第二章28 『最悪な状況』
「サチコちゃん。気持ちは嬉しいですよ。けれど私はいいですから……。サチコちゃん昔言っていたじゃないですか。『この広い大地をお友達と旅したい、それが夢なの』だと」
昔を思い出すように瞳を閉じて息を呑む。
サチコは噤んだ口元に一度力を込めると重くその口を開いた。
「……そうなの。でも善義は恩で返さないといけないなの。与えられた善意、恩義に対して何も行わない事はしちゃいけないなの。与えられたら与えられた分……それ以上にして恩返しをする。それが『愛』なの」
人は人に支えられ支えて生きる。恩返し。善意の厚意を与えられれば恩義で返す。それは人と人がコミュニティを培う上で最も最上のことだ。
善意に対して唾を吐くなぞ恩知らずであり罰当たりだともツルギも分かっている。だが、それではいけないのだ。それでは預言者との約束を守ることは出来ない。
サチコの善の心を聞き苦悩してしまう今の状況が悔やまれる。素直に喜ぶことが出来ない、今を。
「サチは一つの恩義を返しきれていないなの」
「たった一つの恩を……」
「そうなの。たった一つ、なの。でもされど一つ……なの。サチがその一つ恩義に囚われているのは自分でも分かってる、なの」
「――で、でもさ。シンシアさんはこう言ってくれてるんだし……ほら、サチコの夢でもあるんだろ? それならやっぱり一緒にいこ」
「ごめんなさい、なの」
礼儀良く静かに頭を下げるサチコ。
彼女は言った。恩義を返すために、と。そして一つの恩返しし切れない後悔の念に囚われ続けている現状を自身でも分かってもいる。
「なんだか胸騒ぎがしてて……なの」
「胸騒ぎ?」
一度頭を上下に動かし言葉を綴った。
「……何か良くないことが起こりそうな、そんな気がする……なの」
それは預言者ウァサゴの孫であるからにして預言の力を有しているのか、親族の死がこういった形で知らせを寄せたのかは、分からない。
前者であったら自覚がなくてもその権能は知っているはずだ。権能を行使しているなら今回のような拒否はしないだろう。明確な答えが提示されていてもなんら不思議ではないし、寧ろ拒否するのなら効率的である。故に預言者としての力があるのではなく後者であるか。ともあれ後者だとしてもそれを察させては可能なことが不可能にしかならないだろう。
親族や親しい人の死の前兆の予測予感予知というのは、元の世界でもフィクション染みたテレビ番組で放映していたが実際にあるのかもしれない。
「良くないことが起きそうって考えてるからその方向でばっか考えちゃうんだよ。こう見えても俺は戦力に少しなるしグレーテルもなかなか魔法なのか分からねぇけど使える。アリスは文句なしだ。ほらほら、一緒に王国行けば楽しいこともきっといっぱいあるぜ。考えてみ考えてみ」
「……んー」
「どうどう? 旅も悪くないだろ?」
「想像出来ないなの。……でも例え楽しいことがあるって言っても……」
埒が明くことはないだろう。コミュ力激低のツルギがよくもここまで耐えたと褒められてもいい程だ。と、自惚れている場合ではない。
「ちょっとカガミ」
隣に座るカガミにだけ聞こえるように耳打ちを少しの間隔を空けてする。
「どうしたら!? すっげー頑なにってなってんぞ」
「んー、でもやっぱり強引はよくないよ。仮に一緒に行けても険悪になりかねないと思うし」
カガミの正論の否定に息が喉を詰まらせる。
何か、何かないか。サチコの危惧を拭い『アリスメル村』から遠ざける、または、近付けない方法は。停止する動きに活気を戻させたのはグレーテルだ。
「兄さんさえいてくれればわたくしはどうでもいいですわ」
「ちょっとグレーテル今は黙っててくれる必死に動いてる脳が思考停止するから!」
ちょっとした怒声にグレーテルは口を尖らせる。ツルギが眉間にしわを寄せていればサチコが息を吸って吐いて静かに声を出した。
「えと、くさなぎさんが言ってるのは、わたしが王国に同行する上で不安があるのかってこと……なの?」
「え、違うの?」
無言で頷くと肯定される。
旅路の危惧があったわけではない。ならば何が彼女の夢へのリミッターになっているのか。それは頷きを前置きにしてすぐに口が開かれた。
「それも考えれば不安なの。でもシンシアさんから聞いたから知ってるなの。くさなぎさんは剣術に長けて、グレーテルさんは独特な魔法を使えて、アリスさんのことは重々承知なの。だから皆さんとの旅は不安は少ないなの。でもわたしはそれが不安じゃないなの」
胸騒ぎ。それは心配事があるときに多くの人が味わうだろう。そして凶事の予感が大よその意味合いだ。
大抵が人生の過去からの経験則からの予想が当てはまる。俗にいう第六感だ。
嫌な予感は不安が積み重なる場合と予測の不安が広がり胸騒ぎに成り得る。ならば逆の法則性を持った楽観的な思考をすることで補わせる。
「今ここから王国に離れること自体が……なんか、なんかなの」
だが、この状況下では楽観的な思考をさせることは不可能に近い。
先に旅での不安は拭われただろう。それはツルギが旅路に関して危惧があるのだと勘違いをしたから先手を置けた。
しかし、真の原因。きっかけとなりえる事柄が一切分からない。故に補足なんか不可能でしかない。
そこから先には進むことはない。
サチコの危惧は王国に向かうこと自体。そして過去に恩返しをし切れていないことで現行の恩を返さないのは罪だと……罪悪感があるのだろう。打開策、それはこの状況を打破する案であり逆手に取った逆転劇。
仮にツルギが考えていることをすれば何が起こるのか。
サチコは必ず『アリスメル村』へ向かうだろう。だが、すぐに帰路に戻る。危惧の不安からの解放の安堵で胸が満たされれば小さな予測は気に掛かることはないだろう。
しかし、それでは元々の契りを無碍にしてしまう。仕方なしの行いだとしても。契約者カガミがどんな状態に陥るのか分からない。それこそ生命力を吸い上げられる可能性もないとは言い切れない。
そこまで不安にならなくても預言者ウァサゴは善人であるだろう。たった数分の付き合いだとしても『大陸崩壊』を伝える時点で悪人度は低い。
だが、カガミが関わっている事柄は別だ。カガミは預言者ウァサゴと契約をしたが、事実カガミにはなんの力もない。武力も鎧も能力も魔法も技術も武術も剣術も、この異世界の異能者や魔獣と交えることとなっても彼女だけは最も守るべき人で守らなければならない人。
それ故に、ウァサゴと契約を交わすカガミの身の安全が確保出来ない以上、預言者ウァサゴとの約束事は遵守するべき事項の一つ。
悩めるツルギが眉間にしわを寄せまくった頃、一人の紫苑色の少女が口を適当に開いた。
「何をうじうじおらしているのやら……そこの獣娘よくお聞きになりなさいですわ」
少しばかり顎を上げたグレーテルが冷たげな灰色の双眸で見る。その声にサチコは警戒心を少しだけ上げて肩を強張らせた。
それらを踏まえた上で、決死の覚悟を決めた。ウァサゴからの言伝を伝えることを。
グレーテルが口を小さく開いた刹那に手を正面に割り込ませてその行為を遮り首を横に振ってグレーテルの行為の継続を阻止。
「サチコ。落ち着いて聞いてほしい。サチコ、お前のおばあさんのウァサゴは――」
† † † † † † † † † † † †
祖母の現状を伝えれば状況の悪化は容易に見込めた。
だが、下準備が疎かだった。
サチコ自身は移動のしやすい長いテーブルの端に席を取っていた。ツルギがその正面で両サイドが言わずとも二人。左奥、サチコの右がアリスで、その逆がシンシアだった。
そして、家の作りを簡易的に説明しよう。アリスの背、三歩ほどの距離に玄関がある。
ここまで説明をすれば分かるだろう。
サチコの祖母ウァサゴの言伝「アリスメル村に近付かないように」と伝えると徐に立ち上がって欠かさずに家を飛び出したのだ。
そして、現在ツルギ一行総出で捜索中である。但し、アリスはサチコ家待機である。
夜中になり家から外に漏れる光が少なくなっている。それを見れば大声での捜索もし辛いところである。
ツルギは気絶していたこともあり『アリスメル村』への道すら分からない。故に違う方向へ分かれて捜索をしている。
カガミとグレーテルは大よその道は分かっているらしくそちらへ一緒に向かい、シンシアは『ロトリア村』自体割と頻繁に訪れることもあり全域は知り得ているから個人的に当てがあると駆け出した。
そして、ツルギ、カガミとグレーテルには互いにアリスの従者、使い魔が同行をし互いの連絡網としている。
「ったく。最悪な状況になっちまった。おい、道分かってんだろうな?」
「…………」
ツルギの声に少し後ろを見て怯えながら逃げるように跳ねて道を突き進む。
小さな小人のような生物はシロウサギ。白い毛並に長い耳、真っ赤の瞳。メジャーなトランプの柄、マークが描かれた服を着たウサギである。
声を掛ける度に怯える姿は全く借りてきた猫を思わせる。
ともあれ、無口なシロウサギとともに捜索に当たっているツルギはあまり期待せずに、他の三人に期待を込めて足早にシロウサギを追いかける。
† † † † † † † † † † † †
呼吸がし難くなるほどに外気は冷えている。その中を全力疾走する女性、シンシア。
当てがあると言ったものの、血相を変えて飛び出した興奮状態のサチコは初めて見たのが事実である。
故に、確信ではないが闇雲に捜索をする。または、『アリスメル村』へ発ったと推測して節制の森に足を踏み入れたことを考慮し森を捜索する。それはあり得るだろうが、限りなくない。
故にシンシアは『ロトリア村』敷地内だが人目に付きにくく森に接している小さめの丘の高原に足を運んだ。
雲が風に吹かれて正面から後方へ流れていく。その上を月が月白を降らせる。
丘を登ったところは村を一望出来る。だが、その正面は子供も超えれる仕切りとしての紐が一本別空間だと認知させるように張り巡らせてある。
その端っこ。地面に打たれた杭に寄り掛かる頭巾を深く被る人が一人。
「はぁはぁ……ん。やっぱりここでした、ね」
「……なんで、なの」
「サチコちゃんは、どうしたいですか?」
「サチは『アリスメル村』に行くなの」
「そっか」
それだけを呟くとサチコは膝を抱える腕の力が強まった気がする。
「私がなんで来たのかと言いますと――」
シンシアはサチコの横に「よいしょ」と言いながら座る。
「少しお話、しましょう」
そう切り出すとサチコは無言で自身の膝を見つめるだけだった。