第二章39 『節制の森穴』
想定をはるかに超越している。
『暴食の担い手』ヘンゼルとグレーテル。彼彼女の変化後が犬、正しく伝えるのならば狼が適切だろう。
『暴食の獣・ヲルフォ』も彼彼女の獣化と同様と思っていた。だが、事実は違った。
大きな頭部。人ほどの太さの手脚。一見してその身は全長三メートルに達しているだろう。
微光が剛毛の毛並を照らす。一本一本の毛の太さも人の指に匹敵するだろうか。
「おいおい、マジかよ。こんなん、マジかよ」
「兄さん、先程から、まじ、としか……」
「だってよ。こんなのがいるなんて聞いてねぇぞ。……おい?」
薄らと開く灰色の双眸が揺らぐ。ツルギの問いかけに応えようとするかのように足を少し開いて浅く深く息を吸う。
「いえ、なんでもありませんわ。それよりも、子犬は眠りこけていますわ」
「子犬……ああ。アリスも準備いいか?」
「……ふぅ……ん……」
返答はない。しかし、手に握られたカードが三枚。
ツルギも鞘から刀身を抜いた。鉱石の微光の輝きを反射させて、闘志を駆り立てる。
「でかい図体して呑気に眠るたぁ、奇襲して下さいって言ってるみてぇなもんだぜ、ヲルフォ!」
不規則な岩肌を駆け巡り大きな広間から魔獣・ヲルフォとの距離を縮める。それはツルギだけではない。
グレーテルも後に続き、
「……みんな……いって……」
アリスの投じるカードが主人の呼びかけに答えようと光を纏う。
二枚は形をそのままに大きさに変化をつける。手脚が生え、その手には棍棒が握られている。一枚は馬の頭部と手脚をした亀。三体も標的へ向かった。
アリスは従者の召喚からか、体力の浪費が激しい。その場にへたり込んでしまう。
荒い息と滲む汗。半眼の双眸は気を抜けば閉じてしまいそうになりながら薄らと開け続ける。
「俺は例の事情でサチコの救出は厳しい。グレーテル頼む」
「仕方ありませんわ。……承知致しましたわ」
標的『暴食の獣・ヲルフォ』は未だに睡眠中。
こちらは日本刀使いツルギ。真の『暴食の担い手』グレーテル。数多の従者を携えるアリス。その従者たち。
奇襲は必至。
刀を真正面、ヲルフォの額目掛けて振りかざす。
グレーテルがサチコに届くまで残り数歩。
――鋭利な刀身が額を斬り裂き、鮮血が溢れ狂う。サチコを救出し、遠目に離れたカーナを救出し、そして、討伐を果たしハッピーエンド。
誰しもかそう思っていただろう。思いたかったのだろう。当人たちもそうだったのだから。
だが、祈願と現実は重なることはなかった。
鋭利なはずの刀は斬り裂くことは出来ず、切り傷さえつけられない。剛毛な毛が鋼の如くツルギの一閃を悉く防いだ。加減抜きの本気の振りかざしは眠る魔獣の前ではただの微風に等しいのか。
「――なっ!」
衝撃からの反動で体が仰け反った刹那。
『暴食の獣・ヲルフォ』の赤く淀んだ双眸が開かれた。見つめられた瞬間に全身の筋肉が停止運動へ移ろうとしてしまう。思考すら放棄し、呼吸することさえ無駄に思えて生命活動を放棄しようと本能が訴える。
そして、同時にグレーテルがサチコへあと一歩まで接近していた。
だが、グレーテルとサチコの間に割り込まれる木の根のような犬手。岩肌の大地へ突き刺さり地盤が狂う。本調子のグレーテルならその事態には反応出来たであろうが、先刻からの疲労のせいか力なくよろけてしまった。
ヲルフォが次の行動に移るまでの時間、三秒。
刹那の激闘を一度交えたツルギとグレーテルにとって三秒は果てしなく長い時間。だと、思っていた。
しかし、ツルギもグレーテルも剣戟を防がれ地盤の変化に巨大な犬手の前に身を震わすことも出来なくなっていた。
犬手がグレーテルを正面から弾き飛ばす。羽毛のように軽々と距離の離れていた鉱石に衝突、鉱石の破壊が起こる。故に、その勢いの恐ろしさが垣間見れた。
「――グレーテルッ!!」
頭部も打ったのか紫苑色の髪から流れる鮮血が額から頬に伝う。苦痛な表情のまま双眸を閉じるグレーテル。
気を取られていれば、グレーテルを飛ばした犬手がツルギへ襲い狂おうとしている。
治癒能力の高さのある『暴食の担い手』はあれほどの痛手を受けているが時間を得れば回復するだろう。
だが、ただの人間であるツルギは別だ。あの一撃に、あの衝撃をその身で受ければ生が途絶えるのは必衰。命乞いが通じる相手でもない。回避するにも脚は棒のようになっている。生命の窮地だが、不思議と最期を迎えるのも悪くない。そう思えてしまった。
ツルギ一人が生きているだけで何が出来る。
生命活動をする上で食事を摂る。その分を恵まれない人々の元へ与えてはどうだろうか。
生きていて何が出来る。
今朝の出来事を思い出した。カガミを傷付けた。それは他でもないツルギ自身のせいだ。
生きていて何が出来る。
大陸崩壊。それは預言者ウァサゴからの預言を聞いてしまったツルギがいることで因果を結んでいるのではないか。いなければ、他の者がうまくやってくれる。
生きていて――生きる意味って――。
ツルギは『死』を待つ。
眼前に襲い来る犬手。強大な手で粉砕されれば死ねる。死ねば食物は最低ツルギ分は節制出来る。人の感傷を節制できる。無駄な努力、頑張ることを節制できる。だから、死ねば――。
その感情らがツルギの運動行為、思想、思考を支配した。
だが、ツルギの懇願が叶わない。
犬手に割り込むのは三つの影。トランプ兵二体とカメ。
激しく強打する衝撃音が森穴の中で響く。強打したことで犬手はその手を大地に押し付ける。地盤を変形させる程の腕力。
犬手がゆったりと大地から離れる。
犬手に執着のように張り付く血。赤い赤い鮮血がねっとりと吸い付くように犬手から剥がれない。岩肌の大地に残ったのは真っ赤な血だまり。粉砕された臓器。
アリスの従者が身を挺して攻撃を防がなかったらそこの血だまりが自身の体内に流れる血だった。
「う……う、そ……うそだろ……ッ!」
悲痛な声が届くわけはない。相手は獣であり、恐慌の存在。
恐慌の犬手が再び振り被り、ツルギへ襲い来る。空気を強引に割り込む強力が、ツルギのいる空間ごと振り切った。
岩肌も風圧によって軽々と弾けていった。
† † † † † † † † † † † †
アリスの手に灯る光の粒が集結し一枚の形を三つ顕現させる。
ヲルフォの犬手に張り付いていた鮮血と臓器、血だまりが瞬間的に光を宿してそこから消失した。
「……おつかれ……さま……ドードーも……」
「きぇえ!」
ドードーと呼ばれた巨体の鳥。人よりも一回り大きな胴体。皮膚を露わにするその頬に小さな掌が届いた刹那にドードーは、鮮血同様に光を帯びてアリスの手元のカードとなる。
「――いでっ!」
ドードーの消えたそこに唐突に現れたツルギが顎を擦りながら立ち上がった。
「乱暴だなおい。だけど助かった、ありがとう。それにしても……」
ツルギはあの刹那に全てを投げ捨てかけていた。『死』からの節制を受け入れていた。
だが、そんな懇願は叶えさせなかった。アリスは従者ドードーを召喚していたのだ。刹那の走りとツルギを担ぎ上げ窮地からの脱出を果たしていた。その時、生き延びた喜びがツルギを正気の状態に戻した。
眼前で広がった真っ赤な死を受け入れられない情が生還した喜びとなったのだ。
「なんであそこまで生きることを止めようとしたんだ」
『暴食の獣・ヲルフォ』の権能であったのか。
だとしたら辻褄が合う。生きる本能を喰らった。そう考えれば道理が通る。
「グレーテル!」
先刻の状況の謎は差し置いて、現状としてグレーテルの意識が戻っていない。
少し離れたグレーテルに駆け寄り抱き寄せる。
女性アレルギーが腕を通して血を巡り胃に入り込む。嗚咽が込み上げるが呑み砕く。
眩暈が視界を揺らがせる。意識が飛びかける瞬間に、下唇を噛み痛覚で自制をさせる。噛み切れた唇から顎にかけて赤い筋が伝う。
「おいグレーテル。起きろ起きろって!」
その身を軽く揺すると眉毛が微動する。ツルギは安堵に息を漏らす。
そして、薄らと力なく開かれた灰色の双眸。少しの驚愕した表情を浮かばせて、白い手をツルギの頬に添えた。
「……兄さん、そんなに、大声を張らなくても、起きますわ……。兄さん、唇が、切れて、いますわ……痛そうですわ……はやく、治癒を……」
掌に籠る温かい優しい光。グレーテルとの一戦後に施されたことのある治癒魔法だ。
その掌を握ってグレーテル自身の胸に落ち着かせる。
「馬鹿かお前! 自分がこんな状況だってのに……!」
「……わたくし、なんて……どうでも、いいですわ……それより、兄さんが……傷付くことが、わたくしには……耐えられませんわ……」
「どうしてそこまで……俺なんかのこと――!}
「何を……仰るのですわ……? 『俺なんか』なんて……仰らないで……ください、ですわ……。兄さんと、共に、いることが……兄さんが、生きて下さって……笑ってくれて……いる、ことが……わたくしの……生きがい……なのです、わ……」
「――ッ!」
――そうだ。そうだった。俺は、クサナギ・ツルギの前に、義理だとしても、こいつの……グレーテルの兄だ。なのに、生きることを止めようと、全てを放り出して死ねばいいと、グレーテルのことを何も考えてやれなかった。グレーテルだけじゃねぇ。カガミもアリスもシンシアもサチコも村の人たちもマモンも裏切ることだってのに……。
「ありがとうグレーテル。お前のおかげで気付けたよ」
「……わたくしは、兄さんが……だいすき……ですわ……」
その言葉は『ヘンゼル』にかけられるべき言葉なのだ。
だが、今は義理兄として拝借させてもらう。それが、ツルギの活気に繋がる。妹を救いたいって気持ちはヘンゼルもツルギも同じなのだから。
「ぼくもだグレーテル。だから、グレーテルにも生きてほしい。自己治癒は出来るか?」
大粒の涙を目尻に溜め込み頬を紅潮させたグレーテル。彼女の赤く揺らぐ双眸に映るのはきっと今は亡きヘンゼルなのだろう。
今はそれでもいい。時間を得てしっかりと説明をしよう。ツルギはツルギで、ヘンゼルはヘンゼル。と言うことを。
黙り続けていたアリスが小さく呟いた。
「……もう時間……ヲルフォが、動く……」
その言葉に視線が勝手に魔獣・ヲルフォへ向かう。
眠り続けるサチコを最深の鉱石台に寝かせて淀んだ赤い瞳がツルギたちを狙った。
大事そうにして、後で堪能しようとしているのか。
身が縮まる。気持ちが収縮する。脈動が異常なほどにゆっくりになる。
「……出来ませんわ」
呆気にとられて疑問符を浮かばせながら声を漏らすとグレーテルは続けた。
「……出来ませんわ……きっと、この『節制』のせい……ですわ……」
『暴食の獣・ヲルフォ』の雄叫びが『節制の森穴』に轟音として響き狂う。




