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男爵は微笑う  作者: L→R
記憶
47/48

記憶◆9

 了に付いて、元来た道を戻る。

 了はどこにいても了のようで、すれ違い様、様様な年齢層の女性に「蕪木さん」と会釈をされていた。初老の女性には絵に描いたような笑顔で応えるのに、若い女性となるとほとんど笑わないのも、了らしかった。

 クラブは元々女性会員が圧倒的に多いようで、会員と判断できる男性は殆ど見かけなかった。それ故か、了はとても目立つ存在ではあったのだ。

 了はクラブハウスの横の水場で、ブーツの泥を丁寧に洗って落とすと、再びユリに向き直り、ハウスを指差した。

「着替えてくるから、中で待ってろ。入ってすぐ横にベンチがあるから、そこなら座ってても何も言われないから。」

 言う事だけ言うと、了は足早にハウスの向かいにある小屋に入って行ってしまった。小屋はハウスと同じくらいの大きさの、一階建ての建物で、扉が二つあった。出て来る人物が普段着と大きな荷物を持っている事から、更衣室であると思われる。

 ユリは言われたとおりにハウスに入ると、すぐ脇にあるカウンターの向かいの長椅子に腰を下ろした。椅子はクッションがよい具合にふかふかで、すわり心地がよかった。エアコンの温度は低くはないようだが、外にいた身では十分涼める温度のようだ。ハウス自体は大きなガラス窓の多い明るい雰囲気の建物で、会員や見学客で混み合っていた。これからレッスンに入るのであろう会員が、カウンター前で整列して、順番にチケットと会員カードを渡していた。

 客層は誰も似か寄り、持ち物もさりげなく高級ブランドである。

 ユリはそんな客たちを異次元のものでも見るように眺め、ぼうっとしていた。

 かれこれ十五分ほどが経った頃、ユリが入ったのとは違うドアから了が来た。了は肩に大きな荷物をかけ、服装は普段と同様のものに戻り、そして髪が少し濡れていた。了はユリの脇に荷物を置いた後、カウンターへ歩み寄り鍵を渡した。受け取ったスタッフが鍵と交換にカードを了に渡す。なるほど、それで入出チェックをしているようだった。

「蕪木さん、さっき佐野さんが探されてましたけど。」

 カードを手渡したスタッフが、了に言った。了は「また?」と言いつつあからさまに迷惑そうな顔をした。

「今日来てるはずなの!って。一度くらいお昼一緒にして差し上げればいいのに。」

 笑いながら言うスタッフに「やめてよ」と言い放ち、了はさっさとユリの元へと戻って来た。

「お待たせ。」

「いいえ。」

 このやり取りの瞬間、こちらを振り返る会員が数名いた事を、ユリは視界の隅で確認した。だが、敢えて気付かない振りをして、了を凝視する。

 了もそれには気付いているようで、何食わぬ顔で荷物を持ち上げると、顎でユリを呼んでハウスを出て行った。

 後に続いて少し歩くと、駐車場だ。先ほどは気付かなかったが、隅にいつもの了の車が停まっていた。荷物は了のものと一緒にトランクへ入れ、助手席に座る。

「ちょっと帰りに寄るところがある。」

「うん。」

「稜を預かる事になってる。」

「うん。…え?」

「兄貴夫婦が仕事で家を空けなくちゃならなくてさ。」

 了は言いながらエンジンを入れ、発進する。そして駐車場を出るとき入れ違いになった車に、軽く手を振った。知り合いのようだ。相手は初老の男性で、にこやかに手を振り替えして来た。

「世話は俺がやるから、心配はない。」

「…うん。」

 食事以外なら普通の子と同じだろうとは思うが、それでも、滅多に子供と接しない自分では、世話もどの程度手伝えるかわからない。了が必要なときに手を貸すのがよかろうと思った。

「で。」

「うん?」

「『ユリちゃんとプールに行きたい』らしい。」

「…えっ…。」

「無理なら仕方がないが…。」

「あ、うん。でも水着ないよ?」

 聞いていないので持って来るわけがない。

「ああ、そういうのは心配ない。いつの事で必要なものは全部兄貴が金出すから。問題は行けるか行けないかだけ。」

 買ってもらえる、という事にほいほい了承するわけにも行かないが、自分で金を出すにしても、行くには問題なかった。

「行くのは、平気。」

「ん、じゃあ、明日買い物で、明後日だな。」

「…わかった。」

 まだ驚きでしどろもどろに答えるが、満更でもない自分もいる。毎年マミコと泳ぎに行くのだが、今年は色々とあってか、全く行っていない。

 了は、どうなのだろう。

「了はプールあんまり行かないの?」

「暇ないからな。周りも一緒に行くタイプじゃないし。」

「ふぅん。私は毎年マミコと行ってるんだ、プール。」

「じゃあ、お前のほうが詳しいな。」

「多分ね。」

 この会話を切欠に、稜と駆との待ち合わせ場所までの間、夏の過ごし方など極有り触れた会話を交わした。

 数日前の事など、何もなかったかのように。

 違和感はあれど、居心地は悪くない。思い出して暗くなるよりは、ずっといい。

 稜の世話も、もしかすると、そう調整をしたのかも知れない。だが、今は例え裏にどのような配慮があったにせよ、受け入れたい。少なくとも、日常に戻るチャンスなのだ。

 横を見れば、口元に穏やかな笑みを浮かべた了の横顔がある。それだけで十分なのだ。


◆ ◆ ◆


 駆たちとの待ち合わせ場所は、新宿区に入ってすぐのデパートにある大型チェーンの喫茶店だった。

 デパートの駐車場に車を入れ、店に入ると、既に入店していた駆と稜がこちらに手を振っていた。

「待たせたね。」

「ボクらも今来たばっかりだよ、な、いつ?」

「うん。」

 にこりと笑う稜は、大事そうに小さなサイズのジュースを抱えている。

 駆は何も頼まなかったらしい。きっと合流したら直に出なければならないからだろう。了もそれを了解しているようで、席に座るだけで何も注文しなかった。

 ユリも腰を下ろし、二人落ち着いたところで、駆が胸ポケットから封筒を取り出した。

「これ、一応足りるだろうって分だけ入れておいた。余ったら使っちゃってかまわないから。」

「わかった。」

「足りなかったら、立て替えといてくれ。」

「ああ。でもそこまで金使うような事しないからな。」

「こいつが駄々捏ねるとも限らないからなぁ。」

 言いながら、駆が稜の頭を捏ね繰り回す。

「大丈夫だろ。ユリもいるし。」

「そうか。ユリちゃんも済まないね。ゆっくり出来ないかも知れないけど。」

「いえ! 大丈夫ですよ。稜くん、会いたかったですし。」

 本当に済まなさそうに言う駆に、ユリはにっこりと笑って見せた。

「そう言って貰えると、助かるよ。

 じゃあ、とお、済まないけど。」

「ああ、何かあったら電話入れていいんだろ?」

「構わない。ボクでも女房でもどっちでもいいから。」

「わかった。」

 了が頷くと、駆が少し焦るように席を立ち、稜を覗き込む。

「じゃあ、パパ行くからな。」

「うん! いってらっしゃい!」

「とおちゃんとユリちゃんの言う事ちゃんと聞くんだぞ。」

「はぁい。」

 ジュースにご満悦なのかにんまりと笑う稜に苦笑だけして、駆は片手で挨拶しながら半ば駆け足で出て行った。

「いつ、飲み終わったか?」

「うん!」

 了が尋ねると、稜はコップを誇らしげに突き出した。

「じゃあ、行くか。」

「プール?」

「プールは明後日。」

 言いながら、了が稜を椅子から抱えて下ろす。

「ユリちゃんも行く?」

「うん。」

 ユリが頷くと、稜は満足げに笑ってユリの手を掴んだ。


◆ ◆ ◆


 稜は非常に機嫌が好く、帰りに立ち寄ったスーパーでも車内でもよく喋った。常にユリに付ききりで、話しかけるのもユリにのみだったが、ユリはただ相槌を打つだけでよく、了に至っては放ったらかしだった。

 食料調達のためのスーパーでは品定めに困るほどで、了もさすがにユリと相談せず籠に入れるわけに行かず、稜の声を遮ってでもユリに話しかけるので、ユリは一瞬、聖徳太子にでもなった気分だった。

 ただ、聞き分けがない訳ではないので、静かにと言えば黙るし、いいよと言うまでは喋らなかった。

 よくよく、躾のされた少年だった。

「そういえば、お休み何日なの?」

 食料品を買い終え、家へ向かう車の中で、後部座席からユリが問うた。稜は一転して疲れたらしく、少しうとうととして隣のチャイルドシートに身を預けている。

「四日らしい。」

「『らしい』?」

 事情を知らぬユリには、妙な言い方である。

「高遠さんが勝手に申請出してたからな。」

「え?」

「休む予定がなかったのに、勝手に休みにされたの。」

「……。」

 ユリは唖然としつつも、朝聞いた渡部の話を思い出していた。

 なるほど、そうでもしなければ休まないかも知れないとも思う。高遠は、了の体を案じたのだろう。その裏に何がある訳でもないような気がした。

「よかったじゃない。」

 そう言うと、了は一瞬驚いて後ろを見やった後、くすすと笑った。

 了も、そう思っているのだろう。

 「まぁな」と短く言うと、休みの間の予定をざっと説明し始めた。

「明日は午前中に買い物して、あとは家。どこか行きたいところがあれば、行っていいぞ。

 明後日はプール。朝、大体五時には家を出たい。それから、夕方前に引き上げないと道混むから、早めに動く予定。

 明々後日は、昼くらいに俺の友達が少しだけ家に来る。午後には帰るから、それまでは稜の面倒だけ頼む。」

「部屋にはいていいの?」

 了のマンションは広いが、部屋は多くない。ベッドのある寝室兼リビングとキッチン以外は、居場所ではないと思って間違いない。

「リビングにはいていい。聞かれてまずい話はしないから。」

「ん。」

「稜を帰すのは明々後日の夜。兄貴が迎えに来る予定。ユリの帰りは決めてないけど、夜でも翌日でも、好きな時でいい。」

「わかったわ。」

 前回の滞在と違い、予定が立っているのは有り難い。

 事件が起きれば別だが、休暇中とあれば、了の予定もそうそう崩れたりはしないだろう。

 ゆっくり話も出来そうだ。

 暫くしてマンションに着き、買い物荷物を片付けつつ、時計を見るとまだ昼を少し過ぎたところだった。

「お昼どうする?」

 ユリが尋ねると、了が、起きてすっかり元気を回復させた稜を見た。

「どうする? 何食べたい?」

「ボクなんでもいい!」

 ならば面倒なので、外でと言いかける了を遮って、稜が「ユリちゃんのご飯がいい」と言う。

 指名は有り難いが、駆に聞いた稜の病の事もある。自分の作るもので大丈夫かと了を伺うと、了は何も心配していない様子で「そうするか」と一言言い、冷蔵庫を開けた。

「いつは繊維が長いものと脂ものじゃなければ大体食べられるから大丈夫。お前がいつも作るもので心配ない。」

 カナエに教わった料理はどれも、それなりに低カロリーで脂分の少ない料理ばかりだ。妙な知恵さえ挟まなければ、いいのだろう。

 稜の歳も考え、少し洋風のメニューを提案すると、了はそれでいいと言って、稜を連れてキッチンを離れた。

 あまり凝ったものを作っても仕方がないので、手早くナポリタンと付け合せに二品ほど作り、稜の食べ易いリビングで食事にする。実家でもそうだったが、了はとても面倒見がよく、甘やかす場所と叱る場所をきちんと別けていた。少し様子を伺っているだけでもわかるほどに、稜に対する場合場合での態度の切り替えは明白で、稜が昼食後の昼寝を始め、了と呆とテレビを眺めている時に何気なしにそう言うと、了は何が面白いのか少し笑った後、ソファに頬杖を突いてだらけ、言った。

「俺の子じゃないからだよ。兄貴と言えど他人の子だから、ある程度、無責任になれる。自分の子供なら、夢中になっちゃうだろうな。」

「子供欲しいんだ?」

「機会があればな。」

 了のような生活を送って、それが叶うのだろうか。何時に帰って来られるかわからず、いつ休めるかわからず、身に何が起きるかもわからず…。

 それでも、一端の人としての生活に憧れを持つ様子は、微笑ましくもある。

 ふと、以前何気なく言った了の言葉を思い出す。


―『普通の人だよ、蕪木 了は』…。


 もしかしたら、ただ漠然とした『普通』と言うものに遠い憧れを抱いているのではないだろうか。

 人より少し変わった家に生まれ、人より少し変わった人脈の中で育ち、人より少し変わった生活を送る現状では、決して手に入らないもの。

 否、そこから抜け出したところで、結局は手に入らないもの。

 変わらずそこにいる事が大事だと繰り返し言うのも、普遍的な物への憧れか、拘りか、もしかすると執着かも知れない。

 その一端をユリに求めている彼に出来る事は、ただ一つだろう。

 カナエから教わった、ユリの知る限りの『普通』で満たしてやる事だ。

 明日も明後日も、可能であれば、その後も。

「どんな水着がいいかな?」

 唐突だが、切り出す。

 案の定、了ははっとしてユリを見上げ少しの間きょとんとしたが、今年の流行は何色だとか、去年はこういう水着を買っただとか、お構いなしに喋り続けていると、そのうち苦笑して話に乗って来た。

「堂々と出せるような腹なのか。」

 にやりと笑って言う。

「むっ。」

 デリカシーがないのはわざとであると、今では疑いがない。だから余計に腹が立つ。「失礼ね!」と言いながら叩くと、了は「いてぇ!」大袈裟に痛がるが爆笑し続けている。

「見てらっしゃい! 明日びっくりするんだから!」

 顰蹙を買うので自慢はしないが、これでもスタイルには自信がある。陰乍らの努力は怠らない。日々の努力の賜物ではあるが、そう言えば、当たり前の事ではあるものの、こうして寝泊りする関係にあって一度も体型を見せた事がない。勿論、明け広げに脱いで見せようとも思わないが。

 ただ、そうは言ったものの、水着姿を見せるのが恥ずかしいのもまた本心である。

 実際見せて、がっかりでもされたらその方がショックだ。

 そんな心配をしながら結局は、夜まで何気ない話をして過ごした。稜が一時間ほどの昼寝を終えてからは、三人でボードゲームをしたりDVDを観たり、語るには本当に何の変哲もない時間だ。

 夕食を終え、稜と了が風呂に行っている間、キッチンの片付けをしながら呟く。

「これでいいのね。」

 然程思い出には残らないような、こんな時間が、了には必要なのだろう。


◆ ◆ ◆


 翌日、デパートの開店時間に合わせ三人ででかけ、水着売り場をうろつく。

 了に相談しても「好きなものにしろよ」で終わってしまうので、店員と話しながら選んだのは、黒いフリルの多い水着だ。昨晩の言葉が悔しくて、敢えていつもどおりセパレートのものを選んだ。そして、試着へ向かおうとした時、稜が本当にさり気なく、「これは?」ととある水着を指差した。

 手にとって見ると、自分で選んだものと形は似ているが、真っ白で縁取り以外ほとんど装飾のない大人びたデザインのセパレートだった。

 これには、ユリも了も一瞬、目が点になった。

 その後ろで、店員が「試着なさっては」と言うので、仕方なくそれも選び、少し奥まったところにある試着スペースに入った。試着スペースにはカーテンで仕切られたさらに小さなブースが六つ並び、それぞれ付き添い客用のパイプ椅子が用意された丁寧なスペースだった。

 まず自分で選んだ黒い水着を身に付ける。

 鏡に映るのはいつもどおりの自分だ。抜かりない。

 腹の中でふふんと嗤い、試着ブースのカーテンをざっと開ける。外では、悠長に足を組み、膝の上に稜を乗せた了が、背凭れに頬杖を突いて偉そうに座り、こちらを見ていた。やや後ろ向きだった稜も、カーテンの音でこちらを向く。

 威勢よく披露したものの、途端に恥ずかしくなって肩を竦める。

「ど、どう…?」

 尋ねると、了は片眉をぐいっと上げて稜に視線を落とした。微妙な反応だ。さらに恥ずかしくなった。そして、稜も何やら首を傾げている。

「白いほう、着てみましょうか。」

 店員に促され、おずおずと稜が選んだ白い水着を着る。

 そして鏡で確認をする…。

「あれ…。」

 実は、去年似たようなデザインのものを試着した事があった。だが、同伴したマミコも自分ですらも、似合わないと断言するほどに似合わなかったのだ。だが、今鏡に映る自分は、そこまで悪くない。髪を切ったせいであろうか。

 呆けた顔でカーテンを開けると、振り向いた了も動きを止めてしまった。顔には出さぬようにしているが、明らかに先ほどと反応が違う。

「奥様、スタイルいいですね!」

 大きな勘違いをしている店員の言葉に続けて、稜も満足そうに「ね?」などと言っている。

「いいんじゃないの?」

 素っ気無さを装って了が言うので、ユリも「う、うん…」と中途半端な返事をし、「じゃあこれで」と店員に声をかけて試着を終える事にする。

 何やら、閉まらない水着選びだ。昨日の意気込みが恥ずかしい。が、新しい発見もあり、妙な気分だった。

 そんなユリの心境を知ってか知らずか、三度閉まったカーテンの外では、了が稜に向かって口の端を上げて笑い、こう言った。

「お前、大したやつだな…。」

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