再会◆6
何が必要か必要でないか、考えても解らない。
ヘアケアとスキンケアグッズは長期用のボトルを選んだ以外、ユリは本当に三泊の旅行をするつもりになって、荷造りを始めた。
靴だけは何があってもいいよう、スニーカーとパンプスと両方を大き目のボストンバッグの底に詰め込んだ。下着と簡単な普段着は三日分用意し、あと数着、それなりの衣装を丁寧に折りたたんで入れた。携帯電話の充電コードと、気まぐれに、普段使っている手帳を入れた。
「こんなもんでいっか…。」
必要なものは、買うなり持って来て貰うなりは出来るようだから、先々の事を心配しすぎても無駄に思えた。
ユリはバッグを閉め、立ち上がると、部屋を見回した。
暫く、さよならだ。
いつもはしないが、朝起きたまま荒れたベッドを整える。
何だか、妙に寂しい気分だ。
「…帰って来られない訳じゃあるまいし…。」
そう呟いて、机の上に置いた両親と三人で撮った写真を手に取る。あの、了に預けたロケットに入っている写真と、同じものだ。
あの後、父の手帳が見付かり、ぱらぱらと捲っていた時、挟まっているのを見付けたのだった。
日に当たらなかったからか、それほど色褪せもしておらず、状態も良かったのでそのままフレームに入れた。
「行って来るね。了が一緒だから、大丈夫だよ。」
ユリはそう言うと、写真を丁寧に机に戻し、バッグを持ち上げて部屋を後にした。
階段を下りると、玄関にユリの戻りを待っていた了と匠がいた。
「いいか?」
了が訊ねると、ユリが頷いた。
「うん。大丈夫。
じゃあ、叔父さん、行って来るね。」
緊張感も何もない挨拶に、匠が笑った。が、流石にすぐに笑うのをやめ、ユリの頭をぐいぐいと撫で回した。
「早めに連絡が出来るように、手配するから。」
「うん。」
匠の手が離れると、ユリはバッグを床にどさりと置き、靴を履いた。了と匠は無言でユリを見る。
ユリが顔を上げると、了が「車を出してきます」と言って走って行った。
その後に、匠が玄関の外を見回し、ユリに続くよう目配せをして階段を下りた。事務所の前にはカナエがいて、階段を降りるユリを見て、目を細めた。
暫くは、カナエの料理も食べられないのか。そう思うと、少し切ない。
「行って来るね。」
にこやかを装って笑うユリに、カナエは無言で頷き、匠がしたように頭をぐいぐいと撫で回した。
きっと、何か言うと、恥ずかしさが込み上げてしまうのだろう。それはユリも同じだった。
そこへ、了の車が到着した。
了が運転席から助手席を開けると、匠がユリを助手席まで誘導した。
了と匠がとても慎重になっているのが良く解る。
助手席まで行くと、ユリの荷物を見て、了が座席を倒した。トランクでは手間取るので、後部座席に荷物を置けという事だった。ユリは黙ってそれに従い、席を戻して乗り込んだ。
匠がドアを閉め、窓の外から了に声をかける。
「すまないね。暫くよろしくお願いします。」
「お預かりします。」
そのやり取りに、ユリが眉間に皺を寄せた。
「なんか、仰々しい。
すぐ帰って来るんだから。」
そう言って、頬を膨らませた。
解っている。この二人が慎重になるのだ、ユリが予想しているよりずっと、自分の身は危険に晒されているのだろう。
だが、そんなところで、ユリまで気落ちしている訳に行かない。
この先、クレアにも会わねばならないし、何日続くか解らない身を隠す生活が待っているのだ。
今から鬱々としては、身が保たなさそうだ。
膨れるユリを見て、心情を察したのか了も匠も苦笑した。
「はしゃいでご迷惑かけないでくれよ。」
「なによそれ、失礼ね!」
ユリがキっと匠を見ると、匠がにやりと笑った。
それを合図に、了が車を発進させた。
ユリが後ろを振り返り、満面の笑みで手を振る。匠とカナエはそれを見て、あの日の両親みたいに、仕方なしと苦笑して手を振り返してくれた。
「シートベルト。」
事務所前の路地を大通りで曲がる手前で、了が言った。
「ああ、ごめん。」
慌ててシートベルトを締める。
「って言っても、目下行き先は検察庁舎だけどな。
俺の仕事が終わるまで、そこで待機。」
「えっ。検察庁に入れるの!?」
ユリが興奮気味に言うと、了が少少呆れた。
「中では大人しくして貰うぞ。
調査室以外は、原則立ち入り禁止。」
「勿論そうでしょうよ。
でも、大丈夫なの?
一般人を入れちゃって。」
「別に、入れる事自体は然程問題じゃない。
一応、特別待遇処置にはなってるがな。」
「ふぅん…。」
そんな事を話している間に、検察庁舎が見えて来た。事務所から徒歩でも三〇分ほどの距離だ。
車は検察庁舎の正門を入り、駐車場案内に従って庁舎を左へ回り込むように進んだ。
緩やかに下り坂になり、やがて駐車スペースへのトンネルが現れる。すいと吸い込まれるように入っていくと、駐車スペースには疎らに車が止まっていた。いずれもセダンタイプで、色は余り派手なものがない。その中で、了の車は目立つだろうと思った。
「車出勤少ないのね。」
「昼間だからな。出てるだけだろ。
普段は半分は埋まってるよ。」
了は手馴れた手付きで車を『Z』と書かれたエリアへ停めた。庁舎内へ通じる階段やエレベータからは愚か、駐車場の入り口にも遠く、決して良い場所とは言えなかった。
『Z』エリアには、運転席側にもう一台、黒いセダンが停まっていた。
「降りていいぞ。」
エンジンを切ってキーを抜きながら、了が言った。助手席側は壁になっていて、ユリはそっとドアを開けて車を降りた。
了も車を降りながら、
「一応教えておくけど、調査室の専用駐車エリアは『Z』。もし駐車場で待ち合わせと言われたら、ここに来い。」
と言った。
ユリが「わかったわ」と返事をすると、了はさらに隣の黒い車を指差して、
「これが高遠さんの。その隣が、この間一緒に飯食った渡部の。その隣が三笠。一番端が、日下部ってやつの場所。」
と順番に教えていく。
「五人なの?」
「そう。」
ユリの問いに、了は短く返事をして、通用階段へと歩き始めた。ユリも付いて行く。
「意外。もっと大きな部署だと思った。」
「別に、全部の仕事を五人だけでやってる訳じゃないけどな。この間みたいに、警視庁と連携する事もあれば、別の捜査部と合流する事もあるし。」
「ふぅん。」
階段を昇ると、小奇麗な場所に出た。二人がけのソファと灰皿があるので、一見すると小さな休憩室と言う感じだが、警備室と書かれたプレートのかかったドアや、小さな窓があり、突き当りには綺麗に磨かれたガラスの自動扉がある。脇にはカードリーダが備わっていて、了はそこへ胸ポケットから取り出したカードを通した。
すると、ピ、と音がして、自動ドアが音もなく開いた。
了は少しだけ振り返ってユリに付いて来るよう目配せをし、歩き始めた。
ドアの向こうは少し長い廊下になっていて、途中に扉などはなく、また突き当たりに自動ドアが現れた。このドアにもカードリーダが備わっていて、了は同じようにカードを通し、ドアを開けた。
ドアの向こうには、今度は広々とした明るいロビーが見え、ぱりっとスーツで身を固めた人間が、数名往来していた。受付と思しきカウンターには、意外にもデパートガールのような制服の女性が二名立っており、行き来する者たちに挨拶をしていた。
了はそのカウンターをユリを見ながら指差し、歩み寄るなり女性の一人にカードを差し出した。
「おかえりなさいませ。蕪木さん。」
女性たちは何故か頬を少し赤らめながらそう言い、一人がカードを受け取ると、カウンターの陰になっている手元で何やらし始めた。時折、ピ、という電子音が聞こえる。
「届出出てる?」
了が訊ねると、女性はにこやかに笑いながら、
「はい、出ています。カードの発行も完了していますよ。」
と言い、了にカードを返し、隣の女性が別のカードを取り出した。
「カードの受け取り書類を、ご本人様に書いていただきたいのです。」
女性に言われ、了は無言で頷くと、ユリを振り返った。
「ユリ。」
「うん。」
言われてカウンターに近付くと、女性がにこりと笑ってペンを差し出した。そして、カウンターの上に置いた書類を指差しながら、記入欄の説明を始めた。氏名、現住所、電話番号を書くようだ。
「事務所のでいいの?」
了に訊ねると、「いいよ」と了が頷く。
ユリはペンを受け取り、なるべく丁寧に文字を書いていった。
書き終わると、女性が了を見て、
「受け取り証明は、蕪木さんで構いません。」
と言い、了はそれを受けてユリからペンを取り上げると、書類の後半部分を埋めた。覗き込んでみると、意外なほど随分と几帳面で綺麗な字を綴っている。
ほぅと感心をしていると、了はペンと紙を女性に手渡した。
「ありがとうございます。
芳生さん。そのカードはくれぐれも失くさない様にお願いします。失くしてしまった場合は、速やかにこのカウンターか、蕪木さんの部署の方に申告して下さい。
それと、そのカードでは入れない場所があります。エレベータもカードを通す事になっていますので、一人で乗っていた場合は、停まれないフロアもありますので、注意して下さい。」
女性は、噛み砕いた表現でユリに幾つかカードの取り扱いの説明をし、最後に了を見て、
「返却は無期限になっていますが、カード記録に明らかな不審点が認められた場合は、調査室への報告を待たずにカードを停止する事がありますので、ご注意下さい。」
「わかった。ありがとう。」
了は素っ気無く言い、ユリに目配せをして奥へと歩いて行った。ユリは女性たちにぺこりと頭を下げると、小走りに了を追いかけた。追い付くと、了は改札機のような機械の前でユリを振り返った。
「出入りは常にこの機械にカードを翳す。ここ以外にここから先への通り道はないので、カードを失くしたら出入りが出来なくなる。」
そう言って、了は手本のようにゆっくりとカードを読み取り板に翳した。
ピ、という先ほどと同じ電子音が鳴った。
ユリも真似をし、付いて行く。
エレベータもカードリーダー式と言っていたが、ロビーには特にそれらしきものはなかった。普通に昇降ボタンを押し、来たエレベータに乗り込むと、内部にはカードリーダーが付いていた。幸い一緒に乗る人間もいなかったので、了が説明をし始める。
「カードを通すまでは、ボタンは何を押しても反応しない。
カードを通せばボタンが光る。光っているボタンしか押せない。
試しに、ユリのカードを通してみ。」
了がカードリーダを指差す。言われたとおりに受け取ったカードを通すと、『一三』のみが光った。
了が光らないボタンを幾つか押すが、何も反応しなかった。
「これは、停まらないから降りれないという事だが、例えば二階でエレベータのボタンが押されていたら、当然停まるので、ユリも下りる事が出来る。ただし、フロアには入れるが、どの部屋も基本的にカードリーダなしにはロック解除が出来ないから、結局はロビーからどこへも行けない。
ちなみに、非常階段はあるが、階段側からドアを開けるにはカードを翳す必要がある。」
「うんうん。」
「ユリのカードと違って、俺のカードはほとんど制限がない。」
了がカードを通すと、停止フロアのボタンがすべて光った。
了は一三階のボタンを押しながら、
「ま、大抵は、ユリは一三階以外に用はないだろうし、一人で移動する事もないから、何も気にする必要はないだろうけどな。」
と言い、エレベータを動かす。エレベータは軽くモーター音を鳴らして昇って行く。メンテナンスがしっかりされているのもあるだろうが、揺れもなく上昇スピードも速いので、恐らく新しい機種なのだろう。
あっという間に一三階に着き、ドアが開いた。
一階のロビーとは大分印象が違い、明るくはあるし綺麗でもあるのだが、どこか無機質だった。人気がないのもあるかも知れない。
調査室は東の突き当たりらしく、途中に幾つか曇りガラスの扉があるが、中は暗闇だった。明らかに使っていないようなのでそれを訊ねると、『一三』という数字を嫌って、どの部署もこのフロアに入る事を拒んだため、調査室のみがこのフロアを使っているのだと教えてくれた。
突き当たりに辿り着くと、了が立ち止まり、ユリを振り返った。
そして、両開きのドアの脇にあるカードリーダーを指差す。
「これが、ドアロック。お前のカードでも開く。
ここにカードを読ませないと、ドアは開かないようになってる。
どこのカードリーダーもそうだが、基本、カードを通せば検察庁のセキュリティデータベースに記録される。どこでどのカードが使われたか逐一チェックされているから、妙な場所でユリがカードを使うと、瞬時に解り、即刻不審者扱いになるから、注意な。」
「うろつかなきゃいいのね…。」
流石に公的庁舎内で不審者扱いされては今後の人生に関わるので、ユリは大人しくする事に全力を注ぐつもりでいる。
「そうだな。うろうろするにも、このフロア内だけにしてくれ。
フロアの説明は、後で誰かにやらせるから。」
と言い、了がカードリーダーにカードを通そうとし、「あ」と言ってまた振り返った。
「念のために言っておくが…。」
「?」
「高遠さん。お前が思ってるよりずっと『偉い人』だからな。
失礼のないようにしろよ。」
「なっ。失礼ね!
偉い人かどうかなんか関係ないわよ。
なるべく失礼のないように、大人しくしてるつもりなんだから…。」
ユリがむくれると、了が苦笑してカードを通した。