王太子ウェルター・ロス・グーリルの苦悩
ウェルターはフィレーヌたちが執務室を立ち去ってからも、先ほど受けた衝撃から立ち直れずにいた。
(フィレーヌの気持ちが知りたくて、少しでも状況が改善できればいいと……そう思っただけなのに)
幼い頃は、互いの母を介して会うことができた。
だが、ウェルターが王立学校の寮に入る頃には、フィレーヌの母が亡くなったこともあり、気軽に会うことができなくなってしまっていた。
最近では、彼女と会うことがあってもあたりさわりのない近況報告ばかりで、二人で一緒の時間を過ごすこともなかった。また、会話をしていてもフィレーヌがウェルターと話すことを楽しんでいるようには思えなかった。
「……最悪の展開だ」
偽りの婚約解消をフィレーヌが了承してしまうことは、ウェルターにとって誤算以外の何物でもなかった。想定外の事態にウェルターは頭を抱えたくなった。
(初めて出逢った時から、フィレーヌに対してだけは何もかもが思うようにならない)
ウェルターは駆け出したい気持ちを抑えながら、足早に温室を目指す。中庭に面した屋敷の一画にある温室は、今は亡きロイン公爵夫人が長年かけて作りあげた場所で、フィレーヌのお気に入りの場所だった。
美しい花を眺めながら、気の置けない人たちとのんびりと過ごす時間を、フィレーヌの母は好んでいた。
母との思い出が溢れている温室で家族との時間を過ごすことが自分の幸せなのだと、フィレーヌが言っていたのはいつだったかウェルターには思い出せない。
公爵夫人が亡くなり、母がロイン公爵家を訪れなくなったことが疎遠になった切っ掛けだったように思う。
母は王族である子どもたちを、ロイン公爵家に一人ずつしか連れて行かなかった。王宮とは違い、護衛の目が行き届かないためであることは今ならばよくわかるが、当時は不満でしかたがなかった。
フィレーヌと初めて会った日も、ロイン公爵夫人と王妃である自分の母との茶会だった。
気心の知れた親友同士である母親たちは、時間を見つけては茶会を開き、お喋りに興じていたことを覚えている。温室自体も広く、併設されている談話室には快適に過ごせるように、布張りの椅子や柔らかな敷布が用意されていた。
ウェルターはその日、絵本や積み木、縫いぐるみや人形といった可愛らしい玩具が溢れる場所に、母によって置き去りにされた。
いや、正確には乳母とともに放置されたと言った方が正しいだろう。とにかく五歳か六歳だかの自分は、突然見知らぬ場所に連れてこられた挙げ句、強制的に見知らぬ子ども二人と遊ぶよう母に言われたのだった。
『ウェルター、仲良くしなさいね』
笑顔を浮かべる母の姿を見て、ウェルターは駄々をこねることを早々に諦めた。
母を納得させるだけの正当な理由がない限り、母に逆らっても無駄であるいうことを幼いながらも彼は知っていた。
二人の子どもと互いに自己紹介をした(させられた)後は、母の意識は完全に公爵夫人に向いてしまったため、王宮に帰るまでの時間を遊んで潰すしかなかった。
『はじめましてウェルターさま、フィレーヌともうします』
自分の妹と弟と同じ歳の、見知らぬ姉弟。
ウェルターは自分の弟妹と遊ぶ要領で二人の子どもと遊ぶことにした。女の子とはままごとをして、男の子とは戦争ごっこでもすればいいと、大人しい妹と負けず嫌いな弟を思い浮かべながら、年長者としてウェルターは二人の面倒を見ることにしたのだが……
『わたくしのかちです』
『ねーさま、すごーい』
彼は子ども用ボードゲームで、年下の少女に打ち負かされた。
『まけたウェルターさまのおかしはわたくしのもの』
『ねーさま、つよーい』
『まけたランフルのおかしもわたくしのもの』
『ねーさま、ずるーい』
ウェルターに初めての敗北と屈辱を味わせたのがフィレーヌだった。彼女から、この世は弱肉強食なのだということをウェルターは学んだ。
悔しくて涙をこらえながら睨み付けた視線の先には、にこにこと笑顔を浮かべながら菓子を頬張るフィレーヌがいて、ウェルターは腹を立てていたことを忘れてしまった。
口いっぱいに焼菓子を入れて咀嚼している姿が、王宮の庭園にいるリスのようでウェルターにはとても可愛く見えた。
(あの時、フィレーヌは急に怒り出したような……)
頬袋いっぱいに餌を詰め込んだリスの絵を描いて、フィレーヌそっくりだと言って見せたら、なぜか彼女は機嫌が悪くなり、母には尻を叩かれた。
(あれは今思い出しても納得がいかない)
妹とは全然違うフィレーヌの行動に驚いたり腹を立てたりしながらも、帰宅する頃にはウェルターは一緒に過ごす時間を楽しいと思えるようになっていった。
(フィレーヌと一緒にいられたら、それだけでよかったはずなのに、なぜ今はこんなに遠くなってしまったのだろう)
ウェルターが温室の入口に辿り着くと、扉の前に従僕が控えているのが見えた。
(どうやら、フィレーヌはまだ中にいるようだな)
「入るぞ」
ウェルターの声に、従僕は温室の扉を開く。入口近くに控えていた従者がウェルターを見て慌てて臣下の礼をとった。
(そういえば、レイアードが来ていると言っていたな)
弟付きの従者を尻目に、ウェルターは温室の奥に進んでいく。
温室の花は美しく手入れされ、いつでも訪れる者の目を楽しませていたが、ウェルターの目には入らなかった。
彼の目に入るのは、愛しい婚約者の姿だけだった。談話室で彼が見たものは、美味しそうに菓子を頬張り微笑みを浮かべるフィレーヌの姿だった。
(フィレーヌが笑っている……)
ウェルターとの婚約が解消したことは、フィレーヌにとってそれほど辛いものではなかったのか。
フィレーヌの顔を見たとたん、先ほどまで彼女に言おうとしていた謝罪や弁解の言葉はどこかに消えてしまった。
ウェルターはわざと足音を立てて談話室へと入っていく。
「相変わらず菓子ばかり食べているな、そろそろ冬眠の準備はできたのか」
ウェルターの口をついて出た言葉は、いつもと同じようなフィレーヌに対するからかいの言葉だった。