記憶◆6
目の前の高遠は薄ら笑いをさらに薄めたような笑みを浮かべて、椅子をくるりと回し、了に背を向けてしまった。
それにどんな意味があるのか解らず、話を続けて良いのかすら判らず、了は微動だにせず高遠の次の反応を待った。そろそろ五分になる。
付き合い始めて決して短くない間、酷いと三週間は丸々顔を合わせ続けた時期すらある。上司と部下と言う間柄以上の、言うなればパートナーに近い感覚だ。それは高遠も同じのようだが、いつぞや悩んだように、良くも悪くも了を自在に操り事態を動かしていく事には、時折抵抗感も抱く。
エランとの接見再申請が承認されるまで、あと四十分はある。その間に、高遠との摺り合わせを可能な限りして置かなければならない。だからこう言った思案の時間がとても歯痒い。いつもなら、まるで予知でもしているかの如く次々と指示を出していくのに、だんまりとされると不安になる。
果たして何を考えているやら…。
未だ動く気配のない背中から、視線を少し外す。
渡部と日下部は三笠の件で終日出払っている。無人のロフトで、スリープ状態の端末が何かの処理をしているのか、電源ランプを小刻みに点滅させている。自分のデスクの上は、三笠や佳澄の取調べ報告書、マミコやユリの診断結果などここ数日の事を凝縮した書類の束で埋め尽くされている。一方で、隣の三笠のデスクはいつも通りに整頓されたままだ。持ち主を失いながらも、まだ置きっぱなしの私物の小物が、デスク辺りが三笠のテリトリーであると主張している。その様は鬱陶しくも物悲しさを醸し、そして見られる事を拒否しているかのようだ。
再び高遠の背中を見つめる。しんと静まり返ったオフィスで、二人の呼吸が妙に響く。それが嫌で了は呼吸を浅くした。ここで居心地の悪さを感じたのは、これが初めてかも知れない。そんな思いに耽り始めた頃、やっと高遠が口を開いた。
背を向けてから、十分が経っていた。
「…今ね。」
「はい。」
「匠にシリングに行って貰っているのよ。」
「今…? 色々危険では…。」
「うん。そうなんだけどね。」
「何か、あったんです?」
高遠が独断で動く事はそう珍しくはない。取り分け、自分は動かず他人に出向かせる事はいつもの事だった。匠と高遠の間柄に拘らず、大鳥の件で匠に協力を依頼しているのは知っているし、匠の職業としても別段可笑しな事ではない。
ただ、今何故シリングなのか、それが解らなかった。旅客機の渡航は通常通り行われているし、観光客も多くはないが皆無ではない。入国制限も敷かれていなかったため、行こうと思えば誰でもいつでも行ける状態ではある。それでも危険である事に変わりはないし、況してや持っている肩書きはどうあれ匠は民間人だ。流石にこの状況でシリングへ赴かせると言うのは、聊か乱暴ではないかと思った。
恐らく、そんな心境もすべてお見通しである高遠は、一呼吸置くとその理由を話し始めた。
「…調べものがあってね。
クレア・バークレイが三ヶ月前に”泪”を国外へ持ち出した件、彼女が何故持ち出したのか、あの状態じゃ調書が取れないから。ただいつまでも彼女待ちにしてはいられないからね。何か判断材料がないかと、彼女の事を連絡して来てくれた医師のバストル氏に頼んで、バークレイ宅を家宅捜索させて貰う事にしたの。
現地の警察なんかの協力は、大鳥の目もあるので中々得られそうにないからね。
彼は身の引き取り手のないクレアちゃんの身元保証人でもあるし。」
確かに、クレアの様子は相変わらずで、まず証言は取れそうもなかった。状況からも宝飾品窃盗の嫌疑がかかっており、”男爵”と共謀した事実が確認出来れば、共犯者として罪を問わねばならない。ただ、記録上『”紅い泪”は盗まれていない』事になっているし、高遠の言う通り現地の主要施設には大鳥の監視が入り、調査室自体は三笠 美香による情報漏洩の件で微妙な立場となっている今、表立ってシリングについての調査が出来ないジレンマがある。調査室の特殊権限である『その必要が認められる場合に、捜査上の最高権限を与えられる』という決まりすら、機能していない。
現段階ではクレアが”男爵”の関係者である事は立証出来ても、”共犯者”であるという立証は出来ない。そのための捜索ではあるが、こう言った案件では鶏が先か卵が先かの論争宜しく議論がループしてしまう事が間々ある。だが、所詮『証拠在りき』の世界である。真実さえ導き出せるのであれば、それが紛い物でない限り、『証拠』は『証拠』なのである。
「強硬手段なんだけどね、出しちゃえばこっちの勝ちだから。」
普段おっとりしている高遠だが、不意にこのような一言を言う。だが、確かにそれも手段なのである。
それは裏を返せば、手詰まりを意味している。
つまり調査室としても、匠の報告なしに大した動きが出来る状態にはないと言う正式な待機指示だった。
「バークレイ宅の家宅捜索で何かが出て来れば、エランの証言の真偽も判断出来るでしょ。」
「…そうですね。」
了個人としては、否、恐らく高遠としても、エランの証言に嘘はないと思っている。だが、やはり『証拠』なくばそれは『真実』にならない。焦りは何も産まない事もわかっている。
「と言うことで、とーるちゃん。」
「はい。」
「今日はエランともう一度接見して、それが終わったら上がってもいいよ。
あと、近いうちに二日、三日ほど休みなさいな。」
「え…。しかし…。」
「控えてる公判はないでしょ? エランの件はごたごたあって暫く保留だし。
息抜きは急にとるから効果があるんだよ。
まぁ、取りなさいって言っても取らないだろうと思って、既に申請出しちゃってるけどね。」
「えっ!」
思わず声が上擦った。
「明後日から三日間。」
「いや、急すぎま…」と言いかけて、つい一瞬前にその理由を告げられていた事を思い出す。
「本部長…。」
了の眉を極限までハの字に下げ困惑する様子がさぞ可笑しかったのだろう。高遠は満足げに笑っていた。そして一呼吸置いて、さらりと言う。
「僕も考えなしに言ってる訳じゃないよ。キミが家にいるだけで休めるタイプだという事は承知してるし。」
「……。」
「ユリちゃんのフォローをして貰いたいんだよ。
今回の件で、一番ダメージが大きいのはユリちゃんだろうからね。」
「………。」
了は無言のままでいた。休む理由があるのならば、戸惑う必要はなくなった。だから、休日を取る事その事は、了の中でこの瞬間すんなりと受け入れる事が出来た。だが、内心考えていた事もあった。それがユリの事だ。
三笠の一件からこの二日の間に、ユリをこれ以上この事件に近付けてはいけないと思っていた。了の中には、ユリと自分との距離が近いから、ユリが事件に関わる距離が近くなったと言う考えがある。内心で思っていただけだが、高遠や匠に言ったとしても、一理は認めてくれるだろうと思う。事件が終わるまで、もうユリと会わない方がいいのではないかと、そう思っていたところだった。
だから高遠の言葉に正直、戸惑い返す言葉が思い浮かばなかった。何とか言葉を見つけ「…お見通しでしょうけど…」と理由を告げようとするが、高遠はにやりと笑って「お見通しだよ」と言葉を被せて来た。
「寧ろ、だから今お願いしてるの。」
「本部長や芳生さんはどう思っているんです?」
ユリの事は顧みない、自分の歩みも止めないと一度固めた決意が、この数日であっという間に粉々になってしまったのだ。すっかり臆病になってしまった。否、臆病なのは元からか…。自分ひとりでユリの扱いを決める権限などないし、元はと言えば事件に巻き込んだのは他でもない『自分以外の大人数』なのだから、悩む事自体がおかしいのかも知れない。しかし、だからと言ってユリの処遇を今のままにしておくのは気持ちが悪かったし、何よりユリの性格上、事件が傍で起きていればまた首を突っ込んで行くのだろうという恐怖もある。
「芳生 悠璃を引き続きこの件に関わらせる事を、かい?」
「はい。」
匠は怖くないのだろうか。最早、娘という存在だろうに…。
「とーるちゃんの言いたい事はわかるのよ。」
「はい…。」
「僕も今回のユリちゃんの行動には少し肝が冷えた。」
「…。」
「でも、必要なパーツなんだよね、彼女は。」
…言い方が、引っかかる。
「”パーツ”ですか…。」
「うん。厭なら言い換えようか。彼女は僕の中で、この事件の”一部”として存在するのよ。」
「何故です…?」
「簡単だよ。彼女は優良なイレギュラーだからね。
この事件、切欠は別にしてその殆どが仕組まれ、巧妙に誘導されて起きている。その中で、立場上、その事情を知っていてもおかしくないのに何も知らず、しかし、この件を収拾するための最重要情報を持つかも知れない人物で、その割に活性因子としては恐らく誰も…、少なくとも大鳥サイドのどの人物も頭数に入れていなかった極めてノーマークな人物。
三笠 美香の一件も、彼女のイレギュラー性によって道筋が変わったんだと思うし、加藤 真実子にしても結局、ユリちゃんと関係があった事でこれに巻き込まれている。もしユリちゃんと然程仲良くなければ、ミカちゃんには目を付けられなかった筈だからね。」
「それは納得行きません。だってユリは民間人ですよ!?」
「だが一般人では最早ない。
”遺品”にしたってそうだよ。当の本人たちが死んだ今、消された情報は残っていないとも判断出来るところで、彼女と言う存在がその可能性を薄めてしまったし、現に『彼女に遺された遺品』がその可能性を完全に否定し、情報の存在を証明してしまった。
犠牲者とは十分な関係者であり、事件を解決するための重要人物なんだよ。」
「だからって、わざわざこれ以上命の危険に晒してもいいと言うんですか!」
「そのためのキミでしょ?」
「っ…。」
高遠の言葉に了が拳を握り締めた。そうしたのはどこの誰だと言いたかった。
巻き込んだのは、あんたたちじゃないか…。
「とーるちゃん、勘違いしちゃダメよ。
今更この事件からユリちゃんを遠ざけるのは不可能だよ。ミカちゃんの一件で芳生 悠璃という人物は実体化してしまったからね。」
遺品であるロケットを預けて欲しいと懇願した自分も、ユリを事件に巻き込んだ一人かもしれない。物事など、視点が違えば形も変わってしまう。結局、動き出した問題の根源など、極論から言うとどうでもいいのだ。取り返しがつかないのだから。
そして、ふとある疑問が脳裏を過ぎる。
「…?」
高遠の言葉を巻き戻す。
『事件を解決するための重要人物なんだよ』…?
何故だ。ユリが何か知っているというのだろうか。
否、問題はそこではないかも知れない。
高遠は自分がまだ知らない情報を持っているという事ではないのだろうか…。
高遠自身が自分より情報を持っている事は今までもよくある事だった。そしてそれは大抵、疑問に思った時点で調べれば直ぐに自分でも入手出来る程度のものだったし、必要があれば必要なタイミングできちんと提供されて来た。最初から話をしてくれないという『いい様に操られている』感はあれど、捜査に支障を来たしているとも思えず、それはそれで問題ないと受け流していた。
だが、今の言い方は引っかかった。
解決するための情報を持っているという事だ。調査室が未だ大きく動けずにいるのは、大鳥サイドの『国内に措ける犯罪』について詰め切れていない事が原因の殆どを占める。
元々、政府機密監視下でオオトリ・ケミカルによって開発された医薬品について、その精製方法が国外へ持ち出された事を発端とした大鳥グループと諸外国との独占取引を洗い出すというのが調査室設立の名目と聞かされていた。
医薬品については政府絡みであり、情報の公開もその取り扱いも国家機密並みに極めて慎重に行われているものではあるが、現状の日本においては国家機密を保護する法律が制定されていない都合と、漏洩から派生したという独占取引の関連性、違法性の立証が出来ていない事、大鳥グループの傘下である企業という立場が、強行捜査に踏み込めない状況を作り出していた。が、七年前の飛行機爆破事件と”男爵”の関係者からの供述によりその医薬品が意図して殺人に使用された事、そして将来的に侵略行為に使用される目的がある事が徐々に明らかになりつつある。
当初の目的からすると、”男爵”という存在の登場は大鳥捜査の面からは棚ボタ的なものであると言えるが、それが気付いた頃には”彼”自身がこの巨大な事件の主軸になってしまった。それが見掛けだけならさらに厄介だが、少なくとも今、”彼”を追い詰める事で大鳥の足を止める事が出来るという状況になっているのは、興味深くも皮肉であると思う。
が、今はそんな事は問題ではない。
この経緯を辿って『ユリが事件解決に関わる重要人物』とはどういう意味か。”男爵”や大鳥がユリのロケットを狙っているからか? だが高遠なら、それを持っているのは了だと知っている。
目の前のこの男は、何を知っているのだ。何を隠しているのだ。
三笠の一件で気落ちしていたせいか、最近見聞きした事をまとめる能力が低下していた。そもそもの目的も忘れかけていた。この瞬間に気持ち程度でもその能力が自然に機能したのは了にとっては歓迎すべき事だった。少し、気力が戻った。
時間にして一分弱。自分をじっと見つめる了を見上げる高遠自身は、了の心を見透かしていただろうか。
いたのだろう。
了のデスクの内線が鳴った。取ろうと一歩踏み出すと、高遠が自席で代理応答する。
「はぁい。調査室、高遠。…あー、蕪木いますよ。接見申請の件? はいはーい、伝えます。」
言うなり受話器を置き、了を見上げる。
エランとの接見追加申請が受理されたのだろう。
「終わるまで待ってるよ。」
高遠が言う。
多分、高遠はエランとの話を終えた後でないと話せない話題を持っているのだろう。そんな気がした。
「わかりました」と答えると、高遠はにこりと笑って頷いた。
逸る気を抑え、エランの元へ向かう。
既に夜の八時を回った庁舎内は、人気がぐんと減り、不気味に陰る廊下の隅から在らぬ視線を感じたりする。
人に見られている気配は、自分が疚しい事を抱えている証拠だと思う。
今、疚しい事を抱えているのだとしたら、高遠への不信感だ。これを疚しいと感じるなら、即ち自分は高遠を信じたいと言う事だ。
信じるべきか、その信頼を棄てるべきか。その答えは今日中に出る気がする。
だから今は考えない。
エレベータで地下へ下り、黴臭く湿気の多い暗い廊下を進む。足音が響く。
一度砕け散ったプライドが再構築されて行くのがわかる。
一つずつ組み上げよう。
そうしないと、誰も幸せになれない。
そんな事件なのだからと、自分に言い聞かせ、扉を叩く。
扉の向こうでは、一番の犠牲者が自分に話を聞いて欲しいと待っている…。