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男爵は微笑う  作者: L→R
記憶
46/48

記憶◆8

「行って来るー。」

 キッチンで冷蔵庫の掃除をしているカナエに玄関から声をかけると、「はーい」と返事が聞こえた。その声を確認して、ユリは家を出た。

 行き先は、行きつけのヘアスタジオである。

 自宅は古いビルだが、立地は都心のほぼど真ん中にある政府各庁や警視庁、高級ホテルが並ぶ一等地である。小さな頃から行き慣れた行きつけの店一つ一つが、人が羨むような店になってしまうのだが、それはそれで不便である。店内ですれ違う客には、その店に憧れてわざわざ遠くから足を運ぶ者が多い。ちょっと近所のスーパーに買い物気分で店になど行こうものなら、「このお店にそんな格好で来るなんて」という好奇の目を向けられ、珍妙な物か何かかと思われるのである。

 だから無闇な格好では行けない。きちんと身なりを整え、髪形すら、これからカットして貰いに行くというにも拘らず、セットをしていかねばならない。

 ただ、今日のユリにはそれが出来ない。

 乱雑に切り落とされた髪を簡単に結わき、長さが各所でちぐはぐなのがバレないよう大きめのコサージュで隠し、辛うじてこれをセットとしなければならない程の状態だ。

 一まとめに結わけるほどには長さが残っていたのは、幸運と言うべきなのだろうか。

 事務所前の路地から大通りに出て、デパートの並ぶ区画まで少し歩く。先日、マミコと二人で歩いた道でもある。

 五分ほど歩けば、目的のヘアスタジオに辿り着く。その五分でも全身から水気を搾り出したように汗を掻く。

 色々と事件に巻き込まれたのに、まだ了と再会して一ヶ月と経っていない事を証明するのが、この暑さである。

 店のエントランスが見えると、ユリは逃げ込むように小走りで駆け寄った。ドアを引くとカランと小さな鈴が鳴り、スっと冷たい風が全身を包むように吹いてきた。待合席に数人と、

「こんにちはー。」

 見習いの美容師がユリを見て声をかける。顔馴染みだ。

「こんにちは。」

 言いながら荷物を預けると、担当の美容師の女性が置くから出て来た。ユリの担当になってから、もうそろそろ五年になる。すっかり仲良しになった。

「急にどうしたの。」

 予約をしたのは、昨日の午後だ。人気店なだけに、よくも予約が取れたと思う。

「ちょっと…。急いでやって貰いたくて。」

 バツの悪そうな顔をすると、美容師は肩を竦めながらチェアへと誘導する。大きな姿鏡の前のチェアに腰を下ろすと、コサージュを外し、結わいていたゴムを取って髪の現状を見せる。一瞬、鏡に映った反対側の美容師の表情が曇った。

「どしたの、これ…。」

「うん。ちょっと。」

 理由は、細かくは言わない。言ったところで、どうにかなる事でもない。

「結構短くしなきゃならないかもよ。」

「うん。仕方ないし、暑いから、ショートにしちゃって欲しいんだ。」

「もったいなーい。折角腰まで伸びてたのに!」

 ユリとて、心残りがない訳ではないが、なくなってしまった物は仕方がない。

「しょうがないよ。」

 と笑うと、美容師は一人納得出来ないという表情で助手にシャンプーを指示し、奥へと引っ込んで行った。

 店で出迎えてくれた見習い美容師がその助手で、軽い雑談をしながらシャンプーを受け、そのまま席に戻ると、美容師が手早くカットに入った。

 担当美容師の女性は、雑談は交わすものの無理矢理会話にしようとしない女性で、少々乱暴な雰囲気はあるものの、腕は確かだし性格も好い。

 人懐こいが人との距離の取り方が巧いと言う申し分ない女性で、ユリのお気に入りの一人だ。そんな性格なので、髪と全く関係のない話を振ってくれ、カットが終わるまでの一時間弱、いつも通りに過ごした。

「こんなんでどう?」

 ショートとは言ったが、やはり遠慮したのだろうか、少し長目に襟足や揉み上げが残っていた。が、今までロングだったユリとしても、急に髪が短くなる事には若干抵抗があり、仕上がりの長さはその抵抗を納得させるにちょうどいい長さだった。

「あ、いい感じ。」

「ね? 急に短くしても落ち着かないだろうから。慣れて来たら、またスタイル変えればいいよ。」

「うん。そうする。」

 元来、あれこれ注文をつけるでなく、美容師に任せっぱなしなユリなので、今回もそのまま受け入れる。不満がある訳でもなく、納得の行くスタイルになったので、これで十分なのだ。

 ユリと美容師、二人で納得して、さっさと会計を済ませ、店を出る。あっという間の、凪のような一時間だ。

 外は相変わらず暑いが、頭が軽くなった分、何故かその暑さも行きよりは不快ではなくなっていた。

 寄り道を考えたが気分が乗らず、真っ直ぐ家に帰る。

 キッチンではまだ、カナエがしゃがみながら拭き掃除をしていた。

「ただいま。」

 声をかけると、カナエが振り返った。

「おかえり。あら、いいじゃない。」

「いいでしょ?」

 ふふんと笑うと、カナエが頷いた。

「あんた、髪短いほうが似合うわね。」

「そう?」

「うん。」

「寝癖大変そう。」

 ユリが少しだけ眉を顰めると、カナエがにやりと笑った。

「これを機に寝相も直したら?」

 遠慮なしの皮肉に、ユリが不貞腐れた。

「何よもう。」

 言いながら荷物を部屋に置きに行こうとすると、カナエが呼び止めた。

「ああ、ユリ。」

「なぁに?」

「明日から、ちょっと出かけて欲しいの。」

「出かけ?」

「そう。お迎えが来るから。」

「…お迎え?」

 はっきりと言わないカナエに、ユリが怪訝な表情を見せる。

「明日になればわかるから。また泊まる用意だけしておいて。三日分でいいから。」

「……わかった。」

 全く以って予想も出来ないカナエの言葉に了解して、部屋に戻る。

「…?」

 考え得る事は、了の家にまた行く事になるか、何か仕事を頼まれるか、だが、考えても仕方がなかった。

「ま、いっか。」

 そう呟くと、ユリは旅行用のバッグをクローゼットから出し、荷造りを始めた。


◆ ◆ ◆


 翌朝。いつも通りの時間に起床し、リビングへ降りると、匠がいた。

「あれ、叔父さん。おかえり。帰って来てたの?」

「やぁ、おはよう。昨日の終電に間に合って帰って来れたよ。」

「よかったじゃない。」

「ユリは支度終わってるのか?」

「支度?」

 聞き返して、カナエの言い付けを思い出す。

「ああ、うん。終わってるわよ。」

「そうか。お昼前には迎えが来る予定だから。」

「…わかったわ。」

 当然ながら、匠も知っているようなので、聞いてみる。

「誰が迎えに来るの?」

「ん? 誰だろう? 特に誰って聞いてないな。」

「…え? じ、じゃあどこに行くかも?」

「ああ、ちょっと事情があってね、蕪木クンの家にまた暫くいて貰う事になってるんだ。あまり詳しく話せなくてごめんよ。」

 やはりか。

「…まぁ、別に予想はしてたからいいけど…。」

「そうか。」

 匠は軽くそう言うと、「じゃあ少し寝るから」と言って寝室へ行ってしまった。

 今日は土曜日。事務所も休みの日なので、朝は穏やかだ。カナエの用意した朝食を食い、いつ迎えが来てもいいように着替えだけ済ませ、何気ない話でカナエと時間を潰した。そして一一時半前、インターフォンが鳴った。

「いらしたんじゃないかしら。」

 カナエが玄関へ向かう。ユリもリビングのドアの前まで出ると、ちょうど匠が四階の寝室から降りて来た。

「ボクが出るよ。」

 そう言って、匠は何の確認もせずにドアのチェーンを外した。

 開けたドアの向こうには、渡部がいた。

「こんにちは。」

「やぁ。」

「すみません。急な事で。」

「いえいえ。」

 簡単にやり取りをし、匠がユリに振り返る。

「支度は済んでるのかな?」

「一応は。」

 ユリが頷くと、再び渡部に向き「すぐに出るのかな?」と尋ねた。

「はい。一旦寄るところが、少し遠いので。」

「そう。じゃあユリ、荷物持って来なさい。」

「うん。」

 自室に行き、荷詰めをしたカバンを持ち上げる。何が必要かわかっているので、前回より少し重い。部屋を出る前、ちらりと両親の写真を見た。

 今回は挨拶はしない。危険はないと、何となく思ったからだ。

 玄関へ降りると、匠が渡部に向かって「よろしくお願いします」と言った。

「お預かりします。」

 いつぞや見た風景だ。ただ、前回よりは緊迫感はない。

「行って来るね。」

「ご迷惑になら内容にね。」

 カナエが声をかける。

「大丈夫。」

 ユリは軽めにそう言うと、会釈をして出て行く渡部に続いてさっさと家を出た。

 渡部の車は家のすぐ前に停められていた。

 荷物を後部座席に置き、助手席に乗ると、渡部は「ちょっと遠いんだ」と言って車を出した。

「了の家に行くって聞きました…。」

「うん。最終的には。でもそのまえに、行くところがあるんだ。そこで蕪木さんと合流する事になってるから。」

「どこへ?」

「町田。」

「町田…?」

「うん。」

 渡部はそれだけ言って、話題を切り替えてしまった。言いたくないのか言うほどの事ではないのか、しつこく聞く必要も感じないので、ユリは黙って受け入れた。

「体の調子はどう?」

「全然元気です。」

「ならよかったよ。蕪木さん、今日から休暇でね。」

「了が?」

 あまり休まないと聞いたので、少し驚く。

「そう。ここのところ立て込んでたから、休みを取ったんだって。」

「そうなんですか。」

 暇つぶしのために呼ばれたかと疑問に思ったが、言わないでおく。が、察したのか渡部が「ユリちゃんも気落ちしてるかもしれないから、気分転換になればって叔父さんに相談したそうだよ。」

 匠に…? 匠はつい今朝まで海外だったはずだが、わざわざ連絡を取ったのだろうか。

「…気を、遣わせてしまってるんですかね…?」

「うーん。気を遣うのは当然なんだけど、個人的なところで、僕らみんな結構ユリちゃんの事は心配してるんだよ。」

「……。」

「突然こんな事に巻き込まれて、お友達も怪我して、普通でいられる筈ないからね。」

「…でも、結構平気です、私。」

 ユリが胸を張ると、渡部がふふと苦笑した。

「今はまだ、緊張してるんだと思うよ。」

「…そうでしょうか…。」

 実感はない。

「うん。僕ら仕事柄、色々な被害者やその家族と会って来たけど、みんな最初のうちは平気なんだ。いや、平気と言うんだ。

 でも数日経つと、一気に落ち込んでしまう。

 事件で瞬時にテンションが上がってしまうので、平常心と勘違いするんだよね。」

「……。」

 強情にしている訳ではないが、そうだろうかという疑問は残った。考え、無口になると、渡部が慌てた。

「ああ、ごめんよ。脅かしてる訳じゃないんだ。」

 「あっ、大丈夫です! わかってますから」とユリも思わず慌てた。

「ありがとうございます。」

 改めて、礼を言う。気を遣ってくれている事には、違いない。

 そして、話題を変える。

「渡部さんは、お休みしないんですか?」

 世間は夏休み真っ只中である。法曹職の者は、どのように休みを取っているのだろう。

「仕事ひと段落しないとね、休みは難しいなぁ。でもうちの部署は割りと、急な呼び出しとか調査以外は暇があるからね、蕪木さんと本部長以外。僕と日下部は、ちゃんと週休二日とってたりするから、まぁ、長期休暇がなくても何とか、ね。」

 そう言って、渡部が笑った。

「いつ休んでるか本当にわからないのは、本部長かな。あの人は土日も登庁してそうだから。」

「え。」

「冗談抜きでね。金曜の夜中机に置いておいた書類に、月曜の早朝には判が捺されてたりするから。」

「忙しいんですか、ね?」

「あの立場の人だから、暇じゃないだろうけどねぇ。独身だし、家にいるのが寂しいんじゃないの?」

 渡部が冗談混じりか、笑いながら言う。

「大変ですね、検事さんて…。」

「ま、楽な仕事ではないだろうね。特にうちはさ。」

 深刻な言葉ではないが、この言葉を最後に二人ともそれ以上話すのをやめた。

 都心から向かう町田市は道さえ混んでいなければそう遠い場所ではない。あっという間に調布を抜け、山を南へ抜ければ到着だ。

 無言になった後、コンビニで飲み物を補給し止った以外は道でもほとんど赤信号には当たらず、出発から何だかんだ一時間弱で目的地に到着した。

 町田市の中でも比較的山間に位置する住宅地にある乗馬クラブで車を止めた渡部は、「ついて来てね」と言って車を降りた。

 黙ってついていく。渡部は何度か来ているらしい足取りで、迷いなく乗馬クラブのクラブハウスを素通りし、練習用の馬場のある厩舎方面へと歩いて行く。

 当然ながら乗馬ルックの会員たちの中で、普段着で馬場へ向かうユリたちは、少少浮いた存在だった。すれ違い様にちらりと視線を向けられるのが、どことなく居心地が悪い。土の剥き出た道はパンプスでは歩き難かったが、髪形のせいか、いつものワンピースが似合わなくなったのもあり、パンツルックにしたのは正解だった。

 クラブ自体がやや高級住宅街に位置する事と、そもそも乗馬という趣味を持つ層から凡そ普段接する事のない種類の人間ばかりだと想像できた。目のやり場に困り、馬場でレッスンをする馬や生徒の後姿をキョロキョロとしながら眺める。馬はどれも大人しく会員や講師の言う事を聞いていて、何より知識よりも大きかった。時折、耳がぴくりと揺れるのが愛らしい。

 ビギナー用と思しき馬場を抜けると、厩舎の合間を縫ってさらに道は奥へと続いていた。少し小高い丘を登るようにして続く道を行くと、下の馬場とは明らかに雰囲気の異なる大きな馬場と、馬を待機させるための小屋があった。

 下の馬場と違うのはサイズのみならず、明らかに馬の質、そして動きが違う。練習している馬の頭数も違えば、身に付けているもの全てが違った。

 現在、馬場で走っているのは三頭。そのうち一頭は障害物の訓練中か、馬場の真ん中に置かれた障害物を走っては飛び越えて周っている。

 飛ぶ馬は手入れが行き届いていて、栗毛色の毛並みは美しく、そして引き締まった体をしている。周りの馬との差は明白で、気を遣って世話をされている様子が手に取るように判った。

 そして、黒いポロシャツに、ブルーのチェックのキュロットを身につけ、長い鞭を片手に見事な騎乗をする者が何者かも。

 黒いロングブーツと、黒いカウボーイハット形のヘルメット、ボディプロテクタには見覚えがある。

 騎手は馬場の柵の前で立ち止まったこちらに気付き、ちらりと見やると、綱をくいと軽く曳き、小屋へ馬を歩かせた。

 小屋の中から出て来たスタッフらしき白いクラブシャツを着た女性が、騎手に声をかける。遠くなので声は聞こえないが、女性が満面の笑みで話すのに対し、騎手側は口の端を上げて微笑む程度の愛想笑いを浮かべている。外でもそうなのかと、やや呆れる。

 談笑しながらも手馴れた手付きで馬具を外し、小屋の中にあるロッカーにしまうと、グローブのマジックテープを剥がしながら騎手は歩いて来た。

「連れて来ました。」

 隣の渡部が声をかける。

「ご苦労様。」

 晴天の丘の上。直接、肌を射す早朝の陽の光を大きなカウボーイハットのツバが遮って表情は半分見えない。それでも声で、それが誰かを最終確認をする。

 渡部は了に一礼すると、ユリに振り向き「じゃあ、僕はこれで」と言い、小走りで去っていった。

 唐突な去り際に「あ、はい、ありがとうございます。」の言葉も背中に呟くしかなく、本当に渡部の耳に届いたかは解らない。

 呆然とするユリに、了が指差ししながら声をかけた。

「行くぞ。」

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