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目が覚める時の一瞬は嫌いだ。
交差する夢と現実。自分でもどちらが「本当」でどちらが「嘘」なのかが解らなくなっている。
出来ることならば覚めずにいたい。
あちらの現実の方が遥かに自分は幸せだからだ。
気を失うほど女を抱いて何も考えたくなるほどに麻痺した脳がいつも最後に願うのは明日が二度とやってこないこと。ここで死んでしまえと願っている。抱いた女の夢を見て、そのままあの世へ連れて行ってくれと祈っている。
でも朝は、現実はやって来る。
「……っ」
彼は起きあがって小さく悪態をついた。
隣ではまだ裸の女が寝息を立てている。昨夜あれだけ騒いだのだから起こさなければ昼間ででも寝ているだろう。女など酒と同じ。眠るための快楽を与えてくれる道具に過ぎない。起こすのも面倒で彼は静かに起きあがった。
ベッドが軋んだ音を立てる。
彼は起き抜けの脳をたたき起こすように金色の髪荒っぽくかき混ぜ、いつものようにバスルームへと向かう。酒と煙草と女の匂いの染みついた身体に冷水を浴びせると微かに自身を取り戻していった。
オレゴンの外れにあるメドフォード。その更に端にあるダウンタウンは大戦中にできた特別区だ。正式名称ではないがこの辺りの人間はこの町のことをダクスと呼ぶ。この街が出来た当初そう言う名で呼ばれていた男がここを牛耳っていたからだと言われているが、それは彼が産まれるより遥か前の話だ。
男は強く人望も厚く屑のような街を上手くまとめ上げていたが、配下として信頼をしていた男の裏切りで死んでいる。そしてその後数十年間、この街は荒れ放題だった。それを数年前からまとめ上げているのが彼、レオだった。
役に立つ人間には金も地位もやり、逆に仇成す人間には容赦しない。恐怖と甘い蜜。その二つこの街は支配されている。それが荒れた街の中にある良心であり、ルールという名前の治安だった。
レオは幼い頃に捨てられている。否、悪夢から引きずり出した人間がここで力尽きたと言う方が正しいだろうか。生き延びるため、まだ十にも満たない頃から「権力者」たちに媚びを売った。惨めな思いをしながらも上に上れるよう這い回っていた。やがて猛獣と恐れられるようになり、彼の周りに人が集まりはじめる。それは彼を中心に大きくなり‘権力’となった。ここを少しでも自分にとっていい場所にするため、汚いことも厭わず出来ることは全てやってきた。その彼でさえここまで整えるのに十年近くかかっている。
十数年前にようやく長い戦いを終わらせた大戦は今もまだ世界各地に爪痕を残している。少なくとも大戦を経験した人間が全て死に絶えるまで人々の心から消えない。大地から爪痕が消え失せるのはいつになることか、彼には想像もつかないことだった。
花もろくに咲かない土地しか知らない。いつ襲われるか解らない病魔に怯えながら卑屈に暮らす人々。次から次へと湧いて出る諍い。こんな悪夢の中で生きていくしかない自分。
(……それが一番胸クソ悪いんだよ)
排水溝の中に吐き捨てるとヤニ臭い唾と共に流れていった。
二階の寝室から酒場の方に降りていくと掃除をしていた少年が顔を上げた。その顔に悪戯っぽい笑みがこぼれるのには一秒ともかからなかった。
「エロオヤジ!」
少年は声を上げながらモップを振り上げ襲いかかってくる。
それを難なく受け止め、くるりと返すと、軽い少年の身体は弄ばれ壁際に追いつめられる。
「わっ……うわっ」
わざと顔を近づけてレオは噛み付きそうな距離で少年に言う。
「おはよう、も言えないのか、ラギ」
「おはよう、エロオヤジ」
「オヤジって言うんじゃねぇよ。まだ三十台前半だってーの」
「エロはいいんだな?」
「男はおしなべてそういうモンだろ」
少年は声を立てて笑った。
毎日のように女を連れ込んでいる自分を責めているわけではない。少年は単純にレオに構われるのが好きなのだ。そのためにいつも何か他愛もない悪戯を仕掛けてくる。この街で冗談でもレオにそんなことをするのはラギくらいのものだ。
彼もまたラギが可愛い。同じようにこの街に捨てられたというせいもあるのだろう。住み込みで働かせている少年は弟のようなものだった。
「なーなー、昨日の女はどうだった?」
にやにやと笑いながら少年は聞いてくる。少年を突き放し、彼は真面目に答えた。
「セックスは上手いが、俺好みじゃねぇ。ま、一晩限りだな」
「だろーな。オヤジは美青年好きだからなー」
一瞬のめまい。
「兄貴じゃなきゃ満足しないんだろー? でも兄貴最近忙しいからゴブサタなんだろ? あーあ、俺もあと数年したらオヤジに喰われちまうんだろうなー」
どこまで解っていて言っているのだろう。少年はモップを支えに持ったまま無邪気に笑う。冗談で言っているのは解るが、レオに本当にそう言う趣味があったのなら冗談にならない。と、いうより、この街男の半分くらいは冗談にならない。
深い溜息をついて少年の頭を小突く。
「言ってる暇あったらささっと掃除しちまえ」
「俺、オヤジならいいぜ、ヴァージンやっても」
「アホか。つか、オヤジ言うなって言ってるだろ」
再び頭を突いてレオはバーカウンターの方に向かう。
ラギに「兄貴」と呼ばれた男が酒の整頓をしている。作業の手を休めることなく振り向いた青年はレオに柔らかい笑みを投げた。
「おはようございます、レオさん」
「ああ、おはよう。……どうだ、アヌル?」
今朝はまだ、と青年は返事を返した。
彼もまたここに住み込みで働いている男だ。まだレオがこの街のリーダーになるより以前、ある権力者の元で働いていた男だ。縁あって彼の能力が欲しくて「仲間」に引き込んだ。にこにこしていれば弱そうで一口で飲み込めそうな男なのだが、その実なかなか癖があって飲んだら毒にやられそうな男だ。
働きは良い。頭が良くて有能で経営にも向いている。
性格の一面を除けば満足している。
「フォーカードの連中が巡回を始めてから少しは減りましたが、報告が遅れているのが気になりますね」
彼はちらりと時計を見る。
まだ朝早い時間だったがいつもの報告の時間より三十分は遅い。
勝手にダクス自警団を名乗る通称「フォーカード」が巡回を始めてからレオたちの経営する酒場「SADIE」に朝の報告を欠かしたことがない。その報告が今朝は遅れている。
「嫌な予感がするな」
そうですね、とアヌルも頷く。
ちょうどその時だった。
「大変です! レオさん、起きてますか?」
血相替えて飛び込んできた青年にレオは表情を引き締める。
フォーカードの鉄砲玉、エースだ。
仕事の手を止め三人はエースの方を向いた。青年の様子を見れば何かが起こったことは明らかだった。
出来るだけ冷静にレオは問い返した。
「起きている。どうした?」
息を整えながら青年は報告が遅れた訳を説明した。
「西南の方向で……少女の死体が発見されました。心臓が射抜かれ、側にスイカズラの花が散っていました」
状況を聞いてレオは目を見開いた。
花。
その単語が示す事件はただ一つ。
青年は三人の顔を見渡してこくりと頷いた。
「間違いありません。‘フラワー’です」