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刺身のさばき

 ああ、こーちゃん、おかえり。買い物頼んで悪かったね。暑かったろう。

 うちの子ね、誕生日になると、刺身が食べたいとか言い出しちゃうんだ。おばあちゃん大好きっ子なだけに、好みまでおばあちゃんに似てきてしまったみたい。

 なまものだから、すぐに食べたいところだけど、今、家の者が順番にシャワー浴びちゃっているんだよ。一家そろって汗っかきだからね、すぐびちょびちょになっちゃうの。

 全員揃うまで、少し時間あるわね。保冷剤をちょっと足したら、少し魚に関する話をしましょうか。こーちゃんも聞きたいでしょう?


「お刺身」「お作り」が料理として一気に広まったのは、江戸時代だと言われているわね。

 江戸前での漁。臭いを抑えて、保存にも役立つ、「しょうゆ」の開発。この二大要素のおかげで、多様な生魚を食す、世にも珍しい食文化が花開いたとの話。

 ただ、鮮度が落ちやすい。当時の技術で、食べられる状態を保ちつつ、江戸の外に持ち出すのは難しく、京阪では鯛など、昔ながらの淡水魚が食べられ続けていたようね。

 そして、大量生産されるようになった、しょうゆと共に、料理屋を飛び出す生魚たち。

 屋台「刺身屋」の登場よ。


 刺身屋のウリは、安さ。料理屋に比べて、安価で手軽に腹を満たすことができる。

 とある魚屋さんでは、パフォーマンスも兼ねて、店頭でカツオをさばき、横で屋台が刺身を売るという形式が行われていた。

 さばく板前さんも見事なもの。三枚おろしから腹身を刺身にするまで、よどみなくやってのける。それを容姿端麗な刺身の売り子さんが、ツマを添えて皿に盛っていく姿は、まさに芸術品。

 たちまち、人気を博して、日々、お客さんが列をなしていたそうよ。


 その魚屋さんだけど、繁盛するのに、あまり人手を雇わないの。

 せいぜい売り物の魚を並べるための日雇いくらいで、調理全般はもともと店にいる人たちが請け負っていた。

 働きにいった人の話では、魚選びから調理まで自分たちで行ってしまうので、帳簿仕事くらいしかないという話。

 そして、彼らは当時の大衆魚であったマグロやカツオ以外は、扱わなかったそうよ。たとえおめでたい日であっても、鯛の一匹も出さず、マグロとカツオの盛り合わせを出していたみたいね。

 このスタイルに好き嫌いはあれど、刺身や寿司はずっと人気があったから、店が続いていたみたい。寿司って、長命を表す「寿」を「司る」と書くんだから、ゲン担ぎが大好きな人が、足繁く通っていたと聞くわ。


 数年の時が流れて。

 江戸から明治に移り変わる頃。マグロをしょうゆに浸した「漬け」で食べる形態が流行り始めたわ。

 寿司屋は増加を続け、マグロ漁、カツオ漁も隆盛。地域によっては、すべての魚を取りつくすのではないか、と不安になる者が現れるくらいだったらしいわね。

 件の魚屋、刺身屋も相変わらず商売を続けていたけれど、もうけは先細りになっていった。

 けれども、彼らの顔に苦しそうな色が浮かぶことはなく、むしろ晴れ晴れとした、これ以上ないくらいの喜びが、あふれるようになったわ。

 商売の終わりは目に見えている。何か方策を考えなければ、先はない。それにも関わらず、件の魚屋はマグロやカツオのみを売り続けたわ。

 このこだわりだけは、絶対に捨てない。その意志がはっきりと皆に伝わることになった。


 そして、明治に入ってほどなく。

 魚屋は看板を下ろすことになったわ。予想通り、他の多様な魚を売る店にお客が流れていき、文明開化の影響もあって、牛なべ屋が台頭。新しい文化の波に飲まれるように、消滅の時が訪れたわけ。

 最後まで働いていた、小僧さんも暇を出されることになる。彼は魚屋の店員さんたちと過ごした時間が忘れられず、商売を替えたとしても、皆さんの下で働きたいと申し出たそうな。

 けれども彼らは「小僧さんには小僧さんの未来がある」と言い置いて、去っていってしまったそうよ。


 一度は立ち去るように言われて、何十歩か歩いた小僧さんだけど、やっぱりお世話になった彼らのことが気になった。

 青春はあの魚屋と共にある。ここは言いつけに背いてでも、彼らを見送るのが筋ではないのか。

 そう思った小僧さんは、彼らの去っていった方向に走り出す。

 立ち並ぶ店の中ものぞきつつ、歩を進める小僧さん。やがて、波止場にたどり着く。

 いたのよ。例の店員さんたちが。小僧さんに背を向けて、全員が海を眺めていた。

 まさか、身投げをするつもりでは。そう思って駆け寄る小僧さんに気づいた店長が、彼を止める。そして、こう語ったそうよ。


「私たちの商売の目的は、敵討ちだった。親を殺した者たちに、地獄の苦しみを味わわせてやろうと、皆で力を合わせて、店を盛り立ててきた。だが、もう気は済んだ。あやつらは人という新たな天敵を得た。あやつらの美味は、これからも多くの舌をとりこにしよう。私たちのみならず、あやつらももう安心できぬ。死と共に生きる。これでいいのだ」


 言い終わると、店長さんたちは、一斉に海へと飛び込んだわ。

 そして小僧さんが目を見張った、次の瞬間。

 小さな小さな魚たちが、群れをなして水面近くに浮かび上がった。

 彼らは小僧さんをわずかに振り返ると、蒼く深い水底へと、姿を消していったそうよ。



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