第二章蛇紋 『羨望』
――世界は白色の輝きに満ちている。白く反射する大地を一匹が這う。
光に溶け込むように一匹の『白蛇』が影潜ませる深緑から地面を這いながら姿を晒した。
白蛇は、正面に佇む光源へ向かってその細く長い身をくねらせながら這っていく。
あまりにも鋭い輝きを放つ光源は人間が直視することは容易くないだろう。だが、白蛇は赤く揺らめく双眸を見開き進む。
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その空間に鳴るのは、白蛇の地面を這う音のみ。深緑から進んで十メートル足らないほどの距離。白蛇の体長五つ分。
その場で動きを一度停止させて胴体を大地から天へそっと伸ばして、赤く熱を帯びた双眸を一心に向ける。
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数秒か数分か数時間か、白蛇はその場で佇む。
白蛇が動きを再開させた時には、先ほどまで森と空の境目にあった光源が少しばかり角度を立たせていた。周囲から音が漏れ始めた。
鳥の囀りに羽音。犬の吠える鳴き声。水源に滴れる水流。扉の音。
動物たちの目覚め、人々の目覚めの朝が白蛇より少しばかり時間を空けて動き始めたのだ。
白蛇の双眸は変わらぬ赤色。熱を帯びた紅色。何も変わらない双眸のまま、大地を這い始めた。
双眸の色は変わらない。だが、その瞳に宿る熱はどこか哀しげに俯いていた。
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名残惜しい想いを引き摺ってその場に一本の跡を残して白蛇は目的があるのか、迷うことなく戸惑うことなく這っていく。
蘇った『彼』の微香がある『その家』から。
蘇った『彼』の微香とは逆方向へ這って向かう。
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乾いた空気が広がる広間。
その中央、石垣が円状に積まれた井。その縁に白蛇はその身を捩らせて乗る。
ぽっかりと空いた先の見えない井泉。来るものを拒もうとするかのように奥底から冷気と微風が白蛇を脅嚇する。
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明らかな恐慌が白蛇を拒む。
視線を井泉の奥底へ落として行動を停止させた。
それは恐怖なのだろう。生物が生存を保守する防衛本能だ。生命は死を察することができる。それは人よりも動物は鋭く、その中でも知能が優れる動物は死を回避するために強者には向かっていくことは少ないだろう。
何かを守る。縄張りであったり、家族であったり、尊師であったり。人間の世界には言語や感情表現の表しがはっきりとした形で為される。
人間ではないから。といってその全てがないわけではないのだ。
動物の生存するための本能も、人間の友情や敬意、それらは全て『愛』があるのだ。
生きるために自身を愛し、愛おしい故に守ろうと躍起に足掻く。守るべきものがあるからこそ強者へ、恐慌へ、生命の本能の警告を振り切って立ち向かう。
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落とした視線を持ち上げて自身の這った跡の方向。その先の深緑を眺める。
白蛇の白き双眸には恐怖も怯えも惧れもある。懸念を帯びた瞳は危惧の象徴とも思える。
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白く煌めく双眸に映るのは、自身の這った跡でも、深緑生い茂る森でもない。
その視線は人間も白蛇すらも見ることは出来ない。もっと先にある。
白蛇は、視線を井泉の奥底に戻し、戸惑うことなく、迷うことなく、躊躇せずに、その身をどこまで続くか知れぬ井泉に投げ出した。
白蛇には、何があったのか。守るべきものか、それはこの場所にはきっとないのだろう。白蛇が見つめる場所にこそあったのだろう。
白蛇が見つめ眺めていた方向こそ、『エドアルト王国』だ。
その真実は白蛇すら分からない。だが、分かったことがあった。
瞳の先に『彼』がいることを。生きていることを。願った『待望』が叶われたことを。
井泉の石垣には、三滴の雫が徐々に石に溶け広がっていた。
涙を零す機能のない蛇。だからきっと、その雫は『白蛇』のものではない。
『待望』していた『彼』との再会を投げ出す姿は、『彼』と再会を果たす者たちへの『羨望』があったことは『白蛇』すら分かっていない。