異世界に旅立ちたい!
とある病院の一室で、男はいくつものチューブを繋がれて眠っていた。
全身は包帯でぐるぐる巻きにされ、点滴が規則正しいリズムで波紋を刻む。
「――――ッ」
不意に男が呻き、次いでその瞼をゆっくりと開けた。
ツンと鼻の奥を刺すアルコールの香り。心電図の無機質な音。全身はまるで蝋で固められてしまったかのように重く、鈍い痛みを訴えてくる。
たっぷり数十秒かけ、男は自分がどこにいるのかを理解した。
同時に悟ってしまう。
ああ、俺はまた失敗したのか――と。
そんな感慨を抱きながら、男は窓の外に目を向ける。
空模様は曇天。今に降りだしそうだ。
まるで、今の自分の心の内を映しているようだった――。
――――――――――――――――――――
「ありがとうございました」
受付窓口でそう告げ、男は病院を後にした。
ふらふらとおぼつかない足取りで歩道を歩きながら、男はふと道路へと目を向ける。
山田雄二、33歳の無職は、淀んだ瞳をそっと伏せて深いため息を吐くと、再び歩み出す。
某日、山田雄二は軽トラックに跳ねられた。いや、厳密には跳ねられに行ったと言った方がいいだろうか。つまりは自殺だ。
しかしこの通り、彼は病院で目を覚まし、五体満足で無事退院している。
自殺は未遂に終わった。しかしその事を喜んでくれる者も、咎めてくれる者もいない。いや、警察や医者には怒られた。そうではなく、彼には親族はおろか、妻もいない。所謂、天涯孤独というやつだ。
ただ、彼女はいた。いた、という事は、ご察しの通り既にフラれている。
高校時代からずっと付き合っていた彼女だったのだが、他の男が出来たからとあっさり見捨てられた。
そのショックからふさぎ込み、会社の無断欠席が続き――解雇。
今はアルバイトを転々とし、唯一の楽しみであるアニメにゲーム、小説や漫画に癒される日々。
そんな抜け殻のような生活を続けていた、ある日のことだ――。
「――は? 二億!?」
何かネットで頼んだっけ――とドアを開けると、そこには、それはそれは厳つい風貌をした男がおり、二億の支払いを要求してきた。
曰く、借金を作ったまま夜逃げした友人の連帯保証人になっていたのが原因らしい。
そういえば、酔った勢いで了承したような記憶が微かにある。
二億――そんな内臓すっからかんに売り払っても稼げるはずがない金額に一晩悩み、明け方、静かに決意した。
――死のう、と。
だが、ただ死ぬのも面白くない。どうせなら、希望を持って死のうと山田雄二は考えた。
つまり何が言いたいかと言うと――、
「俺は異世界で新たな人生を手に入れる!」
山田雄二が愛読する小説に、軽トラックに轢かれて死んだ主人公が異世界に転生し、与えられたチート能力を生かし、ハーレムを築きながら無双するといったものがあった。
どうせ死ぬなら、そんな希望を抱いて死にたい。というか、異世界に行ってみたい。そして美少女と戯れたい。
――そんな願望を胸に、通行量の少ない交差点で待つこと三十分。
遠くから軽トラックが走ってきた。
そう、轢かれるなら軽トラだ。
幸いここはド田舎。軽トラックの通行量は少なくない。
「さよならリアル、こんにちは異世界!」
山田雄二は躊躇いなく道路に飛び出し、そして軽トラに吹っ飛ばされた。
くるくる回る視界の端に、己を跳ねた軽トラの運転手であるおっちゃんが、その目と口を驚愕で大きく開いているのが見えた。
おっちゃんに恨みはないが、おそらく何らかの罪に問われるかもしれない。その事に心の中で謝罪しながら、山田雄二は希望に胸を躍らせて意識を手放した。
――――――――――――――――――――
――結論から言うと、あの運転手が罪に問われる事はなかった。
山田雄二はうっすらと瞼を開けると、その口角を吊り上げた。
意識がある。つまりこれは、異世界に転生できたという証拠だ。
「よっ――ぎゃあああああああああああ!?」
湧き上がる嬉しさから思い切り万歳し、「よっしゃー!」と声を上げて起き上がろうとした瞬間、尋常ではない激痛に見舞われ、山田雄二は絶叫した。
山田雄二は激痛に悶え苦しみながら、ここが異世界ではなく、ただの病院であると理解した。
――山田雄二は、自分で思っていたよりも頑丈だった。
――――――――――――――――――――
――だが、山田雄二は諦めなかった。
退院した彼は、家に帰らずそのままあの交差点に直行。
待つこと五分。遠くから軽トラが走ってきた。
「こんど……こそッ!」
――結果から言うと、また失敗した。
しかも今度は意識を失えず、全身を襲う耐え難い激痛に悶え苦しみながら病院に搬送される始末。
つくづく己の体の頑丈さに嫌気が差した瞬間だ。
病院ではカウンセリングを受けさせられ、危うく精神病棟に入れられそうになった。
何か希望を持つようにと言われ、病院から歩いてすぐの所にある宝くじ売り場に行った。
結果は惨敗。ほとほと自分の運のなさに涙が零れる結果だ。
まあ、当然といえば当然の結果なのだが、これだけ不幸な目にあっているのにも拘わらず、逆に幸運な事は全くと言っていいほど起きない。自分の運勢はバランスがおかしいのではないかと疑うレベルである。
しかしこの結果は、山田雄二の異世界への憧れをさらに強くした。
山田雄二は退院を待つことなく、真夜中に病院からこっそり抜け出した。
今度は場所を変え、コンビニの近くの道路を選んだ。
しかし真夜中ということもあり、軽トラはおろか、車の通りさえほとんどない。
病衣のまま飛び出してきたので、明かりの点いていない電柱の陰に隠れて人目を凌ぎ、愛しの軽トラを待つこと約五時間。
そろそろ夜も明け始め、うっすらと辺りが明るくなり始めた頃だ。
朝が早いおじいちゃんが運転する軽トラがやってきた。
眠気で重くなった瞼が一気に持ち上がる。
逸る気持ちを必死に抑え、軽トラが差し掛かった瞬間を見計らい、山田雄二は勢いよく道路に飛び出した。
「三度目の……正直だ――ッ!!」
――また失敗した。
しかも今回に至っては、自分で立ち上がれるレベルである。
体中は血まみれなのだが、意識もしっかりしていれば、割と普通に歩く事もできた。
山田雄二は、撥ねてもらったおじいちゃんの運転する軽トラに乗せてもらい、抜け出した病院まで送ってもらった。
「ありがとうございました、おじいちゃん」
「気ぃつけや、にいちゃん。びっくりして、入れ歯どっか飛んでってもーたわ!」
「でも、普通に喋っていらっしゃるように見えるのですが……」
「すぺあ、は、ばっちしじゃ!」
真っ白な入れ歯をキラリと光らせ、ぐっと親指を立て去って行くおじいちゃん。
そんなおじいちゃんを血まみれの姿で見送り、その後、抜け出した自分を探していた看護師のおばちゃんに死ぬほど怒鳴られた。
山田雄二は怒髪天な看護師のおばちゃんにすごすご連行されかけ、ふと気付く。これ、頑張れば走れるわ――と。
そして、ちらりと背後の道路の先に顔を向けると、なんと新たな軽トラがやってきているではないか。
山田雄二は――迷わなかった。
「いってきます!」
「どこにふごっ!?」
満面の笑みで駆け出す山田雄二に、手を振りほどかれた看護師のおばちゃんが驚く。しかしその驚き方がまずかったらしく、口から飛び出した入れ歯が山田雄二を追い越した。
「負けるか――ッ!」
先に異世界に旅立とうとする入れ歯に必死に追い縋り、全力で道路に飛び出す。
入れ歯と共に宙に浮きながら、山田雄二の体が軽トラに激突した。
プロペラのように錐揉みしながら吹き飛び、背中からコンクリートに打ち付けられた。
そんな彼を追うようにして、一緒に撥ねられたおばちゃんの入れ歯がカパッ――と音を立て、山田雄二の鼻に噛み付いた。
「――くっさ!?」
激臭に跳ね起き、自分を撥ねた軽トラの運転手のおっちゃんと、入れ歯をなくしてふごふしている看護師のおばちゃん、その二人のぽかんとした顔が赤く染まった視界に映り込んだ。
同時に悟った。また失敗した――と。
というか、何か軽トラに撥ねられる度に身体の強度が増していっているように感じるのは、気のせい――ただの自惚れだろうか。
さすがに立つ事はままならなかったが、意識は明瞭。
ふごふごしながらおばちゃんが他の看護師を呼んできて、山田雄二は再び病院へと担ぎ込まれた。
――――――――――――――――――――
――こうして、物語は冒頭に戻る。
計四回も軽トラに撥ねられたが、その全てが失敗に終わっている。
それどころか、どんどん自分の打たれ強さが上がってきているようにも感じる。
物凄くどうでもいい特性というか、現状では非常に邪魔な体質である。
「はぁ……」
深々とため息を吐きながら、山田雄二は帰路に着く。
もう止めた方がいいのだろうか。ふとそんな言葉が脳裏を掠めた。
だが、異世界への旅立ちを諦めたとしても、現実はどうしようもなく詰んでいる。
あんな多額の借金、一体どうやって返せばいいのか。
鬱屈としたため息を吐いたときだ。ふと見覚えのある場所で足を止めた。
「ここ……」
最初に山田雄二が軽トラに撥ねられた交差点だ。
「――あ!」
しかもどうした事だ。向こう側から軽トラがやってくるではないか。
山田雄二は決めた。これを最後の挑戦にしようと。これで生き残るようなら、違う方法で自らの生涯に引導を渡そう――と。
「待ってろ異世界! そして俺の嫁さん達や――!」
完璧なタイミングで道路の真ん中に飛び出し、ものの見事に撥ねられた。
空中に見事な弧を描いて吹っ飛びながら、山田雄二は口元を「ふ――」と歪めた。
これは、死ねないな-――と。
腕から地面に落下し、片腕がおかしな方向を向く。
全身痛い。苦しい。流血も凄いが、それでも意識はある。
津波のように押し寄せる苦痛に顔を顰めるが、それ以上に落胆が大きかった。
涙が頬を伝い、嗚咽が漏れる。
立ち上がってみる――やっぱり立てた。
どうやら、山田雄二は死神に物凄く嫌われているらしい。
もしくは、異世界に転生させてくれるという神にだろうか。いや、異世界という世界自体が山田雄二を拒絶しているのかもしれない。
「はは……いてぇ……」
いてぇ――で済ませられる辺り、さらに体の強度が上がっているようにも感じる。
正直、この身体の方がよっぽどファンタジーである。
――異世界に旅立つのは、諦めよう。
最後の挑戦前に己に宣言した通り、山田雄二が異世界に行く事を諦めようとした、その時だった――。
「ぶぼらァ――ッ!?」
山田雄二は、再び空へと打ち上げられた。
引き延ばされた時間感覚の中、何が起こったのだと自問自答する。
ああ、そうか――。
己は対向車に撥ねられたのだろう。
突然飛び出してきた人を撥ねるのならまだ分かるが、まさか堂々と道の真ん中に突っ立ている血まみれの男を撥ねるなんて、なんて車だろうか。
だが、怒りは湧いてこなかった。何故なら――、
――これは、死ぬ。
今までとは違う、確かな死の気配を感じる。
立て続けに撥ねられたのが効いたのか、純粋に物凄く打ち所が悪かったのか。
そもそもどこが痛いのかすら分からない。体の感覚が曖昧だ。つまり、完璧だ。
――ありがとう。やっと念願の異世界に旅立てるよ。あるかどうか分からないけど。というか、たぶん俺撥ねたの軽トラじゃないだろうし、ちゃんと転生できるか怪しいけど。
だがこれで、やっと目的が成就された。
もうこの世には何の未練もない。というか、しがらみが多すぎる。だから行くのだ。一からやり直すために。輝かしい人生を掴むために。こことは違う、夢の世界に――。
やがて、山田雄二の意識は風に吹かれる灰のように――消えた。
――――――――――――――――――――
「――――」
窓から差し込む温かな日の光に目を眇める。
すると部屋のドアがノックされ、それに続いて「山田さん、入りますよー」と声がかかり、担当医が部屋に入ってくる。
担当医はベッドの近くに椅子を置くと、その上に座る。
「また、おやりになったんですね」
「……はい」
山田雄二は窓の外を見詰めたまま答える。
そんな彼の様子をどう受け取ったのか、医師は言いづらそうに告げた。
「あなたの事情は存じておりますが、心を落ち着ける名目でもいいので、どうでしょう……精神病棟の方へ――」
「あ、それはいいです。自分、もう異世界に行くのは諦めましたから」
「は……いせか……は?」
あまり聞き慣れない、場にそぐわぬ言葉に狼狽える医師。
窓の外に向けていた視線を、そんな医師に向ける。
――山田雄二、33歳、無職。自殺未遂、計五回。
結局、彼は生き残ってしまった。もうほんと、自分の身体の強度は人間を超えているのではないだろうか。
そんな感慨を抱く彼の手には、先日購入したスクラッチじゃない方の宝くじの余りが一枚、握り締められていた。
ハズレくじではない。当たっていた。それも――、
当選金額――三億円。
まさかの一等だった。
これで借金の二億が返済でき、なおかつ莫大なお釣りが手元に残る。
揺り戻しというか、今まで溜めに溜めた運が一気に爆発でもしたのだろうか。
「――山田さん」
「はい?」
「なんと言いますか……その……」
言葉を選ぶように視線を宙に彷徨わせる医師の態度を受け、山田雄二は苦笑を零した。
おそらく医師は先の言葉を信じていないのだろう。五回も軽トラに異世界に連れて行ってもらおうとしたのだ。それも当然の反応か――。
「大丈夫ですよ」
「え?」
山田雄二は告げる。絶望の淵に居た男は告げる。そう、先ほども言ったように、山田雄二はもう軽トラに向かって突撃はしない。だって――、
「痛車とかないでしょおォォ――ッ!?」
「――――は?」
あのとき、軽トラの次に山田雄二を撥ねた車のボンネットには、アニメの美少女キャラクターがでかでかとプリントされていた。――そう、所謂、痛車である。
残念というかなんというか、山田雄二もまたそのキャラをよく知っており、何とも言えない気分にさせられた。
ただでさえ痛車に撥ねられて異世界に旅立ちかねなかったのに加え、なんとその痛車――実は、あの借金取りの男が運転していたのだ。
その事実を知らされたとき、山田雄二は己の顎の骨が外れる音を確かに聞いた。
「――お医者さん」
「は、はい……」
手の中にある人生をやり直すためのチケットを握り締め、山田雄二は晴れやかな笑顔で告げた。
「俺――スタントマンになります!」