回転。ダチに向き直った。いつも通りの笑顔だったけど、ダチにとっては、いつも通りなど、すでに彼方へ吹っ飛んでいた。
「今日のこと、オフレコでお願い。あとハンカチはもう少し貸して。ごめんね」
ダチがかくかくうなずいている前で、彼女は細い欄干の上を、平均台を歩くようにバランスを取りながら、ゆったり去っていったらしいぜ。
結局、ダチのハンカチが返ってきたのは一カ月後。彼女もいつもに増して、ガーゼをあちらこちらにつけていた。
そして、先生は彼女の転校を告げる。クラス中が騒ぐ中で、ダチは何となくそうなるんじゃないかと思っていたから、冷静だったらしい。
「ありがと。ハンカチ、助かっちゃった」
別れ際に、彼女がダチにかけた最後の言葉が、それだった。
自分が貸したものが、どうなっているのか。
考え出したダチは、以前ほど、アコギな貸しを作るのは止めたという話だぜ。