第二章40 『暴食の担い手≒ツルギ』
獣の雄叫びが節制の森穴に広がる。鉱石はそれを反射させるように震え微光が揺らいでいる錯覚がある。
「節制ってなんだ」
ツルギの疑問を余所にグレーテルは衰弱し再び眠りへ誘われる。
赤く淀む双眸を持つ魔獣ヲルフォとの距離は十メートル以上離れている。が、その巨体が掛け跳べば容易く距離を詰められるだろう。
「……みんな、出てきて……」
どこからともなく複数のカードを出現させそれらを投じる。
主人の呼びかけに従者は応じる。複数のトランプ兵やネズミにトカゲ。岩肌の地面を這うイモムシ、宙を飛び交うハエやトンボ、特殊な見た目の蝶。卵のような生物。三十体程の従者の中には見知った、帽子屋ハッタ。シロウサギ。先刻の救済従ドードー。
それらは、『不思議の国のアリス』の登場者たち。
「これは……」
「……あの子たちが、足止めする……」
実際に目にしていたわけではない。推測の世界であった幻想が今、現実として広がった。
トランプ兵は持つ棍棒を投じたり殴りかかる。ネズミやトカゲなどの小さな者たちはそれぞれの特性を生かして全霊に尽くす。
卵のような生物……きっとハンプティ・ダンプティだ。その身を宙に飛び交う従者たちに運ばれヲルフォの頭上へ。そして、ハンプティ・ダンプティは盛大に落ちた。
呆気にとられていたヲルフォは回避をせずにハンプティ・ダンプティの全体重を頭部で受ける。
だが、これだけでは終わらない従者たち。
頭部が沈んだ次の攻撃、シロウサギ。
小さなその身をヲルフォの眉間に張り付かせた。次の瞬間、
「キュゥゥウウウウ!!」
森穴に木霊し響く甲高い音。鳥肌が立つ感覚に呑まれていれば、満を持して登場。帽子屋ハッタ。
双眸を細くするヲルフォが項垂れそうになるのを堪える。しかし、その眼前にはハッタが杖を振り被って待機済み。
「ヒィッッヒッヒヒィイィィイイイッッ!!!」
細い脚が力強く地に立ち体を支え、細い腕が細い杖をしっかりと握り、細い杖が巨体の頭部へ殴りかかる。そして、その巨体は大地から少しばかり宙に浮く。
「帽子屋TSUEEEE!」
その隙にも他の従者たちは攻撃を加え続ける。
これならば、勝てる。討伐できるかもしれない。誰の目にも見て圧倒的な制圧。
だが、ヲルフォも圧力を吐き出す。顎下で呑気に佇むハッタ目掛けて巨大な額を全身を使って投じる。
大地は崩壊、そこを軸に一帯の岩肌を更地に砕く。その時少女は呟く。
「……やって、ハッタ……」
「御方の祈願。叶えましょう。名を、帽子屋・ハッタ。知性の無き獣、最期を飾る者の名を聞いて眠れ――」
ヲルフォの眼前に移動していたハッタが軽く触れる程度の接触を杖を使って行う。周囲の音を掻き消していく波動が波を打つ。
すると、衝撃が数秒の時間のズレの後に訪れる。
爆撃が落とされたとも思えるほどにヲルフォの頭部――否、全身が刹那に大地に呼ばれる。
砂煙を上げて、粉砕された岩や鉱石が飛び散る。これほどの攻撃、傍から見た衝撃。ツルギの一閃をものともしない剛毛だとしても、直撃を果たしたのだ。きっと、
「やった……のか?」
砂煙の中に浮かぶ二つの赤い光。それが真ん丸にくっきりと形を浮かばせる。
「――ヲヲヲォォヲォォヲォォォ……。ヲヲヲヲヲヲヲォ……」
どこからか聞こえる音。安らかになる気持ち。穏やかな空気。ずっと聞いていたくなる音――。
「……聞いちゃ、だめ……みんな、やって……」
「――――」
アリスの言葉は従者には届かない。新たに投じたカードから具現化する従者たちがヲルフォへ襲おうと近づいていく。
だが、従者は主人の祈願を叶えずにそこらに佇むだけだ。それは、ツルギも同様で――、
「呑まれて……たまっかよ――ッ!」
再び下唇を噛み痛感で自制心を保つ。
自身へ襲う戦意喪失。子供たちやカーナ、サチコを襲う衰弱。グレーテルとアリス、ツルギの体力の激しい浪費。静か過ぎた鼓動。これらを踏まえてようやく『暴食の獣・ヲルフォ』の権能が理解できる手前まで達する。
「つまり、戦意を喰らい、生への執着を喰らい、体力さえも喰らう。接触が条件でもねぇ。声か範囲か、目か、なんなんなのか分からねぇ。でも、お前が今までの元凶だってことは分かるぜ……ヲルフォ!」
ツルギが叫んだ刹那。
砂煙の中心から砂煙が広がって瞬間的に消える。そして、轟音を発する。獣の遠吠え、地響き、轟雷、暴風、嵐、それら全てが入り交ざったそんな轟音をヲルフォが鳴く。無傷の魔獣が啼く。
鼓膜が激しく震える。視界が歪む。全てが耳鳴りとなって掻き消える。音波が視感出来る。歪んで鉱石を通じて乱反射する。ここはヲルフォにとって絶好の舞台なのだろう。
歪んでしまう視界を凝らして見やる。
数にして四十体を越えたアリスの従者たち。全てが戦意を失い、生の執着を捨て、全神経の糸を切れたようにその場に身を転がそうと重力に呼ばれる。
そして、最初は帽子屋ハッタ。
薄っぺらな体を確実に仕留める鋭利な爪。それだけでは飽き足らず投げやる。ハッタは宙を舞い天井へ衝突後にツルギとアリスの間に転がる。
抉られた体。風穴の空いた体。滴る鮮血が無雑作に流れる。内臓や腸が露わに……地に溢れ出る。彼の死に顔は、天井への衝突で崩壊。それはすでに帽子屋ハッタとは思えないほどに壊されてしまった。
だが、数秒経てばその身には光を宿し姿を眩ます。
ヲルフォは今までの受け身がツルギたちに対して嘲笑った絶望を極限まで感じさせる方法だと知っていたのか。
巨体の俊敏な動きに、標的の不動。鋭利な攻撃、ツルギの剣技を超越する爪。数えることも困難と思えたアリスの従者たちがヲルフォの一振りで一体から三体を纏めて血だまりにする。
「無理だ。無謀だ。無駄だ。……あんなのチートじゃねぇか」
斬撃の一度で精鋭と思えたアリスの従者は複数体亡くなる。優勢と思えた好機はまるで埃を掃うように一掃されていく。
一分――否、数十秒だ。唖然とその光景を見届けていれば全て光へ還り、窮地に変わった。
残ったのはツルギ、アリス、未だ眠るグレーテル、案内者シロウサギだけだ。
ヲルフォの獲物を狩る眼球がツルギたちへ向かった。大地を抉る足蹴りが一度でその距離は大幅縮まる。
「――死ぬ」
だが、ツルギの吐いた悲嘆は遅延された。
ヲルフォの進行の間にシロウサギが割り込み先刻の叫びを喰らわせる。だが、その小さな軽い身は軽々と衝突によって弾き飛ぶ。
白い毛並が鮮血で赤く染まる。動作はない。ヲルフォはアリスの最後の従者シロウサギを粉砕したのだ。
「……こんなん、もう、む――」
無理だ無謀だ無駄だ。そう思う以外ない。そう思っていた。
だが、左耳がなくなった血塗れのシロウサギは小さなその身を震わせ立ち上がらせ、よろよろと覚束ない足取りで魔獣・ヲルフォへ向かっていく。否、向かおうとする。
視界が潰れてたのか、ヲルフォとは少し違う方向へ歩みを向ける。その小さな背は戦意の塊。
「おまえ……まだ、やろうってのか。そんなになっても……どうして……」
「……アリスが言った。……ツルギを頼むって。だから……」
目も見えていない。足も本来では動くことはないだろう。そして、戦意、使命は、ヲルフォの権能で虚無になっている、はずなのだ。
だが、シロウサギは使命を果たすべく立ち上がった。歩みを進める。今までの戦の能力を見てもデバフを与えるのみだろう。攻撃手段はないに等しいシロウサギ。
ツルギが少し声を上げた時に見せた臆病な姿。弱弱しい姿が脳裏によみがえる。
なのに、今のシロウサギはあの姿を思わせない。力の無い者が戦意を燃やして立ち上がっている。
ツルギは抱き抱えたグレーテルを見つめる。すると、気付いているはずのないグレーテルが寝言を漏らす。
「……兄さん、愛していますわ」
彼女をそっと岩肌に落ち着かせる。そして、立ち上がる。
強者に震える。強大な力が圧倒してくる。ヲルフォの能力に呑まれる。
そんなことはどうだっていいのだ。こんなにも小さなウサギが、非力なウサギが……。アリスの従者たちがその身を挺した。グレーテルが、人を救おうとした。何もしないと言っていたアリスが従者を扱いここまで共に来た。それだけの過程があればそれでいい。
「……みんなが、時間、稼いでくれた。……今の内に、逃げて……」
「んなこたぁ、出来ねぇよ。第一、サチコもカーナも救えてねぇ。何も救えてねぇ。俺は救われてばっかだ」
「……シロウサギ……時間稼いで……」
シロウサギは見えていない双眸をアリスへ向けて頷く。
だが、ツルギはその頭を強く優しく撫でる。
「もういい。十分お前はやってくれたよ。寝てろって」
「……勝手なこと……私の従者……」
「こんなに傷付いてんだ。休ませようぜ」
「……そんなの、関係、ない……この子たち、戻れば、元通り……」
それはツルギにも分かっていた。
従者に無雑作な『死』を与える程、主人アリスは無碍な存在ではないことを知っている。
「んなん。関係ねぇ。もういいだろ。これほど傷付いたんだ」
「……バカには、関係、ないこと……」
「従者が戻れば元通りだって言ったよな」
「…………」
「傷付けば痛い。死ぬのだって怖い。恐怖は刻まれるんだ、心に……。痛いの、嫌だろ? シロウサギ、寝てろ」
その囁きに、シロウサギは微笑みを浮かべながらゆったりと重力に誘われ、地面と衝突する手前で光に還った。
「……あの子たちなんか、捨て駒なのに……足止めさせて、逃げれば……」
「捨て駒なんかじゃねぇだろ。シロウサギはお前の言った命令を忠実に果たそうとした。お前見たか? さっきあの犬っころに潰される瞬間のトランプ兵とカメの表情」
あの瞬間、ツルギは精神が脆くなっていた。だが、しっかりとその瞳には映っていた。従者たちの最期の顔が。
悲嘆、悲痛、哀愁、悲哀、愁傷哀哭憂虞苦悶。生が途絶える瞬間の恐怖と悲しみの感情。従者たちにはみんなそれが確かにあった。
「みんな捨て駒なんかじゃねぇ。みんな感情があんだ。戻れば元通りだと? ふざけんな。必死こいて主人に尽くそうと、懸命に命を懸けてもお前のためにその命を燃やそうとするあいつらは、捨て駒なんかじゃねぇ! 元通りになることなんかねぇんだ! 刻まれた恐怖は残り続ける」
アリスは何も言葉を発さずに立ち尽くすのみ。グレーテルは未だにお眠ちゃん。
なら、やらないとならない。この――、
「俺の名は、クサナギ・ツルギ。そしてあの『暴食の担い手』!!」
グレーテルはなぜツルギをヘンゼルと勘違いをしているのか。
簡単だった。その答えこそが、あの忌まわしきモモタ・ロウ・ウラシマの言っていた譲渡であったのだろう。
「――さあ、応えろ。暴食の担い手として行使する。――暴食の一噛み――!!」
――見てるかヘンゼル。やってやろうぜ。土壇場劇の始まりだ!