第二章42 『血の味』
骨が砕ける音。皮膚を破り弾ける音。歪な音を立てた手の中。
グレーテルの意識は眠ったまま戻ってくることはなかった。
ヲルフォが粉砕しきったことに満足したのか大きな口を笑みにする。鋭い大きな犬歯が涎で歪んだ輝きを放つ。ツルギを押さえつけていた手も役目を果たしたのか退けられていた。
掌を広げ血塗れになった紫苑色の少女が大地に滴りながら落ちる。寝ているような表情のままのグレーテル。彼女の見ていた夢には何があったのか、誰がいたのか、それは聞けない。
『――兄さん、愛していますわ』
最後に聞いた寝言が脳裏に甦る。
それは、実の兄ヘンゼルか、義理の兄ツルギだったのか。どちらにしろ今の兄ツルギは全ての機能を節制された今でも嘆き叫ぶ。
「あ、ぁぁあアァアアあアァぁあ!!」
「うっせーな。だまれってのが聞こえねーのか?」
「あああ、あっぁあァアあっあぁぁッ」
「はっ。てめーは放って置いても死ぬ。やれやれただの人間のてめーは――」
ヲルフォの気を誘うのはヲルフォに刺さろうとする矢。
だが、それらは全て剛毛と強硬の皮膚には痛手を負わせることは出来ない。
「なんだー?」
矢の降り注ぐ方向を見やるヲルフォ。
そこにいるのは、カール。そして、カーナを背負うニコラス。その他にも村の住民が数人。
「ツルギさん! 聞こえていますか!」
「……あぁ?」
「カーナは救出成功。サチコももうじき救えます!」
朦朧とする視界。だが、聞き覚えのある声。言葉の意味。
全てがすでにもう遅かった。
「だから生きて! ツルギさんもグレーテルさんも救います!」
ヲルフォは目先の獲物に気を取られ、ヲルフォから奪還をすることに成功しかけている今。
当初の目的の全てを果たしたに等しい今、ヲルフォはもう遅かった。
† † † † † † † † † † † †
村に戻ったカガミ一行。
村というには少し語弊がある。小さな丘に着いた。そこに待ち焦がれていたのはカールに村人たち。武装を堅めた村人たちだ。剣や弓を携えてそこで待っていた。
「カールさん、それって」
「カガミさん、無事で何よりです。子供たちも」
子供たちは親御さんの元へ駆け寄っていくと全員がゲンコツを一撃食らう。
「お前たち何してんだ、みんなに心配かけて! 謝りなさい!」
子供たち五人は村人の皆に謝罪を揃えてすると親御さんと共にカガミに元へ歩みより再び――否、先刻よりも深く謝罪をする。
「本当にこいつらが迷惑かけました! おいお前たちももう一度謝れ!」
「あ! いいですって、もうさっきも謝ってましたし、しっかり反省してるよね、みんな?」
「ほんとうにごめんなさい」
ミアが先に謝罪を一度すると他の四人ももう一度揃えて謝罪をする。
「ほら。しっかり反省してるんで。……それより」
「みなさん! 聞いて下さい」
カガミの言葉に割り込んだのはニコラスだ。勇ましくなった青年が村人たちへ投げかける。
「ツルギさんは『暴食の獣・ヲルフォ』討伐に向かい、サチコさんとカーナを救いに節制の森穴に向かいました。みなさんの力を貸して下さい。僕は行く。だけど僕が行ったところで役立てる根拠は皆無。だから、みなさんの力をどうか貸してほしい。頼みます。どうか僕に……」
礼儀正しく腰を直角に折るニコラス。彼の前に立ったのは若い青年カール。
腕組みをしたまま小さく囁く疑問。
「お前は何も持たずに向かう気なのか? それで勝機はあるのか?」
「――っ。な、ない……です」
「それならば、手を取れニコラス。我々『ロトリア村』住民はお前の思いと一つだ。救いに行く。サチコもツルギさんもグレーテルさんもアリスさんも……。待っていてくれ、カーナ」
差し出された掌を強く握るニコラス。
「ありがとうみんな!」
「そりゃこっちの台詞だぞニコラス。勇敢なお前のおかげだからな」
「ニコラス以上勇敢な村人は他にいない」
「コニーちゃん、立派なかっこいい兄貴持ったな」
「ふふん! だろー。コニーのお兄ちゃんはすんごいんだよ!」
「コニー……」
「なに泣きそうになってんだよお兄ちゃん」
「うるさいですカールさん! それより、みんなのこの武装って」
時刻にして小さな丘から節制の森穴前までの距離と村の家々までの距離は等しいはず。つまり、
「ツルギさんが村のためにあそこまでしてくれるんだ。住民として情けない。そして、ニコラスお前があれほどの啖呵を切ったんだ、年長者として矜持がないってもんだ。さあ行くぞ!」
「いってやろうぜ!」
「やったるじぇ!」
「ぼっこぼこだんよ!」
「こら、今度はバウンまで一緒になって、あんたたちはお留守番でしょー。ね、カガミ」
「そうだよ。それにミアちゃんが村にいるんだから。ね?」
三馬鹿は項垂れながらも納得し、村の精鋭たちの出立を見送った。
† † † † † † † † † † † †
頬を叩かれる。痛い。痛い。
「お……ださい……ァナさん……おき……くださ……」
痛いしうるさいし、鬱陶しい。人が心地よく寝ているのに。
「起きて下さいカーナさん!」
「うっせーな! そんなでけぇー声出さなくても聞こえっから!」
「うん。よかった。無事だし元気みたいだ」
知っている顔だ。平凡すぎる顔だが年の近いことで学童で顔を合わせたことが何度かあった。
「確か二つ下のニコラス?」
「そうですニコラスです。カーナさん、助けに来ました。帰りますよ」
「帰るって、アタシは……」
辺りを見渡して思い出す。ここは節制の森穴。『暴食の獣・ヲルフォ』とサチコが眠りに付いていたんだ。それで回り込もうとした途中で意識を失った。
「サチコは!?」
「あちらに。ですが、人手不足。もしかしてカーナさんしっかり立てますか?」
「もしかもしねぇーよ。ほら――ふぇ」
「おっと。だから、まずはカーナさんを優先させてもらいます。衰弱が激しいんですから大人しく掴まっていて下さいよ――よいしょ」
「ちょちょちょ! な、なにを!?」
「何っておぶってるんです。ちょっと乱暴に走りますから」
「なっ! ま、待てって!」
「待ちません。しっかり掴まってて下さい」
こんな貧弱な情弱な病弱みたいな男が勇ましく背負った。何だろうか胸を這う気持ち。
「じ、自分で歩けっからっ!」
「いいから! 大人しくしろって! しっかり掴まって……離すんじゃないぞ」
――やばっ。何このカッコいい人。
怒声を掛けられたカーナは離れないようにニコラスを抱き締める。力一杯に。
「ちょちょちょ! 強すぎ死ぬ」
「はあ!? てめぇーがしっかり掴まれって言ったんだろうが!」
「ご、ごめんなさい」
――前言撤回って言うんだっけ。やっぱりなしだ。ひ弱な男だ、こいつ。
† † † † † † † † † † † †
ヲルフォは憤怒した。
節制出来ない感情に呑まれる。怒りに任せて跳び出す。だが、
「俺もそろそろ出番が欲しくなってきたもんで、悪いが魔獣の坊主。ヲルフォって言ったか? ちょいと本気出させてもらうけど文句はなしな」
それは衰弱しきっていたはずのグリフォンだ。光を帯びながら巨体と巨体の激突が始まる。
ヲルフォよりは少しばかり大きさは劣る。だが、実力はそれ以上だとすぐに分かった。
鷲手と犬手のぶつかり合い、握り押し合い、投げ飛ばされたのはヲルフォ。
巨体が宙に上がり墜落の直前にグリフォンが全体重プラス勢いでの攻撃を加える。
「おい村人たち。今の内に脱出を」
「それは、それに、サチコも!」
「任せろって。未来の英雄の底力ってもんをよ」
グリフォンの言う未来の英雄とは一人を除いてその場にいる全ての人の総意だ。
「それによ。派手にやり過ぎってもんだ。ここはもうじき崩壊する。俺が連れていけるのも限度がある。村人さんらはさすがに厳しいってもんよ」
「……分かりました」
「カールさん!」
「仕方ない。それに……あの方はここで落ちる様な方ではない。違うか? 戻ろうみんな!」
「はい」
「アニキてめぇーは」
「カーナさん。カールさんの選択は正しいですよ。戻りましょう」
カーナが舌打ちで返事をし背から下りる。
「すまないが俺の主もよろしく頼む。乱暴な扱いはしないでくれよ」
「分かりましたグリフォンさん。えーっと僕が背負っていいものですかね……」
戸惑うニコラスの尻を軽く蹴飛ばしたカーナ。
「いいわけあるか。アタシが背負う。随分休んだし余裕っての」
「すごいですカーナさん!」
「褒められてるんだけど、素直に喜べねぇーな、なんか」
アリスを背負いカーナは先に出口へ向かった。そして最後の村人ニコラスがグリフォンに一礼をし、ツルギを見直して祈願を口先に出し、出口へ向かった。
「……ツルギさん、御武運を!」
グリフォンは下敷きにするヲルフォを睨みつけてから二人に視線を送る。
「『暴食の担い手』本当の力を絞る時が来たってもんだ。……そして、ツルギ。必ず達せよ。お前の妹はお前なくしては立ち上がれないだろうからな」
ヲルフォが大地を殴りその反動で上に乗るグリフォンの立居を崩す。
獣同士の激闘が森穴に広がり響く。
† † † † † † † † † † † †
血塗れ、腕は曲がらない方向へ折れ、皮膚の至る所から血が吹いている。
「ぐれ、ぇー、てる……」
ツルギの囁きへの反応は何一つない。
岩肌を這いずり少女の傍らに寄り添う。
吐息はなく脈動も分かり得ない程度だろう。赤く濡れた頬を優しく撫でる。こんな状況と雰囲気を余所にお馴染みのアレルギーが再びツルギを支配してくる。
「……ぐれーてる。おい、起きろって……お前の大好きな、兄さんがお前の頬を、撫でてやってんだ……寝てたらもったい、ねぇぞ……」
またしても、失ってしまうのか。
人間を信じることが出来なかった兄妹。かつて、青年は一人の異邦人の少年を信じ、そして、生を途絶えてしまった。
そして、少女は表向きは人間を信じず。だが、一人の人間の少女を救うべく苦境を進み、己を蝕む『節制』に抗おうとした。
その少女さえも今……。
『――彼への侵蝕は一先ず暴食の担い手としての義務を果たせば落ち着くだろうね』
もう随分昔に思える。一度目の異世界召喚の時のことだ。
大罪の侵蝕がヘンゼルを襲った。だが、それはツルギの血を与えることで自制させることが出来た。その時に分かったことがもう一つある。
「……俺の、血を飲めば……なんとかなる、か?」
ヘンゼルは自己治癒能力が比例して向上していたはずだ。あの時はモモタの魔道封じが全ての元凶だった。
だが、今のグレーテルには魔道封じは掛かっていない。故に、『暴食の担い手』としての義務を果たせれば自己治癒が活発化されるだろう。『節制』を超える程『暴食』の義務で覆い尽くせることが出来れば可能性はある。
刀身の半身を粉砕された日本刀。
指先を刃に押し当て滑らす。見事なまでに綺麗な斬り跡から鮮血が滴り流れる。
グレーテルの薄い唇は少しだけ開いている。その隙間に滑らせ暫しの時間を待った。
だが、
「飲めって。飲めよ。あんだけ舐めたいだとか言ってたじゃねぇか。飲めって……飲んでくれよ」
飲むことも舐めることもせずに、鮮血はだらだらと開いた口から零れてしまう。
このことにもっと早く気付いていれば……。グレーテルの異変を察していれば……。もっとグレーテルのことを見れいてば……。
後悔の念が渦巻く。奥歯に力一杯に噛み締める。
そして、気付いた。――自身の口に広がる鉄分の味。
外傷はなく、鉱石へ衝突した時に狂ったように吐血した血。それも継続的ではない。
だが、口の中に広がっているのだ、血が。それは二度噛みに噛んだ唇の切れ痕。
口を閉じていれば徐々に血の嵩が増えていく。
動作をしないグレーテル。可愛らしい薄い唇から指を抜き、桃色の唇を眺める。
血の付いた唇。その赤色はグレーテルかツルギかは分からない。
「……こ、これは応急処置ってやつで……ノーカンで――」
グレーテルは負傷者。血を飲むことで生存の可能性が上がるのだ。そして、意識不明。今ツルギは口付けをしたとしてもグレーテルは覚えていない。故に、ノーカウントなのだ。
「ノーカンじゃねぇよな。一回は一回。……全く」
――俺のフォーストキス。くれてやるよグレーテル。その代わりにしっかり覚えとけよ。血の味のキスってやつをさ。
長い長い口付け。深い深い口付け。
押し付けるツルギ自身の血。願いを込めて。祈りを捧げて。口付けをする。




