第二章43 『暴食の担い手』
暴食を怠ってからどれほどの時間が経ったのか、最後に人肉を喰らってから随分の月日が流れたと思うのですわ。
兄さんの肉。引き締まった肉。甘味の含んだ血。歯ごたえと咽喉越しは今まで喰らった人肉に等しく同じ――違いますわ。それ以上ですわ。
ですが、最近では一時の高ぶりのその時だけの至高の一品。
なんとか王国とやらから支給されていた人間には兄さんは手を付けないようにと頑なにしていましたから。わたくしも兄さんの考えならば……と、それを受け入れ暴食を最小限にしていましたものですわ。
なんちゃら王国からの支給されていた人間はかつては、罪を犯した罪人。
他へ死を与えた、狂った狂人たち、罪人、罪囚たちは罪を償うべくその生を捧げる。それも数年の年月を隔て変わりましたわ。
死を与えれば罪を償わなければならないと、罪人たちにも思い知らせた頃のことですわ。
他の生を奪った人間は、生を代償にしなければなりませんわ。それには、わたくしたち兄妹も同意致しますわ。わたくしたちも人間だった頃に犯した罪を償うこととなになに王国の要望が重なった経緯がありますわ。それに人間ではなくなったわたくしたちには関わりのないことでもありますわ。……ただの人間である人間がただの人間の命を奪うことは良くないことと兄さんも仰っていましたから。
ですが、やがて生を奪った人間が減った頃、わたくしたちの住む隠れ家に送られる人間は窃盗や上位の存在へ対して無礼を働いた人間が加わっていきましたわ。
当初は隠れ家へ住まわせてもらったことの恩を感じ兄さんもわたくしも受け入れていましたわ。
人間の言うことを無視して、泣き叫ぶ人間を無視して、喚く人間を無視して、……幼き人間が届いた時に兄さんは仰いましたわ。
「ぼくは思うんだグレーテル。罪は償わなければならない。ぼくたちもそれは同じなんだ。だけど、この幼き人間の罪。それはあまりにも小さすぎる。ぼくはこのままではならないと思うんだ」
初めは何を仰っているのか分かりませんでしたわ。
かつての兄さんは、人間を嫌い憎しみ疎み蔑み虫以下の存在と、家畜同然と、そう仰っていた兄さんがなぜそう思ったのか……わたくしはその時にはまだ分かりませんでしたわ。
ですが、兄さんの考えこそが世界であり秩序であり絶対ですわ。兄さんが喰ってはいけない。と仰るのですわ、それに対して抱く反発心は皆無でしたわ。
そして、さらに年月が経ちましたわ。
ほにゃらら王国からの支給された人間は遂に、罪を犯した人間ではなくなりましたわ。そして、兄さんは気付いたのですわ。にゃらら王国がわたくしたちよりも狂っていることを……それも十年程前の話になるのですけど。
名前は確か……なんとかこんとか、男の人間が隠れ家を訪ねた時に兄さんに言っていた頼みごとが確かなことなら兄さんの推測通り、王国は歪んでいるのですわ。
それも随分と昔に思えますわ。詳しい内容までは思い出せませんですわ。ですが王国が狂っていることだけは確かですわ。
そして、この十年は罪人は数える程しか送られなかったのですわ。支給品は人々からの採血した血が大半を占めていましたわ。稀に普通の人間が送られることがありましたけど、興を乗せるために演じることはあれ、わたくしは兄さんを食すことを、兄さんはわたくしを食すことをする他ありませんでしたわ。
暴食の侵蝕を抑えるために血肉を食すことはしなくてはならないですわ。互いに互いを喰らう。そして抑制し続けた結果……兄さんは死に、王国からの支給は途絶え、久しく現れた人間は兄さんで……今、欲しに欲した欲することを止めない食欲があるですわ。
これほどに欲して止まない血。それが今まさに、口の中に広がる血の味。
水に近いさらさらとした粘度。舌に触れる柔らかな皮膚。
だけど、肉を噛むことも、血を啜ることさえも出来ない。
人間よりも兄さんの血肉はそれこそ至高ですわ。今まさに口に広がる血の味は、久しいことが要因かは分かりませんわ。
ですが、兄さんの血肉よりも胸が高まり熱が帯びてくる……そんな気がしますわ。なのに、なのにどうして、欲して止まない血……兄さんを上回る食欲。それがまさに口に広がり溜まるのにも関わらず、喉を通すことが出来ないのですわ。
朧な声が聞こえますわ。優しい声が聞こえるのですわ。
そして口の中に侵入していた指は名残りも余韻も味わわせないように素早くいなくなり、口元からみっともなく血が流れてしまうのですわ。飲みたい飲みたい飲みたいですわ。啜って飲んで舌で転がして飲んで口いっぱいに溜めて飲み干して……飲みたいですわ。
なのに、自己欲を満たすことも出来ずに微動も出来ずに節制がわたくしの暴食を覆い尽くして――。
「ノーカンじゃねぇよな。一回は一回。……全く」
欲がなくなり、未練もなく、何もかも、欲も、生も、全てがどうでもよくなりましたわ。
ああ、兄さん。最期に兄さんと愛し合いたかったですわ……。
そして、わたくしは……全てを放棄したわたくしは、最期の一つの願いを胸に抱いたその時ですわ。聞こえましたわ、兄さんの声……。
『――俺のフォーストキス。くれてやるよグレーテル。その代わりにしっかり覚えとけよ。血の味のキスってやつをさ』
長い長い口付け。深い深い口付け。
口付けと共に押し寄せる血と願いが込められ祈りの捧げられた口付けがされた。
† † † † † † † † † † † †
グリフォンとヲルフォの戦いは想定外の方向へ佳境を成した。
光を帯びたグリフォンは半透明に身を透かせ、ヲルフォへ一撃を投げることが出来ない。
そしてヲルフォは無傷のまま、グリフォンへ犬手をぶつける。
グリフォンが全身でヲルフォを押さえつけようとする。
だが、苦渋のグリフォンに対して不敵な笑みを健在とするヲルフォ。
「さっきまでの威勢はどこに行ったのかねー。鷲野郎。てめーには、てめーらには、おれらは倒せねー。そろそろ遊びも終わりにすっかー。――ルオッ!」
グリフォンの巨体を軽々と足蹴りにする。
ツルギのすぐ傍の鉱石を半壊させ、荒々しい息遣いが漏れる。森穴に節制の獣の雄叫びが響き渡る。
「……ったく。アリスも起きるのが早いってんだ。畜生、このままじゃ、もうむ――」
「――無理だ、無駄だ、無謀だ。サンエムは人生をどん底にすんだぞ鷲ライオン」
「……へっ。おっせぇっての。ツルギ」
グリフォンの朧になった瞳が傍らの存在の彼を見つめて満足気に口元を歪ませる。
血に濡れた頬を手の甲で拭って傷だらけの体を凛々しく立ち上がらせていた。
「お前も随分ずたぼろじゃねぇか。本気ってのも大したことねぇんじゃねぇの?」
「ふん。戯けていろ。こちとら、事情が事情。アリスの意識が戻ったってことだ」
「戻ったか、よかった。……でも、それを察するに意識がなければ本気を出せ続けてたってことか?」
「察しがいいな。まあ、いいんだか悪いんだか……」
「恨み言言ってもしゃあねぇ。それよりアリスが無事なら安心だ。まだ、いけるよな?」
ライオンの膝に鷲の手を当て立ち上がり鼻で一度笑う。
健全になったツルギの身。その身を何歩か前に出て折れた剣を掲げる。
「やってやるよ『節制の獣』ヲルフォ。やってやろうぜ、グリフォン!」
肺いっぱいに空気を吸い込んだその時に咆哮が轟音を成す。
「――ヲオオオォォォッ! だまれやァァァアオオ!」
節制が聴覚から脳に侵蝕してくる感覚がはっきりと分かる。今にも膝を曲げて全身の力を抜き大地に腰を下ろしたい。息をすること以外何もしたくない。ただ今か今かと絶望を待ち焦がす、それだけの存在に成り下がろうと精神が訴えてくる。
だが、そんなちっぽけな感情を超える胸の高鳴りが静まることはない。
「食事の後の運動だ、グレーテル!!」
咆哮が木霊する節制の森穴でツルギの傍らに静かな足音が近付く。
力強くも弱弱しくもなく、ただ普段通り歩くだけの歩幅と足音。
「全く、そんなに大声で仰らなくても分かっていますわ」
凛々しく二本足で立つ。濃い青紫色のドレス服。少し青みのある薄い紫色の紫苑色一色の髪を双方に分けた尻尾髪。灰色の双眸が揺るぐことなく、濁ることなく存在し、小さな唇を柔らかく曲線を描く。
「お待たせ致しましたわ、兄さん。『暴食の担い手』の本領発揮致しましょう」
その微笑みが引き金となってヲルフォが駆け出そうと踏み込んだ。
岩肌の大地が割れ瞬間的にその場から消える。
だが、それも一歩先までだ。半透明のグリフォンが衝撃を生ませる。
正面からの衝突での勝敗を制したのはヲルフォ。グリフォンの身は反動で大地にのめり込ませれた。
勝利への確証を得たヲルフォが犬歯を抜き出しに笑みを作った次の刹那に。
グリフォンのいなくなった空間に現れた二つの影。異邦人ツルギ、暴食の担い手グレーテル。
ツルギは折れた刀を携えて、グレーテルは紫色の魔力を犬……否、狼の形に纏って。
赤き双眸は開かれている。折れた刀も鋭さは劣化していない。一閃でいいのだ。一度の斬撃でいいのだ。今剥き出しになっているその瞳に、一撃の会心を……。
そう願ってそう祈っても届かない。
振りかざした刀は閉ざされた瞼に遮られて無の攻撃を与える。弾かれたツルギは重力に呼ばれていく。
「暴食の担い手として行使しますわ。――暴食の一噛み――」
ツルギの一撃は見掛け、ダミー、疑似撃。グレーテルの一撃こそが全ての勝敗を決する一打。
紫色の狼が牙を鋭利に口を開き、節制の獣を食しに向かう。
大地を丸ごと喰らう暴食の一噛み。その一撃の強大さはツルギ自身がその瞳で目の当たりにした。
否、今回のグレーテルの一噛みはヘンゼルの放った一噛みを越えている。魔力体の頭部は色濃く、鋭い牙。ツルギは確信を得た、勝てる。と。
だが、ヲルフォは正面から押し寄せる狼の頭部を察し顔を斜めに避けた。
その少しの距離で勝利への確信が覆される。右目は瞼越しに消失し黒く赤い血が溢れる。
そして、左目を隠した瞼だけが消失し赤き瞳が健在に存在している。血の滴る左目がグレーテルを睨む。
重力落下を拒むことをしないグレーテルを追いかけるように犬手を伸ばす。
ここまでやったのに、まだだめなのか。無理なのか、無駄なのか――。
「まだですわ、兄さん。暴食の行使。――暴食の吸息――」
ヲルフォの手前に顕在している暴食の狼が息を吸い込むとツルギの身が無重力に似た感覚を得る。
風が流れ吸い寄せられているのだ。グレーテルとすれ違う刹那に手を握られる。
「兄さん、やっちゃって下さいですわ」
「ああ、任せろ」
大振りにツルギを投げられる。
その強さは微弱だ。だが、魔力体の狼の吸息が勢いを増させてツルギの身をヲルフォに限りなく近付ける。
「全くこんな時にも勤勉なアレルギーだこと」
疼く皮膚。頬には赤い斑点が浮かび上がり全身を痒みが襲う。
だが、胸の高揚に比べれば大したことではない。
子供たちへ恐怖を受け付けた獣。村娘を攫い、世界を揺るがす存在、暴食の名を汚す節制の魔獣。
グレーテルに吐いた暴言、グレーテルに犯した暴行、グレーテルへ向けられた殺意。
それら全ての仇を今――。




