第一章13 『日常の中の非日常1』
――意識のない無意識の中、思考すら働くことのない世界。
その中でしゃっと鋭利に素早く音が鳴り、それが聞こえればすぐにコツンと物体と物体がぶつかる衝突音が耳を通り、またしゃっと鋭利な音が聞こえ衝突音が繰り返される。
どこか心地よく感じるその音が意識のない世界から呼び覚まそうとなり続ける。
それらの音は鳴り止みしばらく再び何もない、無の世界に舞い戻る。
その無になれば思考が働いた。
――さっきの音は、なんだったんだ。
それ以外に思考に加担することはなくただただあの音を思い返し考え結論に辿り着かないだけだ。
それだけを考えていれば次に耳を通っていく音。
グツグツと空気が形成されては弾ける。ただそれだけの音が無数に何度か数えられないほどに通り過ぎる。
その音色に思考を阻害され再び思考の働かせることが適わない。その空間がどこなのか、自身が何をしていたのかすら思い出すという行為すら出来ずに音色が止むのを待った。
しばらくして、誰かの声が音色に横入りする。
「――うん、もういいかな」
その声で思考が甦ると共に徐々に五感が順々に覚醒を果たす。
視覚、無の世界が弾け消え薄らと黒色に白色や赤色を所々に飛散させた風景。
聴覚、曖昧だった音たちは明確にはっきりと音を耳に届け先刻の彼女の声を明白にした。
味覚、口に広がった土と唾液の混ざった嫌な味。
嗅覚、無の感覚から襲い狂う空腹を促す野菜などの新鮮な香り。と女の子の部屋の匂い。
触覚、舌に飛散されたざらざら、土だろう。腕や手足、顔に纏わり付くほど心地よい温度。と、この後が重要かつ脳が覚醒を果たす引き金ともなる。
ぼんやりと曖昧だった世界から徐々に現世に覚醒し始め重い瞼を開こうとしたその刹那、耳を通り鼓膜を微震させる呆れ声。
「全く君はいつまで寝ている気だい、起きろ――」
その声と共に軽く薄らと開かれた双眸は白色の陽の光を捉えるのに必死。そして腹部を襲い来る突然の激しい衝撃が腹部を震源としてまるで稲妻に打たれたと錯覚してしまう程の衝撃が襲った。
同時に薄らと開かれた双眸は瞬時に瞼が開かれる。黒い角膜は豆のように小さくなり、口からは空気が押し出される異音が漏れる。
「ッグボ!」
「なに変な声だしてるの……。ってフンシー、またからかって……。そうゆーことは、メッ。なんだからね」
「うぅ、からかうにしてもやりすぎだろ」
浮遊した精霊が置き去りにした腹部を擦りながら片目に涙を一粒溜めながら文句を垂らす。
「危うく永遠の眠りにつくところだった」
「あはは。ごめんよツルギ、ちとやりすぎたようだね。謝っておくよ」
「ツルギも冗談はそのくらいにして、ごはん出来たよ」
「いや、冗談じゃねぇよ……。ん?」
鼻をくすぐる香りの正体。木製のちんまりした机に運ばれる器。そこから天に導かれるように水蒸気が上がり揺らめく。眠りに付いていたソファーのような椅子から立ち上がり机に近寄り器の中身を確認。小さな木のようなブロッコリーじみた物、不規則な形の黄色っぽいジャガイモじみた物、鋭利に切られた端面と外面が円を描く朱色の人参じみた物。それらを覆い沈める黄金色に透き通る汁。
元の世界でいう温野菜スープ的な物だろう。
その器から蒸気と共に鼻に届ける香りが言葉にするよりも明白な音を発させた。
空腹の虫のざわめきが発音者以外、調理師、打撃首謀者にも届けると少年は頬を赤く紅潮させて頭を無雑作に掻く。
「いやぁ、そいや昨日から何も食ってねぇから腹減ったわ」
そう昨日から口に含んだ物と言えば水と土。元を辿れば、ツルギはこちらの世界に召喚されたのはあちらの夕刻であり昼食後と夕食の間で最早時間が一時間でも過ぎれば夕食の支度の時刻だったのだ。昨晩から朝にかけて事の重大さで空腹に気付くことが出来なかったのも事実としてある。故に、今こうして空腹を静かに感じられてるのは幸せなのかもしれないとしんみりと思うツルギ。この世界が酷く悲惨でツルギにとっての非日常は日常であり、こうしてゆったりと静かなひと時こそこの世界の、日常の中の非日常だと悟る。
「ともあれ、一目散に手料理を食べたいのだが、口、ゆすいできていい?」
「ボクが洗ってあげようか?」
浮遊する精霊ににんまりと笑みを浮かべられたが笑顔で遠慮して指差しされた水場に向かう。
「遠慮しておくよ。殺す気か」
† † † † † † † † † † † †
了承を得て水場で口を一度ゆすぎ食卓へ戻ったツルギ。
銀のスプーンは少しばかり軽く感じスープを一匙すくい口元に運び吸い、その広がる野菜本来の味が口内に広がり浸透していくのを体感して呑み込む。喉を伝うその暖かみは体の芯から温めていく。早朝から無駄に水浴びを強制的にされたツルギにとってその暖かみは久々に感じる気がした。
「あぁぁ。あったまる……」
怯える猫のようにこちらの顔色を窺う彼女を余所に次にすくい取るのはブロッコリーもどき。
こちらも温かく素材の味以外何もしないが、その素材の風味を極限まで引き出している。
借りてきた猫如くじーっとツルギに可愛らしい真紅の双眸を向けるアテラ。彼女の小さな唇が開いた。
「ど、どう? まずい?」
「ふん、なに言ってるか分からないな」
「だから、まず――」
「まずいもん食ってるやつがこんな顔するか? 旨いよ、すんげぇ旨い!」
温野菜とスープを交互に口に運びは喉を通して胃に収める。その速さは俊敏でアテラが呆然とする中あっけらかんとその様を気に掛けないように器の中身を空にしてスプーンを片手にアテラに向かって器を大きく突き出して偽りのない満面の笑みで叫ぶ。
「旨い! もう一杯!」
呆然としていたアテラは口を満足気に曲げて器を受け取ると料理場に向かって手早く盛る最中踵が浮いては床に着き再び浮き着いてを繰り返しながら盛り終わり踵を返して長い赤毛を左右にゆらゆらさせる姿は上機嫌で散歩する猫の尻尾の様だ。
「食いしん坊なんだから。はいおかわり。スープ以外もあるんだから」
ツルギの渡した器ともう一つ別の底の深めの皿を食卓の机に置く。新たに追加されたそれはただの生野菜だ。ドレッシングすらかかっていないように見えるサラダだ。
恐れることもせずに銀のフォークをしゃっと刺し口へ運んだ。
「うん。野菜だ。野菜そのものだ」
「おいしいだなんて、なんていうか。ありがとね」
――おいしいとは言っていないけどな。欲言えばドレッシング的な風味をさらに楽しめるもんがあったらよかった。
と、言葉にも表情にも出さずに呑み込む。味は野菜の苦みが口に広がっていた。だが、彼女の笑顔をおかずにすればその苦みさえ甘く感じる。
「礼を言うのは俺の方だよ。ありがとな」
――こんな俺に優しくしてくれて……。
ふと気付けば野菜は先刻よりかしょっぱくなっていた。
† † † † † † † † † † † †
一通り食べ終わり満腹中枢は達した。
椅子の背もたれに体重を任せ天井を向きだらける。
「だぁあ。食った食った。旨かったぁ」
「うふふ、喜んでもらえてよかった。お粗末さまでした」
「ほんと、ありがとな。マジで旨かったよ……」
そう、旨かった。素材そのものの味を引き出し食べやすいサイズに切られた食材もノンストップに食を進めた一つの要因だ。だけど、なんだろうか。恋しくなる元の世界のあの子の手料理。ここで新たに始めようと決意したはずなのに、帰れるわけないここに残る理由が出来たのに、ふと沸き上がる感情が入り乱れては泡のように消す。
――あそこにいてもあの子の邪魔になる。俺の新しい居場所はここなんだ。
沸き上がった熱をその言葉で消し去り呆然と天井の木目を見つめているとアテラが高らかに自信あり気に声を上げた。
「ふふん、食後のデザートがあるの。これで食事はお終いよ」
「おっ、デザートまであったか。どれどれ頂こうかな」
少しの助走をつけて背もたれから離れアテラの自信満々の横顔と胸を張った整った形の胸と綺麗な白い腕の先、手に乗るイモを視界に入れる。
「……って、またイモか!」
「ふふん、そんなことを言ってられるのも今の内。いいから食べて?」
差し出されたイモは熱過ぎず生ぬるいともいえない丁度良い熱を帯びていた。先刻からイモを食していたツルギは溜息が出そうになりながらも吐き出される前に口の中へイモをそのまま侵入させた。
「――ッ!」
衝撃が走った。まず一つ、皮すら一つの食べ物のように、元の世界の焼き芋の皮とも別格。その皮はタルトのような触感を感じさせて歯で包ませた。そして一つ、中身は先刻までのイモの触感を消し去りこれまた元の世界のチーズケーキのような柔らかでミルキーな触感。最後に一つ、その味はツルギは今までの人生で食べてきた食べ物、デザートの概念を全て凌駕して新たなイモの世界を構築させた。
「……イモ、うみゃあぁあ!」
「びっくりしたぁ、でしょでしょ。渾身の自信作なんだから」
再び整った胸を張って両手を腰へ当てては誇らしげ。
「ツルギ、君を羨ましく思うよ」
「んぐ。そいやなんでフンシーは食べねぇんだ?」
「あ、それなんだけどね」
誇らしげなアテラはどことなく遠慮がちに気遣うように続けた。ツルギはもちろん食べ続ける。
「フンシーは水以外を体に蓄えると、ほらツルギも浴びたでしょ。霊術の水に蓄えた物が混ざっちゃうの」
「混ざって君へ吐き出していいって言うなら食すとしよう」
「うん、それは勘弁だ」
今朝のことを振り返ればあの時の水に食べ物、消化されると人と同じような感じなのかは置いておいたとしても、綺麗になるどころの騒ぎじゃなくなるとしみじみ思う。フンシーの優しさに感謝を、
「……いや待て、フンシー。また俺に水吐き出す気か!?」
「もちろん」
「それも勘弁だぁぁあ!」
残り少ないイモを片手に逆手を脳天に添えて叫ぶと、正面から聞こえる可愛らしい笑い声。
ツルギとフンシーが遠慮して堪えながら笑う彼女に視線を呆然と向ける。
「ははは、ごめんね、でも。ふふ、ははは。二人とっても仲良しだからついつい……ふぅ」
両手の甲をこちらに向けて胸元に置いて心臓の高鳴りを抑えつけるように息を吐く。
ツルギとフンシーは呆然な顔を見合わせて、
「仲良しか、まあ悪くないな」
「仲良くしてあげてるからね。当たり前だよ」
「やっぱなし。ささ、イモが冷えちまう」
冷える要素も無くアテラから渡された時と同温のイモをポイッと最後の一口を口を大きく開けて放り込む。最後となった一口の甘味が口、食堂、胃を温め食後の一言。
「ごちそうさまでした!」
「はい、ごちそうさまでした」
「やっぱり羨ましいなぁ。うん、今すぐ水浴びさせてあげよう」