第三章3 『作戦会議』
凍てつく空気の中、舌を鳴らす音が一つ破裂した。
それを弾いたのは紛れもないグレーテルだ。彼女が王国を訪れてから体調や機嫌が良いとは言えはしなかった。だが、それでも今までの彼女が他者へ無造作な鬱憤を吐き出すことなんて——。
違う。グレーテルは今までそうやって、
「——チッ。ただの人間の分際で……」
人間をそうやって嫌い嫌われ、蔑み蔑まれ、疎み疎まれ、憎み憎まれ、厭い厭われ、忌み忌まれ、負の感情を抱いて抱かれていたのだ。
「どいつもどいつもどいつもどいつも……」
何も分かっちゃいなかったんだ。分かりたいが故に、分かったふりをしていたのだ。気取っていたのだ。人間である自分を慕ってくれるから。信じていたかったのだ。
「——兄さん」
憎しみの塊をドロドロと垂れ流すように零した末、たった一人へ囁いた。
呼ばれた。嬉しかった。助けてやりたい。心の底からそう思った。だが、ツルギは瞬間的に体を跳ねさせて瞳孔を震わすことしか出来ずいた。それは、人間である柵なのか、彼女が囁いた言葉がひどく遠く感じたからか。どちらでもない。ただ、何を口に出すことが正解か分からなかったのだ。
だが、思考の海に理性が溺れていれば時間を与えずにグレーテルとツルギの間に座るカガミがグレーテルの手をそっと上から覆って力を込める。それは魔力などではない。ただの慈愛。
「グーちゃん」
「————」
慈愛に包まれた憎悪は影を潜めるのに時間は掛からなかった。
だが、やはり導火線に灯された火は憤怒へと近付く。
「おー、今なんつったー? 人間がなんだってー?」
刃物となった眼は先刻ツルギに向けられた瞳よりもさらに鋭さを増している。ツルギは息を潜めることしか出来ない。この状態を放置したとしても良い結果は産まないと分かっていてもグレーテルの抱く人間への憎悪とシンの『暴食の担い手』として人間を蔑む態度への憤怒が煮詰まる間に割って入ることは容易ではない。それは他の者も同義。
だが、鈴の音色と勘違いしてしまいそうになるほど綺麗な声がその空気を払拭する。
「——二人ともやめて」
それは灼熱の髪の少女。渇いた瞳が面々の中心の空いた空間に落ち込む。一度の瞬きの後にグレーテルを見やって、
「グレーテル。あなたの過去は一番分かっているわ。でも、今の心情は分からない。だけど、分かってあげたい。それでも、今はその時間はないの。分かって? いいわね?」
「…………」
口を閉ざしたまま、数秒の間を空けて頭をコクリと一度ゆっくり頷かせた。それを見届けてからシンを見やり続けた。
「シン、あなたも分かって。あなたたちの気持ちも私は分かる。今言いたいことが他にもあることも分かる。でも、今はその時ではないの。いいわね?」
「……っ」
口元に力がこもるシン。内心の納得が全面的に表情と行動に出る。
アテラと見つめ合っていたが、アテラの言い分を飲み込むように頷き気味に視線を逸らした。
「みんな、グレーテルのこと知っていると思うわ。この子は、あの『アリスメル村』の外れにある隠れ家で暮らしていた……『暴食の担い手』グレーテル」
グレーテルの正体が明白になった瞬間、シンとチーは生唾を飲み込んだ。
そして、アテラは次の話題。今回の本命である話へ移行させる。
「ツルギの言った自己紹介は以上でいいわね?」
乾いているはずの瞳がどこか虚ろに揺らぐ。目尻に力がこもって、何かを堪えている。そんな風に見えたのをツルギは見逃さない。他の者が気付くことはなくても、ツルギだけは見逃さなかった。
だが、それこそ『今』ではない。故に、「ああ」と一つの頷きで返してアテラが会合の主導権を持っていく。
「じゃあ、明日からのお話をしましょう」
† † † † † † † † † † † †
話はツルギが介入する余地は基本的にない。
アリスメル村の村長であるアガレスに頼まれていた事柄である『王国議会への参加』が第一としてある。これには一度目の召喚された際にツルギ自身頼まれていたことであったが、参加をするのには条件が二つあった。
「それが、その『勲章石』ってやつか。そいやここに入る時にそいつにはお世話になりました」
「……ん……」
昼のことだ。グレーテルが守衛に対しいつもの調子で迫った『もしかして王国に入る前に監獄行き?』事件を丸く収めたのはアリスであった。その手には朱色に光る石があった。思い返せば守衛の者たちが言っていたと今更ながら思い出す。
「王国議会の参加は勲章石一つに対して二人まで。一つの村で一つしか保有はされていないからアリスメル村からの参加は必然的に二人まで。その参加の一人は、私」
その説明と共に参加表明をしたのはアテラ。
そして肝心な二人目だが、
「とりあえずその二人目には私は……」
「カガミはもちろんだし……グレーテルは、うん。あとは」
「—————」
「なんも言わねぇでアピールすんのやめろって。まず議会って結構厳しかったり頭良くねぇとって思うんだ。マモンお前もなし。俺的に一番の適任はフンシー、お前なんだが」
「ボクを推薦する辺り何も分かってない阿呆なのは健在で何よりだよ」
「……その言葉を察するに、人でないといけないのか?」
「全く阿呆はちょっとやそっとじゃ治りもしないね。ボクは精霊。そして、ボクの相棒であるアテラの耳元で王国の話をひっそり聞かせてもらうんだよ。そもそもそんなこと分かっているはずだと思ったけど……。まず、ここまで放置して今更だとも思うんだけどさ。いやいや君たちの不可解なやりとりを見ていても面白いから楽しませてもらっている以上、野暮なことは言わないよ。でもこの場はこれからの一連を担う大切な場。遊んでいる場合ではないと思うんだよね。それにだ、実際にボクが御璽になって見せたのにも関わらずどうしてそこまで知らないと言いたげなんだい? どうして他人を演じ続けるんだい?」
「待ってくれ。久々に会えて嬉しいのは分かったけど、分からねぇ話をべらべら言われても……」
「ん?」
「まず誰と誰が……」
「それはもちろん。ツルギ、君と。ボクの相棒であるこの子、アテラだよ」
ついに始まった妄想。そうやって小馬鹿にしながら鼻で笑った後に両手を広げて肩を窄める。
「いやいや、それこそお前の勘違いだろ。俺は正真正銘、アテラには初めて会ったんだからさ」
「——え、ま、まって、え、どうし——」
「こら、フンシー。あんまりからかっちゃだめじゃない。大人しく御璽になってて」
「……それって」
「いいから」
フンシーは言葉を失いながらその身を透かしながらフェードアウトしてやがてアテラの耳朶に吸い寄せられて翠色のイヤリングに化ける。ツルギの知っている記憶の見たことのない風景である曖昧な記憶。
「ごめんなさいね。フンシーちょっと疲れているみたいだから。えっと、それで……」
「あ、ああ。フンシーがアテラに付き添って参加するなら。って話か」
唐突のフンシーの饒舌演説が繰り広げられ停止しかけていた会合を再開させる。
「カガミとグレーテル、マモンは参加出来ないとして、俺も王国のやりようには物申したいけど議会ってなるとやっぱり適任は違うと思う。誰もいないなら、って思うけどシンとチーはどうなんだ?」
「わりーが、おりゃーそっち専門で潜入していたわけじゃねー」
「あっしもシンに同じくっすねー」
「なら、アリス。頼めそうか?」
「……ん……」
軽い頷きで参加を肯定し、『王国議会』への参加は、アテラとアリスの二人と、精霊フンシーの一霊に決まった。
開催の時刻は昼過ぎ。王城までの道のりが少々長いこともあり昼前には宿を出ることも決まり、次の議題に自然に移行する。
「俺ら不参加組は」
「問題は王国議会だけじゃねー。議会がどれほどの話がされるのか分からねー。けど時間を無駄に浪費は避けねーとならねー」
「あっしとシンが先に潜入していた理由は宿の確保だけじゃねーっすー」
「まぁ、そりゃそうだろうけど。詳しくどうぞ」
「あっしら、と言ってもここにいる全員に関わることっすけどねー。議会参加者も不参加者も関係あることっすー」
「やけに遠回しじゃねぇか」
「あんさんは、どこまで知ってるんっすかねー?」
「……どこまでって、王国が非道をしてるってこととか」
そこで脳裏を真っ先に過ったのは、『大陸崩壊』だ。預言者ウァサゴが預言した事象。それを知るのは、召喚をされたツルギとカガミ。だけだ。だが、
「あんさんは、存じてねーってことっすねー。いいっすー、説明してやりますよー。それこそずばり」
それは呆気なく告げられる。どこでそのことが漏洩したのかは、きっとツルギが異世界召喚をされた初めての夜よりももっと前だ。だからこそ、動揺が心臓を駆け巡ったのだ。一度目の召喚の時でさえツルギの知れる情報は、王国の非道。ことを細かくすれば少ないわけではないが、それでも告げられた事象は以上なわけだ。
「王国、いーや、この大陸の崩壊っすー」
「……それって」
「詳しくは知らないっすけど、アガ爺が言うには王国議会の後、時期も明確じゃないっすけど、大陸は崩壊する。そうらしいっすー。まー、それも王国の策略と睨んだアガ爺は先を越して、あっしとシンを使いに出したってわけっすー」
「そ、そうか、た、大陸が」
アガレスが知っていた。預言者であるウァサゴの預言を、ウァサゴよりも先に。そして、そのことはツルギには知らせることはなかった。それこそ因果を収束させないがためなのかもしれない。だが、『大陸崩壊』の事象を知ったものは少なくとも十一人。それが因果にどれほどに関与するのかまで分からない。
だけど、因果を見届けて終わり。そんなことにはしない。だからこそ、ここに集ったのだから。
「あんま動揺してねーっすねー」
「いや、動揺しすぎてんだよ。そんなことよりアリスとアテラ以外は何を……」
王国が大陸の崩壊を企んでいるとしても、何に手をつければいいものか。それは、先行したシンとチーが探っている。
「まずは戦力になるのは、そこのカガミって子以外はあると思っていいっすかー?」
「まぁそうだけど……」
「待つですわ」
グレーテルが平常心に口を割った。反抗することも考えられる。参戦なんかしない。今の彼女ならそれも考えられる。
「わたくしは……」
やはり人間との共闘は願い下げ。そういうことだろう。何をすることの出来ぬ自身の弱さに呆れて視界を膝に向かわせてしまう。
その直後に床に何かが置かれた音が軽くなる。
「わたくしは、これを直せる場所を……」
「なんだそりゃー、珍しい形じゃねーか。鉄かー?」
「てつ?」
グレーテルの座る前に視線を動かすとそこには、
「なんでそれを、グレーテル」
「あの日。あの夜に、屈辱を晴らせなかったあの夜ですわ」
それは、『ロトリア村』での一件。ツルギが兄として決意をしたあの夜。
『節制の担い手』ヲルフォを討伐出来なかった、撃退したまでに過ぎなかったあの戦いで、ツルギの敗北を思わせた欠片。あの節制の森穴に置き去りにしてきたと思っていた、刀の半身。
「きっとここにはこれを直せる人間がいると、だからですわ」
妹・グレーテルの優しさが身に沁みて分かる。だが、どうしてだろう。これほど嬉しいと愛されていたのだと実感してもなお、隔たってしまった壁。
「ですから、わたくしは、明日はその場所を探そうかと……」
「そりゃー、てめーのもんかー?」
「ああ、この腰にある刀の半身。ぶっちゃけリーチ短いと慣れてねぇからまともに戦えるか不安でしかなかったんだけど」
「そりゃー、助かるってもんかー」
「ついでにいいですかぁ?」
そこで間を空けずに割り込むのは異邦人のカガミ。
スカートのポケットを探って何かを床に置いた。それは長方形の物体で、この世界からしたら異質な存在。だが、ツルギとカガミにとっては身近な覚えしかない。異世界に来て一週間と経ってはいないがそれでも懐かしさを感じる。
まぁ、ツルギ自身は必要性がなく所有してはいなかった品物なのだが。
「携帯電話」
「けーたい? なんっすかー?」
「見たことねー」
「俺様も初めて見るものだ、な!」
「……んー……?」
ツルギに続いて異世界の住民たちは疑問符を浮かばずにはいられない。
「そういや、時間正確に分かってたけどまさか持っていたなんてな」
「ロトリア村でさっちんの家で、本当は言おうと思ってたんだよぉ。でもなんか言い出すタイミングが……。遅くなっちゃってごめんね?」
「謝らねぇでいいけど、携帯がどうしたんだ?」
「キャルバでお話し聞いたら魔導具を扱う人なら何か分かるかもって聞いたの。だから私は、そこにグーちゃんと行こうと思ってるの」
解析など出来れば使いようでは便利ではある。だが、
「まずは言葉が。なんとかしてもらえるなら戦うことは出来なくても、みんなの役に立てると思うの!」
「当てはあるんすかー?」
「それは、ないけど探すよ!」
「探すのは時間の無駄ってやつっすよー」
そう言いながらどこからか取り出した紙に何かを書き始める。
それをカガミに差し出して、
「ここに行けば良くしてもらえるっすよー。あっしの名前も書いといたっすー。くれぐれも迷子にならないようにっすー」
「え、あ、ありがとう」
「いえいえいいえーっすー。それがなんなのかよく分かりませんがきっとすごく役に立つと思うんすよー」
「なんで?」
「直感っす! それに、そこは鍛冶専門っすから、グレーテルさんのそれも直せると思うっすよー」
妙に親切なチー。仲間意識が芽生えてくれたのか。元より良いやつなのか。ともあれ、カガミとグレーテルの件はひと段落。
「で話戻させてもらうっすよー。カガミさんとグレーテルさん以外は、明日の夜王城へ侵入を予定してるっすー。そのためにもまずは、王城周辺の散策としますっすよー」
チーは笑顔で王国への反逆を公言した。