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公爵令嬢フィレーヌ・ロインの思い

 ウェルターが温室に入ってきた時、フィレーヌは好物の焼菓子を楽しんでいた。


(ああ、美味しいわ)


 嫌なことは楽しいことや幸せなことで忘れてしまうのが一番なのだと、彼女の母はよく言っていた。フィレーヌ自身も、つらいことがあったときこそ美味しいものを食べて気分を変えるべきだと思っている。

 目と口を楽しませてくれた花の形をした菓子を食べ終わり、目の前にある空の皿を前にフィレーヌは少し考える。

 正直に言ってしまえば、少々物足りなかった。


(もうウェルター様の婚約者ではないのなら、もう一つくらい食べてしまっても大丈夫よね)


 今まで我慢していたのだからあと一つだけと思い、給仕をしている使用人の方を見てみれば、そこにはいるはずのない元婚約者の姿があった。


(……幻覚が見えるわ)


 レイアードとよく似た整った顔立ちは、しばらく会っていなかった間に精悍さが増し、少年から青年への成長を窺わせていた。

 陽光のような金の髪の下の、夏の空を映した青い瞳がフィレーヌを射抜くと、彼女の心は落ち着きを失い波立っていく。

 

(なぜ、ウェルター様がここにいるのかしら)


 コツコツと靴音を立てながらウェルターがテーブルに近付いてくる。フィレーヌはなるべくウェルターを視界に入れないようにしながら、ゆっくりと茶を飲んで喉を潤した。心臓の音がうるさいほどに自分の耳に響いている。


(今日は何を言われるのか分からないけれど、私の気持ちでも聞きに来られたのでしょうね)


 そうであるならば、きちんと自分の思いをウェルターに伝えなければならないだろう。元婚約者としてけじめをつけようと、無理に笑顔を浮かべながらウェルターに向き直ったフィレーヌは、彼の口から放たれた言葉に拳を握り締めた。



(……きっとウェルター様はいつものように私をリスか何かに喩えているだけよ)


 それでも発言が失礼極まりないことには変わりないが、フィレーヌは我慢して耐える。

 昔から自分に対してだけウェルターは酷い言葉を投げつける。感情的になって言い返してしまえば、彼は嬉々として更に言葉を重ねてくることは分かっていた。


「お久し振りでございます、ウェルター様。ご存じの通り、私は人間ですので冬眠はいたしません。それとも、ウェルター様の目には、私が野生の動物のように映っているのでしょうか」


 分かってはいたが、癪にさわるのだから仕方がない。内心の動揺を悟られないよう表情では冷静を保ちつつ、フィレーヌはウェルターに話しかけた。

 だが、ウェルターは彼女の直接的な問いかけをはぐらかしたうえ、更に彼女の神経を逆撫でするようなことを言ってくれた。


「私には君がいつも通りに見えるよ。縦にも横にも成長する気配が見えないから心配で仕方がない。その体型だと前か後ろか区別がつかなくてつまらないだろう。もう少し脂肪を蓄えた方がいい。さあ、私のことは気にしないで好きなだけ食べて欲しい」

 

 給仕に椅子を引かれてウェルターは当たり前のようにフィレーヌの隣に座ると、彼は幾つかの菓子を手ずから皿に取り、フィレーヌの前に置く。


「君の頬袋は収納性に優れているから、これくらい余裕だろう。どれだけ君の頬が膨らむかを今日は観察させてもらおうかな」


 そう告げたウェルターは、自分のために新たに入れられた茶を優雅に口へと運んだ。フィレーヌは自分の前に置かれた皿とウェルターの横顔を交互に見遣り、気取られないようそっと息を吐いた。


(ウェルター様は、一体どういうおつもりでこの場にいらっしゃるのかしら)


 まさか本当にフィレーヌが菓子を食べるところを見に来たわけではないだろう。

 ウェルターからの婚約解消の申し入れがあったのは、なにかの間違いだったのか。いつもと変わらない彼の態度がフィレーヌを悩ませる。

 どう切り出せばよいか分からず、フィレーヌは菓子を食べることで落ち着こうとした。だが、先ほどまでは確かに美味しかったはずの菓子はフィレーヌの気持ちを幸せにしてはくれず、彼女はただ機械的に咀嚼するだけだった。


(……ウェルター様にとって、私は何?)


 フィレーヌは婚約者ではあったが、正式には内定していたと言った方が正しい。ウェルターが学院を卒業し、成人となるのに合わせて婚約式が行われることになっていた。

 ウェルターが十歳となり、フィレーヌとの婚約が内定した日に、テンダーは宰相となった。フィレーヌに苦労をさせてしまうと父が泣いていたのが不思議だった。父の涙を見たのは、母の葬儀とその時との二回だけであったように思う。

 その時はまだ、自分が王太子妃となることがフィレーヌにはよくわからなかった。たまに遊びに来てくれる綺麗な男の子が将来の旦那様になるのだと、胸が高鳴ったことを覚えているだけだ。


 今になって考えてみれば、親友の忘れ形見が息子と結婚することを望んでいた王妃の思いと、政治的な思惑が合致した結果の婚約であったことが理解できる。そもそも自分がウェルターの婚約者に決まったのは、王妃である彼の母の希望によるものだとフィレーヌはウェルター本人から聞いていた。


『母上がフィレーヌがいいと仰ったから、君と婚約した』


 フィレーヌが年頃になって、時折王宮を訪れて様々な勉強をするようになってから、ウェルターに婚約者が自分でよいのかと聞いたことがあった。

 ウェルターがフィレーヌを婚約者に選んだのは自分ではないと告げた時、彼女は少し悲しく思ったが、同時に納得もした。

 物語に出てくるような美しい王子様であるウェルターと、普通の貴族の娘でしかない自分とでは不釣り合いだと思っていた。

 また、普段の言動から考えて、ウェルターが自分に対してあまり好意を持っていないように感じていた。彼はフィレーヌに対して、ことあるごとに太っていると揶揄するようになっていたからだ。

 ウェルターの愛猫たちを紹介された時は一番大きく恰幅のいい子を指差され『態度が似てたから、名前は「フィレ」にした』と事後承諾させられ、養豚場を視察した話を聞いてるときに『君にそっくりな子を見つけたんだ』と報告され、庭園の散歩中に寒いと言ったら『そんなに身につけているのに変だね』と言われ……、フィレーヌの心はそのたびに小さくきしんだ音を立てた。

 ウェルターに会うことが楽しみだったはずなのに、段々と今度は何を言われるのかということを気にするようになってしまった。もっともその頃のウェルターは、既に学院の寮で暮らすようになっており、フィレーヌと会うことは年に数回ほどしかなかったのは彼女にとっては幸いだった。

 フィレーヌはウェルターから太いと言われることを恐れ、菓子を食べることを控え始めた。だが、太っていようが痩せていようが、ウェルターの口撃(こうげき)は変わらずフィレーヌを傷つけた。

 

(結局、ウェルター様は私が気に入らないのね)

 

 苦痛でしかなかった二つ目の焼菓子を食べ終わると、フィレーヌはまっすぐにウェルターを見つめ、微笑みを浮かべる。


(嫌なことは速やかに終わらせて、お父様とランフルと一緒に美味しいものを食べたいわ)


「フィ」

「ウェルター様、私フィレーヌ・ロインは婚約解消を了承致しました。私のことはお気になさらず、マーロウ嬢とどうぞお幸せに」


 フィレーヌがそう告げると、ウェルターは苦虫を噛み潰したような顔をして、きつく彼女を睨み付けた。


「フィレーヌ、君はそれで構わないのか」

「王族の決定に従うことは貴族の責務です。個人の感情などはむやみに挟むものではありません」

「そんな模範解答は聞きたくないっ!私は、君の本心が聞きたいんだ」


(こんな必死なウェルター様を見るのは、初めてかもしれないわ)


 だが、今さら本心など聞いてどうするのだろう。すでに二人の婚約は解消されたのだから、フィレーヌがこの場で何かを言ったからといって、決定が覆るわけがないというのに。

 もしかして、ここは婚約者として浮気を責め、ウェルターを罵るべきだったのかとフィレーヌは悩んだが、それをして何になるのだろう。

 すべては、もう遅い。自分の知らないところで決まった婚約は、自分の知らないところで解消されたのだから。


「ウェルター様は、私よりもマーロウ嬢を選ばれたのですから、今さら私の気持ちを聞かれる必要はないと思います。それとも、私の思いを聞いて謝罪することで、自分の罪悪感を消そうとなさっているの?」

「違う、フィレーヌ!私はっ」

「ウェルター様。あなたを幸せにするのは私ではなかったけれど、私はあなたの幸せを祈っております」

「フィレーヌ!」


 ウェルターは立ち上がり、彼女の腕を取ろうとするが、その前にフィレーヌも立ち上がって一歩下がった。そして、ウェルターに向かって正式な礼をとると、フィレーヌはそのまま温室から出ていった。

 残されたウェルターは何かを堪えるように暫く立ち尽くしていたが、やがて温室を出ていった。


 年少者二人は、目の前で繰り広げられていた愁嘆場に口を挟むことすらできず、事の成り行きを静かに見守ることしかできなかった。

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