第二章31 『三日目の朝陽』
サチコ。少女はアジア系特有の黒髪と黒い瞳を持つ少女。
預言者ウァサゴと日本からの異邦人の孫であり、ツルギは日本とこの世界の繋がりに確信を持った。
思い返せばこの世界に来てから黒髪、黒目の人は見かけていない。
唯一の繋がりへの手掛りが目の前に居る。異世界召喚された者として、繋がりへの探求心は、元の世界に戻らずともあるのだ。
「そのおじいちゃんには会えるか。会わせてほしい」
「それは無理なの。ごめんなさいなの」
探求心を芽生えた矢先に崩され焦りが額に汗を滲ませる。
ツルギの言いたいことを先に越してサチコは言葉を続けた。
「おじいちゃんはサチが生まれる前にすでに亡くなってた、なの」
芽生えた希望の芽が潰される瞬間は思いのほか絶望感がなかった。
寧ろ異世界に来たばかりのツルギにとって早々に元の世界とこの世界を繋げる謎が解決するほど容易な事柄ではないと分かっていたこともある。
だが、
「それは悪いこと聞いちまったな。ごめん」
「いいなの。元々いなかったし特別な感情もないなの。でも少しは故郷のお話、聞きたかったかなーって思う程度なの」
「そっか。サチコの名前はもしかしなくても?」
「ご名答なの。おじいちゃんが『孫に名を付けるときはサチコと付けてほしい』って言ってたらしいなの」
道理で古風な日本人の名前だと思ったが、祖父が日本出身でその事情なら納得せざるを得ない。
「なるほどな。……なんか用あったんじゃねぇのか?」
「そうなの」
少し躊躇した様子を見せてから口元の力をそっと抜く。
「しっかり謝らないとなの。ごめんなさいなの」
「お、そんな畏まって。こっちが感謝せど謝罪されることはねぇと思うが」
「サチこそ感謝されることしてないなの」
「いやな、見知らぬ連中を一泊させてくれんだ。それだけでも大いに感謝することだと俺は思う」
「それはアガレスさんの頼みなの。恩師の頼みとなったら断る理由はないなの。これくらいで恩が返せるとは思ってないなの。でも少しでもアガレスさんに助力することが出来るならするなの」
「相当アガ爺に恩があんのか? もしかして唯一の返せてない恩って」
「アガレスさんじゃないなの。アガレスさんには助けられること多かったなの。でもそれに見合うように恩を少しずつでも返してる最中なの。……その方には何一つ返せてないなの」
そっと後悔を悔やむように下を俯く。
小声で絞り出したような声は少女の悔いの象徴。その言葉の意味を言及は出来ない。きっとその相手はもう……。
「サチの話はいいなの。くさなぎさんの名前はどうゆう字なの?」
机の引き出しから紙と鳥の羽のペンを取り出す。
ベッドから横移動をし自身の名を思い出しながら筆をとる。
だが、
「……それはここのジャパノ語なの。元いた世界の言葉で書いてほしいなの」
今知ったこの世界の言語の名。異世界語、ジャパノ語で『クサナギ・ツルギ』の名を記すが、サチコは納得せずに今のツルギにとって無理難題を押し付ける。
思考を焼き回路を記憶に繋ぐ。
学校での教科書、名札、黒板に書かれた日直、家門の表札、それら全ての文字は記憶に靄が掛かったように霞む。その他の物や人、風景までも記憶の限り思い出せる限界まで思い出すことが出来る。
だが、文字だけが全く思い出すことが出来ない。これはきっと、ウァサゴの『言語の譲渡』の影響だろう。
思考を悩ませたが思い返すことが出来ないまま時は流れた。羽の筆を机にそっと置きサチコの方へ滑らせる。
「……期待に応えれなくて悪い。思い出せねぇ」
「こっちこそ無理の押し付けしちゃったなの。くさなぎさん明日早いなの。そろそろお暇させてもらうなの。ごゆっくり休んでなの」
逃げるようにサチコは部屋から姿を眩ませる。
きっと彼女も……。
「自分のじいさんとを繋ぐ人が現れたんだもんな。俺もそうだったし、知りたいよな」
ツルギはこの世界から戻る気が更々ない。だが、探求の心は止まない。
サチコもそうなのだろう。
だから異邦人ツルギが一人になったこの時に一つ尋ね申した。その期待に応えることが出来ずに、そして、自身の本名、日本語の本名を思い出すことが出来ないことは言葉にし難い歯痒さが付きまとう。
自身の故郷の文字はこの世界、ジャパノ語に覆い隠されてしまっている。
日本語を思い出すことが出来るのか。自身の故郷の本名を思い出すことが出来るのか。石碑に記された日本語を読むことが出来るのか。
それは、預言者にすら分からない。
† † † † † † † † † † † †
静かな夜の帳を掻い潜って異世界再召喚三日目の朝陽が昇った。
睡魔に襲われるのが意外にも早く、昇ったばかりの朝陽をこうしてツルギは一人全身に浴びながら背伸びをしている。
のだが、
「――あれ? くさなぎさんなの」
「その声に口調はサチコではないか。おはよう。こんな朝早くにご苦労さま」
見慣れた村娘の恰好のサチコが背から声をかけた。
足は仁王立ちのまま上体を背に向けて華麗に朝の挨拶を届ける。
「おはようなの。朝早くってなのは、くさなぎさんも一緒だと思うなの。眠れなかったなの?」
「そんなことないぞ。寧ろ昨日の夜サチコが出て行ってすぐに眠りこけてたし爆睡だった。まあ、その分早く起きちゃったわけなんだよ。サチコはいつもこんな早いのか?」
「なの。でもこの村の人たちはみんなこの時間に起きるなの。ほらそろそろみんな出てきてるなの」
サチコがツルギから視線を外して幾つかの隣家に目を配る。
言った通り老若男女問わずぞろぞろと村人たちが外へ出てくる。そして、皆同じ方向へ歩みを向ける。
「みんなどこへ向かってんだ?」
「中央広場なの。この村じゃ朝の恒例、朝陽の体操をするなの」
「……たいそう?」
「そうなの。よかったらくさなぎさんも一緒にするなの?」
朝の体操と言うことは元の世界の『ラジオ体操』に近いことなのだろう。
この世界にもそのようなことが広まっているところ、もしかしたら日本からの先住異邦人が広めた可能性もある。とはいえ、朝陽を浴びながら体操をするのは体にいいわけだから先住異邦人が『ラジオ体操』を広めたといった推測は買いかぶりだろう。
「折角だ。お供するぜ」
二人横に並びに中央広場へ足を向けた刹那。
甲高い声域の低い声がツルギとサチコの間に割って入った。
「――体操もいいけど、それより、『昨日の夜サチコが出て行って』ってお二人さん何をしでかしてやがったのかそこんとこ詳しく聞きたいなー」
「ぬわっ! カガミか、びっくりさせんなよ」
「えとえとえと、くさなぎさんが固いって言ってたなの。それでサチはやっぱり男の人は柔らかい方が好きなのって、それで女の人は固い方が好きだから、くさなぎさんに色々教えてもらってたなの、くさなぎさんは何も悪くないなの、サチが押しかけちゃったからなの」
「……かたい、男の人は柔らかいのが好き、女の人はかたいのが好き、色々教えてた……へぇえー。いろいろ教えてたんだ。そっかツルギは男の子で柔らかいさっちんにいろいろ教えてたんだーへえー」
「おいサチコ! その言い方は語弊がありすぎるだろ! えっとだなカガミ。カガミは勘違いしてるんだ。俺とサチコは変な関係じゃ」
「勘違いも何もツルギがしたいようにすればいいと思うよ。私はそれを止めもしないし。健全な関係をどうぞ作ってください」
「ちょま――!」
踵を返してサチコ宅に再び帰るカガミ。
いわゆる嫉妬と言うやつだろうか。今まで――元の世界に居た頃以降は女性との接触が増えたことは多かった。なのだが、カガミがツルギに対してこのように嫉妬心を燃やすことはなかった。カガミがツルギに対して抱く好意は随分分かっている。だが、なぜそれが今起きたのか、それだけが分からない。
だが、
「やれやれ猫娘もお子様ですわ。男性の浮気の一つや二つ、寛大な心を持てば些細なことに過ぎませんわ。それに比べてわたくしは兄さんが誰を好いても、わたくしの元へその愛が向けられることは決定事項ですわ。ですからわたくしは兄さんがお元気のままでしたらいいですわ」
今にも頬擦りをしかねないほど距離を縮めるグレーテル。
浮気云々は置いておくとしてもこの子の兄への愛は本物なのだ。兄を信じ、兄を愛し、兄を――。
「……くっくっく。これで一人猫娘を排除出来ましたわ。昨日言ってやったことが実に聞いてますわ」
周囲にばれてないと思っているのか、口元を隠して小声で犯人が犯行声明をした。そのくせに目元は笑顔で埋め尽くされている。
恐ろしい義理妹だ。
「グレーテル、全部聞こえてるぞ」
「――んぎゅ!!」
「ったく。後で謝っておけよな。俺も自分の汚名を返上しないとな」
「誰があの猫娘なんかに」
「謝っておけよな」
「分かりましたわ」
割と素直なのに多少捻くれ者だ。
出会った当初に比べれば格段にいい方向へ向かってはいるのだが、これからももうひと踏ん張りしなくてはならない。
かつて、否、現行『禁忌の兄妹』の妹であり、『暴食の担い手』である普通の一人の少女を支えるのが、兄ってものなのだから。
「――って、だんだん侵蝕されつつある!?」
「何を仰っていますのですわ?」
他愛ないやり取りをして苦笑を溢すツルギ。
カガミが本心では分かっている。本心の言葉でもないことも分かっている。故に今ツルギが傍にいるべき存在ではないのだ。この場に居合わせず、カガミが家へ入った時に窓際でこちらに目を向けていた一人に期待しておく。
「……ご、ごめんなさいなの。またサチは――」
「気にすんな気にすんな。腹でも減ってるんだろ。んなことはとりあえずいいから、行こうぜ」
「はいなの。でもやっぱりごめんなさいなの」
「はいよ」
「獣娘は悪いことしてませんわ。勘違いをした猫娘が悪いのですわ」
「それお前が言うな。勘違いさせた犯人め」
歩みを村人たちと同じ方角へ向ける二人。
兄ツルギの言葉に口を尖らせる妹グレーテル。
端からその二人のやり取りを見ていたサチコが一つ溢して笑みを作った。
「本当に仲の良い兄妹なの」
その呟きは先に歩んだ二人には届かなかった。だが、第三者から見れば二人の姿は紛れもない『本物の兄妹』にしか見ることは出来ない。