再会◆8
夕方過ぎ。
了と喫茶ルームで一時間ばかり何でもない話をした後、一三階へ戻った。
喫茶ルームを出た後、ホールでエレベータを待っていた時、了の噂話をしていた二人のうち、大声の女性を制した方の女性が走り寄って来て、了に大きな茶封筒を差し出した。
「あのッ! この間の講義、有難うございました!
あの講義のレポートの添削をお願いしたいんですけど…!」
息も切れ切れ言う女性を、了は一瞥して「済まないけど」とだけ言い、拒否をした。
理由を述べなかったのは、言う程の事ではないのか、言わなくても解れと言う遠回しな皮肉なのかは判らなかったが、女性のあまりに哀しそうな顔と、了のとてつもない不機嫌な顔が印象的な数秒間であった。
「あんな言い方しなくても良くない?」
態度をエレベータの中で問い詰めると、了は意外なほど謙虚な言い訳を始めたのだった。
「そうだな。」
「そうだな、って…。」
「俺はさ…、元々講義自体やる立場にないんだよ。それをどういう訳か、二級以下の検事相手に講義を開いて欲しいって依頼が頻繁に来る。
俺自身は法曹の現場で叩かれ上がって来た訳じゃないし、元はそもそも畑違いな刑事だからな。
突然検事になった人間が突然偉そうにするのは、おかしいだろ…。
あの子のレポートにしたって、俺が評価を下すべきものじゃない。きちんとした検事の現場を積み重ねて来た人間に頼んでこそ、意味がある事だろうに。」
「…。」
だったら何故、そう言ってやらないのだろう。そう思い、無言で了を見据えていると、了は視線を汲み取って、少し笑った。
「あの子の目的が、接触だからだよ。
拒否をしなければ、接触自体を諦めないだろうから。」
ポン、と、少し篭った電子音が鳴って、エレベータの扉が開いた。
一三階。
日が暮れ始めたからか、先程より少し暗い廊下を、調査室へ向かいながら、前を歩く了の背中を見上げる。
「真面目なのね。」
ぼそっと呟くと、了は首だけでユリを振り返って、
「今頃気付いたか。」
とにやりと笑った。
「…かわいくない。」
「可愛く思われなくていい。」
そう言って、辿り着いた廊下の突き当たりのカードリーダにカードを通し、ドアを開ける。
「ただいま。」
「おかえりー。」
高遠が奥の席から手を振った。
「とーるちゃん、すぐ出る?」
「いえ。」
「打ち合わせ、美香ちゃんと直ちゃんが急用で出ちゃったんで、中止になったんだけど。」
「ああ、そうなんですか…。どうしようか…。」
「もう向かっちゃったら? 結構遠いしね。またこっち戻って来るんでしょお?」
高遠がお気楽なオカマのように言うと、了は顎に手を当てて数秒悩み、「じゃあ」と言って頷いた。
「早めに行って、早めに戻って来ます。」
「うん。いっといで。」
「じゃあ、ユリ。」
了がユリに振り向いた。
「今日はもう、オフィスには戻って来ないけど、忘れ物はないよな?」
「うん。」
渡されたカードはワンピースのポケットに入っているし、ここへは手ぶらで来たから、忘れ物はない。ユリが頷くと、了は高遠をちらりと見、「行ってきます」と言って入り口へ引き返した。
ユリも了について戻りながら、高遠を振り返る。すると、高遠が手を振ってくれた。
ユリは思わず手を挙げ…、あわわと慌てながら後ろ歩きになって深々と頭を下げた。
それを見て笑う高遠の声に見送られながら、廊下に出る。
「療養所って、どこにあるの?」
ユリが訊ねると、了が口篭った。
「ん? うん…。」
「?」
「…特殊な療養所でな…。
場所は言えないけど、ここから車で三時間はかかる。」
そういえば、家で話をしていたとき、東京の郊外にあると言っていた。さらにここから三時間と言う事は、相模湖あたりなのではなかろうか…。
推測してみるが、了が言わないと言う事は、無暗に知ってはいけない事なのだと思われたので、特に確認はしなかった。
無言になってしまった了について、エレベータで一階へ降り、エントランスを横切ると、先程応対した受付カウンターの女性二人が「いってらっしゃいませ」と見送ってくれた。
駐車場への通路を抜け、駐車場へ出る。来た時より、もう少しだけ車が増えていた。そんな事を思いながら、『Z』エリアへ向かう。来た時は五台とも停まっていた調査室のメンバーの車は、三笠と渡部のものがなくなっていた。高遠の言っていた急用とやらで外出中なのだろう。
そう思いながら、了の車に乗り込む。
指摘をされる前にシートベルトを締め、いつでもどうぞと言わんばかりに気合を入れて背筋を伸ばすと、少し遅れて運転席に座った了が訝しげな表情を浮かべてユリを見た。
「なんだそれ…。」
「何があっても驚かないように。」
ユリが前を見たまま言うと、了は一瞬苦笑して、さっさと乗り込みエンジンをかけて車を発進させた。
シートベルトは、『Z』から入り口までくるくると左右へうねる駐車場を、鈍速とは言えハンドルを切りながら片手で器用に締める。
真っ暗でひんやりとした駐車場から、じりと夕日に焼ける外界へ出ると、一気に視界が白んだ。目を細めながら横目で了を見ると、了の目元が黒く見えたのできちんと横を向くと、了はいつの間にか少し薄い色のサングラスをかけていた。
「…なにそれ…。」
ユリが声をかけると、了が庁舎前の道に出るため左右確認をする序でにユリを見た。
「サングラス。」
「見ればわかるわよ。何でかけてるのって。」
「眩しいから。」
「しょっちゅうそんなもんかけてるの?」
「たまに。」
受け答えしながらも運転に余念のない了の横顔を、ユリはまじまじと眺める。サングラスは、レンズがブルーがかったグレーをしていて、横に細長い。フレームは太くも細くもないが、艶のないマットな黒なので、今日の服装でもある襟と袖に白いラインの入った黒いポロシャツと、妙にバランスが取れていた。
しかも、相変わらず整っているのだかいないのだか解らない長い髪と、この生意気なスポーツカーが相俟って、とても柄が悪そうに見える。こうしていてもその筋の人間と扱われないのは、立てた襟が足りないくらい無駄に長い首と、異様に整った真っ直ぐな背筋と背格好のせいだ。勘違いされて精々、モデルと言ったところだろう。
眩しいからと言う答えで気が付いたが、今の時間、太陽を目の前にして走っていると言う事は、西へ向かっているという事だ。療養所が相模湖付近だろうという予想は、ほぼ当たっていそうだ。
方向を確認して、再び了を見る。
黙っていれば、それなりに見えるというのに、わざと変な方向へ自分を持って行っている様に見える。
「了って…。」
「ん?」
「モテるのね。」
今日、庁舎に来て短時間で、少なくとも四人は了を見て態度を変えたのだ。一日あそこにいたら、もっと態度を変える女性を見られたに違いない。
「そうか?」
一方で、当の本人はこの反応だ。「色話には興味がないみたいだから」と言ったカナエを思い出した。
「モテてるうちには入らないだろ。」
「そう? 狙ってる人、随分いるじゃない。」
そう言うと、了が一瞬口を噤んだ。
「…立場が欲しいだけだろ…。
『蕪木家の息子と付き合ってる自分』って立場に立って、羨ましがられたいんだろ。」
「そうなのかなぁ…?」
ユリには、そう言った事に興味がないから解らない。マミコなら解るだろうか…?
しかし、随分はっきりと言うものだ。身に覚えがあるように見える。
「今までの彼女もそうだった訳?」
「……。」
了が黙ったので、ユリが言い得ぬ居心地の悪さから思わず「…まさか、いなかったとか言わないわよね?」と言うと、偶然赤信号で車が停まった。了は、窓縁に頬杖を突いて苦笑すると、
「流石にそうは言わないが。
別れた相手の事なんか、一々覚えてないだろ。」
と言った。
「でも、ここ数年言い寄ってくるヤツは、大抵そんなだな。」
「そうやって言って来るの?」
「まさか。
でもそういうのは、見てればわかるよ。」
「そういうもの?」
「そういうもの。」
信号が、青になる。
「厭な思いして来たのね…。」
ユリも窓縁に頬杖を突き、鼻で溜め息を吐いた。
自分が求められている訳ではないというのは、辛いものかも知れない。
「了もいっぱいいいとこあるのにね。」
ぼそりと呟くと、了がふふと鼻で笑った。
「なによ?」
突っかかると、いつの間にか頬杖をやめていた了は、前方を見たままにやけていた。
「いや。」
「なんなのよ。
私に褒められても嬉しくないとか言うんじゃないでしょうね?」
「…いや。」
さらに突っかかるユリを、了は含み笑いをしながら流した。
その後も一言二言突っついたが了は取り合わなかったので、ユリは仕方なしに話を変えた。無言でいても良かったのだが、気を紛らわせたかった。
取り繕ってはいるが、早くクレアに会いたい思いで気持ちが急いていた。
了もそれには気付いているのだろうが、調子を併せてくれるので、何とか平静を保っている。
が、長時間のドライブでは、話も尽きる。
一時間半ばかりぼそぼそと話した後、とうとう無言になってしまった。
座りっぱなしなのと、庁舎にいたたった一時間強の間、無意識に気を張ったり緩めたりしていたのか、自分でも意識していないほどに疲れていたようで、ユリは窓に凭れて虚ろな目で外をぼんやり眺めた。
外はいつの間にか高いビルがなくなり、車は住宅地を通ったり、妙に横幅の広い道を抜けたりを繰り返していた。
時折、横目で了を見るが、そろそろ陽も落ちてサングラスを外した以外、特に何も変わらず運転をしている。
視線を外に戻して、ゆっくり息を吐く。それが溜め息に聞こえたのか、了が「疲れたら寝ていいぞ」と言った。
「うん。そうじゃないんだけどね…。」
「…お前、免許持ってるか?」
「?」
突然、訊ねられた。
「持ってるけど。ペーパー…。」
そう答えると、了は「じゃあ駄目だなぁ」と一人で話を終えてしまった。
「何?」
「暇潰しに運転させようかと思って。」
「冗談やめてよ…!」
たまらず、ユリが身を乗り出す。
了は手軽に乗っているが、ユリにとっては高級車である。教習所以来、車は愚かバイクすら運転もしていない状況なのに、そんな車を動かせる訳がない。そりゃ、運転するだけなら出来るだろうが、傷をつけない保証など出来ない。
「そこまでムキになる事でもないだろ。」
了が笑った。
「なる事よ! 免許取ってから一度も運転した事ないのよ!? こんな高い車、運転出来る訳ないじゃない!」
「言う程、高くもないぞ、コレ。」
「簡単に言うわねー。」
そんなやり取りをしていると、外の景色に段々と緑が多くなって来た。
改めて窓の外を見ると、切り開いた山や丘に、綺麗なマンションが建ち並ぶ地域に入っていた。有名なデパートや海外資本の大型ホームセンター、輸入雑貨ばかりを扱うスーパー、大型シネプレックスにショッピングモールをセットにして、街をテーマパークのようにしてしまった地域だ。
ここから少し山を越えると、また大きな市街地に入る。が、ここから先は大凡、山しかない。
「山に入るの?」
「ああ。」
「…相模湖の方…?」
「…まぁ、そんなところだな。」
やはり、詳しくは答えたくないようで、遠回しに了が答える。
「これから行く療養所は、特殊でな。
一般人には解放されていない施設なんだ。
一口で言えば、要人専用施設ってところだな。だから知ってる人も殆どいない。
マスコミや不審者の不法侵入を防ぐために、その存在も公にされていないし。まぁ、マスコミにとっては不可侵領域って扱いになってて、ここは取材しないって暗黙の了解みたいなものが成立しているようだけど。
法務省の管理施設で、認可がないと施設に入所する事も出来ない。」
そんな場所に、クレアがいると言うのか…。
「ただし、普通の施設ではないので、警備はしっかりしている。
医療スタッフも選りすぐりの人材が集まっている。
何があっても、大抵は施設内で対応出来るよう、設備も整っているし。
スタッフには出勤、退勤のたびにX線検査と身体検査、荷物検査が義務付けられていて、拒否権はない。
侵入者、不審物の出入りはまずないと言っていいし、何かあれば真っ先に法務省へ通報が来る事になっている。」
つまり、了たちが見張っていなくても、クレアの安全は保証されていると言いたいのだろう。
菅野と飛澤、やがての自分の事もある。
「クレア、良くなってないの…?」
「…そうみたいだな…。
こっちへ来た時と、殆ど変わらないらしい。」
「そう…。」
身の安全は保証されていても、精神的な回復がないならどんな言葉も気休めにしか聞こえなかった。
”様子がおかしい”。
そんな曖昧な表現でしかクレアについては説明を受けていないが、それで十分だった。
早く会いたい。
山間の土地特有の細いアスファルトのでこぼこした道路と、一階建ての平屋が目立つようになって来た。
小さな診療所や個人商店が疎らに建ち、生活の匂いが感じられる。道は徐々に登って行き、雲が近くなった。
再び無言になって一時間。
すっかり夜になり、山間の小路に不規則に並ぶ電灯が不気味なほどに深く山へ入った頃、木々の間にぼうっと明るい灯りが見えた。
「あそこ?」
「ああ。」
視界の先には、山中特有の真っ暗闇の中、柔らかいオレンジ色の外灯を灯した建物が建っていた。
北欧家屋のような出で立ちで、灯りのせいかクリーム色の壁と、濃い緑色の梁で縁取られている。四階建ての鉤型になっていて、奥行きもあり、相当に大きな建物のようだ。
手前には、両開きの背の高い鉄柵の門が建っており、片側だけが開いていた。しかし、片側の隙間だけでも車一台十分に通れる。ただ、敷地内の駐車スペースは、精々三台停めるのが限界のような狭さだった。
了は駐車スペースのど真ん中に堂々と車を停めると、エンジンを切って座席に凭れた。俯き、小さく溜め息を吐くので、疲れたのかと「お疲れ様」と声をかけると、了は横目でユリを見て苦笑した後、すぐに真顔に戻ってしまった。
そして、ゆっくりと口を開く。
「…さっきも言ったが…。」
「うん。」
「今日は特別に面会許可を貰った。
ここは本当に特殊な場所で、特殊な人間ばかりがいる。
だから、入寮者にも来訪者にも特殊な対応が必要な場所だ。
畏まったり、暴力的な事だったり、そういう意味じゃなく。
中に入ったら、すれ違う人、隣の部屋の人間、辺りにいる人間、働いている人間。
その誰の詮索もしないでくれ。
顔を見る事も、声をかける事も、眺める事も。
ここにいる人間は、そういうものの一切を嫌う。
用がない限り、『そこに誰もいない』くらいでいい。」
不要な接触をしない。それがルールのようだ。
「…わかったわ。」
ユリが返事をすると、了はきちんとユリの顔を見、車を降りた。ユリもついて車を降りる。
入り口は木の扉で出来た自動ドアで、中に入ると、すっかり灯りが落ち、間接照明だけになっていた。雰囲気は大きなロッジや別荘と言った感じで、一階の殆どはロビーのようだった。入り口の前に並んだ観葉植物の向こうにはカウンターのようなものがあって、薄ピンクの看護衣を着た従業員らしき女性が座って何かをしている。脇には十人がけの大きなソファセットと何インチかやはり大きな液晶テレビがある。
人はいる筈なのに物音は殆どなく、耳鳴りがする程に静かだ。
きょろきょろしている間に、了はカウンターに歩み寄って、女性に話しかけている。
「お電話をしました。」
そう言いながら、ポロシャツの胸ポケットから何かを取り出して見せた。女性はそれを見てこくりと頷き、「どうぞ」と静かに言った。それ以上のやり取りも案内もなく、了も一つ頷いてさっさと行ってしまう。ユリが足音を殺して小走りで追いかけると、女性は無感情な表情でちらりとユリを見て、再び手元に視線を落としてしまった。
不要な接触。ユリは、なるほどと理解した。