第二章29 『最悪からの帰還』
少し顔を上げれば夜空を覆い隠してもおかしくないと錯覚を覚えてしまう程の月が佇む。
渇いた空気を微風がさらにその渇きを押し付けてくる。一人は茶色の前髪をゆったりと靡かされ、一人は頭巾が小さく揺らす。
暫しの沈黙を破ったのはシンシアだ。
「……月、大きいですね」
「…………」
「月ってなんであると思いますか?」
サチコは口を噤み沈黙を貫く。シンシアもそれ以上発することなく沈黙の先の答えを待った。
数秒か、数分か、沈黙が続く。
静かな丘に降り注ぐ月光。背には魔獣が潜むと思われる森。
森の木々が二人の沈黙に痺れを切らしたと思えるように微風を受けて騒がしく葉音を立てる。
それに掻き立てられたのか急かされたのかは分からないが、サチコが沈黙を破る。
「……そんなことどうでもいいなの」
「月ってなんであると思いますか?」
「なんなの……」
「なんであると思いますか?」
天から地を眺める月を見つめ合うように眺め返すシンシアがこの世界のお決まりモードへ突入し、それを確認すると観念したようにあからさまに鼻から息を漏らす。
「質問に答えないとずっとそれなの? はぁ、分かったなの。えと、月はなんであるのかなの?」
「ええ。時に夜を明るく照らし、時に太陽を隠し、時に夜のそこから姿を眩まして暗闇を届けさせる。そんな月はなんであると思いますか?」
「……うーんと、昼に出てくると影作ったりまるで夜みたいにしちゃうなの。迷惑な話なの」
事実、昼に月が昇ればこの世界の大地全てを覆い隠すほどの大きさではないものの、一つの村、国の半分までもが丸い影で隠されてしまう。
シンシアとサチコとのこの場にいない異邦人ツルギがその光景を目の当たりにしてはいないが事実として数日に何度かその瞬間は訪れる。
元の世界、地球の日食とはまた別の事象だが考えは同一。元の世界の月の対照が大きく異なるからツルギは考えにくいではあろうことも事実。
「でも、夜は夜でいないと困っちゃうなの。街灯の少ない夜道はふらふら出掛けられないなの。だから神様が足元を見やすいように空に浮かばせた、だと思う。なの」
呆然と頭巾越しに月光を浴びて月を見る。
シンシアは自身の膝を当て合いながら「ですね」と一つ溢す。
「月の役割はそんな感じだと私も思います。ですが、なんであると思いますか?」
「また同じ質問なの。いい加減にしてな――」
言葉が声が息が喉から先に出ることが出来なくなった。
常識で考えた範疇での回答は整合性もある。それに対してもシンシアは同意をした。だが、シンシアの見つめてくる双眸には冗談が一切混ざっていない。その瞳を向けられたサチコは喉を鳴らして続けた。
「――の。……って顔はしてないなの。でも、サチの考えはそれ以上でもそれ以下でもないなの。シンシアさんは何を望んでるなの?」
「これには答えはありませんよ。でも私の考えを教えますね。夜を照らす月。たまに照らすことはしないけどその分そのありがたみや役目がほんのり人々は分かる。サチコちゃんもそうでしょ?」
「……なの」
「ですから、私が言いたいことは、人も物もそれぞれがそれぞれに役目を担っている。ってことです」
一言一文を言い終えたシンシアは満足げに月を眺めてサチコはその横顔を疑心になりながらの瞳で見つめて頬を強張らせる。
「そこでサチコちゃんに質問です。――サチコちゃんは、どうしたいですか?」
先刻の問いと同じ問いだが、その真意は同一ではない。
内容も何も関わりのない問いかけとシンシアの考え。その中に含まれる真意は何なのかサチコは未だ分かっていない。だが、一つ分かることはサチコ自身の「どうしたい」かと言う問いの答えは変わっていない。
「……サチは、『アリスメル村』に、行く……なの……」
シンシアとの会話を済ませた後でもその答えに変動はない。ないのだが、心に疼く歯痒さとも言うべき感情はなんなのか。
その気持ちを現すように言葉がうまく喉を通らず一区切りずつ発して言った。
「うふふ」
「な、なにがおかしいなの!?」
「あらごめんなさいね。でもサチコちゃんの答えが戸惑いもせずに変わらなかったものですから」
「…………」
「……ちょっと意地悪だったかもしれませんね。単刀直入に申します」
ふざけていたわけでもなく冗談でもない空気ではあったが、先刻までの会話が冗談で覆われたものだと思っても不思議ではなくなるほどの圧の変化を全身で感じる。
変わらない温度。変わらない湿度。変わらない風。変わらない月光。変わらない風景。変わらないシンシアのほくそ笑み。変わった雰囲気にサチコはなぜか背筋を伸ばしてしまう。
「――今村を出るのは厳しいと思いますよ。月が夜道を照らしても森は阻害されてしまいますし、時間が経てば月も姿を眩まします。こんな時間に危ないですよ」
「…………」
「第一、元々の元です。サチコちゃんが『アリスメル村』に行くってなった発端です」
「…………」
「それは私なはずです。あの時言った恩返しを果たしたいのならやはり出発は明日の方が気持ちがとても楽です、私の」
「…………」
「約半日かかるのですよ? それを今出るとなれば『アリスメル村』に到着するのは朝になるかもしれませんが、それをしたら誰が一番心配するし悲しむし怒ると思いますか?」
「……おば」
「そうですウァサゴさんが一番心配も悲しくもなって怒りますよ。ウァサゴさんのことを考えるのでしたらやはり、出発は明日にするのが一番巧妙な考えだと私は思います」
怒涛の『今』に対してだけの否定に言葉を押し返されてしまうサチコ。
言い切った後、鼻を鳴らすシンシアは眉を寄せて口を噤む。その姿はサチコの返答を待っているように見えてサチコは思いを綴る。
「……シンシアさんの言う通りなの。でもシンシアさん」
謙虚な姿勢のサチコに程良く育った胸を張るシンシアが再び鼻を鳴らす。
「サチもこんな時間に森に入るのは怖いなの。元から明日出発するつもり、なの」
「…………」
その元から立てられていた予定に対して怒涛の説教をしたことによって自身に少しの羞恥心が芽生える。
止まらなかったシンシアの勢いの最中と同じ強さの微風が靡くと静まったその空間に心地よく音を奏でる。
「そ、そうよね! し、知ってたけど一応念のためにだから、うん」
焦るシンシアの姿は初めて見たかもしれない。
ここまでの取り乱しようと羞恥に頬を赤らめる彼女は普段の大人びた様子に比べても非常に珍しいと思った。そんな瞬間も一時で終わる。
無理に咳を一度するとシンシアは紅潮を沈めてサチコに瞳を向けた。
「……なら、分かっていますよね?」
「何をなの?」
「それはもちろん――」
だからだろう。普段見せない彼女の姿が印象的で、必死で、その想いが心の底まですとんと落ちてきた。
一瞬だけでも見せた彼女の本音と心からの必死な姿に呑み込まれてしまったのかもしれない。
それは一種の『愛』なのだから。『愛』は尊いものなのだから。向けられた『愛』には『愛』で返そう。
「――ウァサゴさんの気持ちを無碍にするのですか?」
今の今までのやり取りが根底から覆される。
月の話も、それぞれの役目の話も、シンシアへの恩返しの話も、出立の時間の話も、全てが根底の部分から崩壊する。
だが、それは崩壊とは違うのだとサチコは気付いている。
寧ろ、サチコの限界線の決壊なのだ。サチコは祖母、ウァサゴの近い未来の死を知らされた。その予言に対して取るべき行動は誰が何と言おうが祖母の傍にいて支える。それだけが答えになっていた。
なぜ祖母は『アリスメル村』に近付くな。と言伝をしたのか。
それは預言の力を持たないサチコには何も分からない。だが、預言者ウァサゴが意味もなくそれを言うとは思えない。その先に何があるのかないのか分からない。
だが、
「――わかったなの」
「ウァサゴさんも喜ぶと思いますよ」
「でも、なんでなの……。おばあちゃん」
月を眺めて月の下にあるであろう村に住むウァサゴに向かって問う。
ウァサゴの死が何を呼ぶのか、戦慄を呼ぶのか、それ以外に考えられることはない。孫が心配であるおばあちゃんはそこから心配事から遠ざけるためにサチコを近付けさせない。
「うーん。私が思うに、ウァサゴさんはウァサゴさんの。サチコちゃんにはサチコちゃんの。それぞれの役目があるからその役目を果たしなさい。ってことだと思います」
それぞれの役目を果たす。
それが預言者ウァサゴの願うことなのだとしたらサチコが伝えられた言伝「アリスメル村に近付かないように」それを果たすことが今のサチコに出来る精一杯の祖母への孝行なのだ。
「月には月の役目があるように」
そう言って尻を払う仕草をするシンシアが月を眺めて思いを固める。
それは自身へ言いかけている。と思えたサチコも膝を押し返して立ち上がるとその反動で白色の頭巾から艶やかな黒髪を露わにする。
軽く尻を叩き小さく小さく自身と隣に立つ彼女にしか聞こえない声で、森にも丘にも届かない声でそっと「おばあちゃん」と呟いた。
† † † † † † † † † † † †
見知らぬ村の道をシロウサギを追いながら歩む。
一軒の住宅を曲がったところをツルギも真似て曲がると一歩先に立ち止まるシロウサギ。
「ぬおっ! 踏みつけるとこだっただろ。急に停まってどした?」
「…………」
その問いには返事も態度でも示さないシロウサギ。呆れながら額に手の甲を当てて手越しに月光を視界に入れる。
「……アリスが呼んでいる。帰らなくては」
ツルギの膝程の背丈のシロウサギが軽く踵を返してバックラン。
ツルギの股をすり抜けて今来た道を逆走していく。
「ぬおっつ! 一々危なっかしいウサギだなおい。……でもアリスが呼んでるってことは見つかったんだなサチコ」
安堵に包まれながら先を行ったシロウサギを追おうと住宅を曲がると小さなシロウサギが豆粒以下の大きさに見える。
暗闇の先に地面を跳ね上がる白い物体。
「って、置いてくなよバカウサギ!」
暗闇に消えかかりそうなシロウサギを必死になりながら追いかける。
自身の迷子状態への焦燥感と、やはり最悪からの帰還への安堵が交差して複雑な焦燥を味わいながらツルギはシロウサギを追いかける。