記憶◆2
話は終わるどころか、やっと前座が終わったところだ。
マミコが一口、水を飲む。
「ワクチン開発の傍らで、国王から依頼されオオトリが行っていた研究がありました。
『ワクチンに対抗し得る最終世代ウイルスの開発』です。」
「最終世代…?」
「はい。最終っていうと少し語弊がありますが…、ニュアンスはそのとおりで、オオトリとしてワクチン開発がカバー出来るギリギリの世代の『一般人』すら感染するウイルスを作る事が真意です。勿論、名目は次の世代のウイルスに対するワクチン開発ですが。」
見えて来た気がする…。
「ワクチン片手に侵略か…。」
「はい。話し合いの上、共同開発にするなどという方向には持って行きようがないのが、あの地域です。
ただでさえ治安が悪い上に、隣国はシリングほど政府による統制もなされていないような国ですから、相手が悪過ぎました。
ただ、その前に国王にはやるべき事が。」
後継者が生まれなければ。
「ウイルス自体が『一般人』にも感染、発症するので、当然、最終世代のワクチンも『一般人』に効果があります。」
つまり、シリシが接種しても問題のないワクチンだ。何世代生み出されたのか知らないが、一年半で数世代先のウイルスとワクチンの開発は、スピードとしては凄まじいものだろう。ウイルス自体、ワクチンに免疫が出来、進化する方向は一つではない。何種類も同時に枝分かれ進化する事もあっただろう。その総てに併せてワクチンを開発するのだ。一体どれだけの人間と金が動いたのか…。
「国王にとっては朗報です。直ちに最終ワクチンを夫人に提供するよう言います。
そこで事故が…。」
最終ワクチンは、旧ワクチンの入っている”泪”の中身を入れ替え、提供する手筈だった。そのため、完全な洗浄の時間が必要で、一時”泪”はシリシの手元から離れる。
”心”に入れなかったのは、シリシがそれを拒んだためだと言う。
だが、研究チームが”泪”を預かり洗浄している間に、何者かが”心”と”泪”を取替える。”泪”には元通り古いワクチンが入れられ、夫人に手渡され、その後、入れ替わりに気付かない研究員の手によって”心”に最終ワクチンが入れられ、それも夫人へ手渡された。
”泪”と”心”は瓜二つだが、一箇所、シリシとアレンだけが見極められる違いがあったと言う。シリシは”泪”にワクチンを入れたという言葉を信じ、結果『旧ワクチン』を接種してしまうと言う事態が起こった。
これはオオトリ側が意図的に仕組んだ事ではないという。
入れ替えた犯人は…。
「エルシです。」
「な…。」
了が硬直する。
「エルシは最終ワクチン完成の段階で既に王妃が母親である事を見抜いていました。それは、ご存知ですよね?」
「ああ…。」
「エルシにとって、父親と同様に母親も裏切り者でした。同時に国政そのものに対する不満もかなり…。」
跡継ぎはなかなか生まれない。唯一生まれた跡継ぎは自分。母親を弄んでいるかのような国王に、従順に仕える父親と、抵抗すらせず躰を捧げる母親。
当時、一六、七歳という若さの少年には、どのように見えただろう。
その答えは、彼のその後の人生が充分に語っている。
「私たちはこれを、飽く迄『事故』と呼びます。
私たちは自分たちだけでなく、あの国のためにエルシを護りたいと考えているからです。
しかし、貢さんと奈津子さんははっきり『事件』だと認識なさった。
自分たちが作り上げたワクチンや抗ウイルス薬で国が潰れるばかりか、沢山の人が殺される事は確かな事です。
お二人はまず、オオトリの研究所のサーバーに侵入し、ウイルスではなく薬のデータを保護しました。」
「薬品開発の方が時間がかかるからだな…。」
「はい。しかも、特にワクチン開発自体はほぼ、お二人の功績ですから、尚更でしたでしょう。時間を稼いでいる間に、何とかして夫人が摂取したワクチンが旧ワクチンである事を調べなければなりませんでした。
そしてもう一つ。
お二人は、最終ワクチンの次の世代のワクチンの研究を始めていたのですが、それに必要な薬品の特許を持っていたのが、KCIです。お分かりですね?」
マミコが了を覗き込んだ。聞かれずとも、知っている。
「…蕪木の会社だ。」
「です。
蕪木細胞研究所。そこで頼ったのが、蕪木さんのお父様、一穂大臣です。
お二人は完成しかかっていたワクチンのデータと、病原体となる次世代ウイルスのサンプルの一本をある方経由でKCIへ送りました。」
「『ある方』?」
了がマミコの話を制した。
「そもそも、エルシはどこからワクチンを手に入れたんだ?」
了の問いに、マミコは表情一つ変えなかった。
「最終ワクチンの原体の提供者、エルシなんです。」
「……。」
「研究の過程で、エルシの存在はオオトリにも勿論確認されていました。
ここからは、私がエルシ本人から聞いた話です。
貢さんと奈津子さんがサンプルのために血液と骨髄を採取して解析したところ、エルシが受け継いだX連鎖遺伝症が、他と大きく異なる事がわかりました。
お二人が研究を進めて行くと、エルシの遺伝症だけが他の患者と比べて数代進化している事もわかったんです。伝染病についても同様かも知れないと考え、彼のB細胞の調査も進めたところ、お二人の勘は当たり。
そして、エルシが『原体』である事もわかりました。という事は、生き別れの双子が『抗体』である可能性が高く、そちらのB細胞も採取する事が出来れば…。
その話を聞いたエルシは、条件を出します。」
『抗体の居場所』を教える代わりに、『旧ワクチン』がほしい。
「お二人はかなり悩んだそうです。
無闇に渡してよいものではありませんから。
でも、お二人も研究者…。」
ちらついた餌の前では、人間の気持ちは揺らぐものである。
どれだけ自制をしたとしても、解決方法が手元にあれば「何とかなる」と高を括る。
「お二人は条件を飲んで旧ワクチンをエルシに提供します。」
エルシはエルシで独自に動いており、王妃の『甥』である事を利用し、アレンにも秘密でいつの間にか国王との接触を果たしていた。そして二人だけでの密会の機会を得た彼は、一芝居打つ。
『私は母を恨みこそしていますが、同時に幸せにもなってもらいたい。それが唯一、母に赦された罪滅ぼしだと思うのです。』
そう言ったエルシは、オオトリの研究チームから受け取ったと言って”泪”を取り出し国王に渡した。
『母を、よろしくお願いします。』
「国王にとっては自分の息子ですからね。夫人は本当の母親ですし。騙す理由を見出せなかった、疑わなかったと仰ったそうですよ。
案外、御人好しなのかも…。」
皮肉か否か、マミコが言う。
「まんまとエルシの言葉を信じた国王は、”泪”に入った旧ワクチンを夫人に渡し…。」
そして、後日オオトリの研究チームから、直接シリシにワクチンが手渡される。
「その後、起こった出来事は、蕪木さんがさっき推測した通りです。
この事態に一番心を痛めたのはお二人です。目先の餌に釣られたが故に、それを利用されてしまいました。そしてこの先、必ずワクチンもウイルスも国を滅ぼすと考えました。
お二人は最終ワクチンとその原体であるウイルスの生成方法や配合情報のデータ、エルシの遺伝子を原体とするワクチンとウイルスのデータの両方をオオトリのサーバーやバックアップ媒体から完全削除し、復元が出来ないまでに壊しました。これについては、第三者の協力があったと言われていますが、調査は進んでいません。
未完成ながらもワクチンのデータを失った事でオオトリのチームも焦りました。
産業スパイとして訴える事は可能ですが、表立って動く事が出来ない…。」
二人はデータをランダムに二分化し、一部を一穂と『ある人物』を介し蕪木グループが持つ研究施設『KCI』にデータを渡すと同時に、残りの一部をとある場所に隠したと言う。
「KCIは人事がかなりやり手だそうで。
やっと入り込んだオオトリの内通者に依ると…。」
「その発言は聞かなかった事にするよ。」と苦笑する了にマミコはおどけて肩を竦めた後、続ける。
「KCIに保管されていたデータは、確認出来たものがすべてであれば、オオトリに残っている途中世代のウイルスとそのワクチンの情報と共通しているものしかなかったそうです。
ワクチンやウイルスの『核』となる、他と明らかに異なる配列を持つ遺伝子についてのデータだけがごっそり抜けていたのだとか。」
「芳生夫妻がどこかに隠したのが、その部分を埋めるためのデータ…。」
「はい。
ユリが今の家に引っ越す事が決まって、その引越しの前後に自宅に残っていた研究資料の多くを大学院の研究所やKCIに提供したそうですね。その時に、立会ったスタッフもいたそうなんですけど、結局自宅からは何も見つからなかったそうです。
オオトリは、データがどこに隠されているかまでは把握をしていません。
ただ、提供資料の中にないとなると、考えられる可能性は…。」
「…ユリか…。」
なるほど。
だから『守る』なのか。
「佳澄さんは、どういう役なんだ?」
「その前に、オオトリの内部事情の説明をしなければならないですね。
オオトリは、現在、大鳥本家を頂点にシリングと周辺諸国への介入を目論むという方向性でまとまっているように振舞っていますが、内部はだいぶガタついて来ました。
エルシの一件を切欠に、父が少しずつ亀裂を入れ始めて、漸くと言うところで三笠さんのお父様が、父の動きを察知しました。こちらも派手には動いていませんし、表向きはオオトリに不利にならないよう調整していますから、怪しまれる程度、監視されたりという事が度々あるくらいでしたけど。
それで、父も保険をかける事にしたのです。
その少し前に、本家側での実行役の三笠さんが三笠さんのお父様の指示でエルシと接触して、オオトリとエネ庁が進めているアメリカとの天然ガス取引に絡んで、新型の飛行機用エンジンの開発協力を取り付けていた米の企業との顔合わせをさせたという情報を掴みました。
シリングでは夫人の死亡原因や経緯を糾弾される事を恐れていた国王が、夫人が亡くなって国葬を終えた後、すぐに証拠品になりそうなものだとか、真実を知られて糾弾される材料になりそうなものをすべて国外のコレクターやバイヤーに破格で売り付けました。ただ一つ、”泪”と”心”だけは売ったと言って手元に残してあったようですが。元々宝石輸出が主な国営事業でもありましたから、この辺りは余り怪しまれなかったそうですよ。しかもそれを実行したのは、アレン氏。王は宝飾品を宝石と金属に解体して、石だけを売買するよう指示したそうで、アレン氏も流石に気が付かなかったそうです。
ただ、これを知ったエルシが”泪”の入手に動きました。そこに三笠さんのお父さんが接触したという流れで、目的は二つ。
”泪”を回収する事。あれは結局オオトリの不手際を象徴するものですし、どうしても手に入れたかった。ただ、オオトリの指示で誰が動いても足がついては困ります。その役に打って付けだったのがエルシです。エルシが率先して夫人の遺品集めを開始してくれればいいのです。
なので、彼が身分を隠して世界中を周る手段を整え誘導します。新型エンジンの話を進めていたのは、日本側は大東、米側は軍用機や戦闘機の開発も行っている中堅です。企業名はここでは伏せます。表立って進めている話ですから、調べればわかります。
この企業へ大東から出向している体でエルシを身分を偽らせて国外に出す事が目的の一つ。
そしてもう一つは、エルシがシリングから出ている間に、エランを探し出す事。」
「エルシが国内にいる間ではまずかったのは何故?」
「シリング内に、彼らが双子として相見える瞬間を作るのはオオトリには不利にしかなりませんから。
オオトリとしては、後継者が生まれる可能性が減る一方の現国王がエルシを後継者として迎える事になるのは時間の問題と考え始めていました。でも言った通りエルシには夫人の遺品集めをして貰わねばなりませんし、そのための捨て駒にもなってしまいました。
世間的にはエルシに双子の兄弟がいる事は愚か、エルシが国王の実子である事も知られてはいませんでしたけど、いずれはきっと明らかにされる事ですし、その時にオオトリがある程度の舵取りが出来る状況を作っておかなければなりません。」
「だから、エランをエルシとして後継者に祀り上げる…。」
「はい。そして捜索を開始した矢先に貢さんと奈津子さんがオオトリを離れてしまった。オオトリとしては、その時までに貢さんと奈津子さんが隠したワクチンを完成させなければなりません。本家の陣営にしても、父にしても、これは保険であり切り札ですから…。
ただ当初は貢さんも奈津子さんも、本家からのある条件に歩み寄りは見せていました。」
「ある条件?」
「『エルシの安全を保障し、無事後継者とする』という条件です。」
殺すという前提があった事が確定した。
「エルシは一連の経緯を知っていますから、そのエルシが国王の座に就けば、オオトリを国外追放する事も可能な訳です。そのための理由も、彼は持っていますし。
貢さんも奈津子さんは、その条件ともう一つを約束する事を要求しました。
それが、夫人が服用した毒物を調べるための『シリング行き』です。」
七年前の、あの爆破事故に繋がるのか。
「本家側の立会い人として、”純”美術館の菅野館長が任命され、菅野さんと問題を抱えていたアレン・バークレイ氏と四人がシリングへ発つ事に…。」
「待て。」
了が集めた捜査資料には、あの便の乗客名簿にアレン・バークレイはいなかった。
そう説明すると、マミコが了を指差した。
「バークレイ氏は次の便の座席を取っていました。名目上は業務での帰国ですが、例の問題もオオトリ側で片付ける手筈でした。」
「…『片付ける』…?」
その言葉のニュアンスが、了にはとても気持ち悪い物に感じた。マミコも表情が曇り、すっかり冷めてしまったコーヒーにミルクを流し込み、間を空ける。呼吸でも整えている様子で、規則正しく数回息を吸い吐きした後、マミコはコーヒーを一口含み、ごくりと音を立てて飲み込んだ。
「あの件、菅野館長の完全なスタンドプレイでした。オオトリとしても、どこかで落としておきたかったそうです。
そこで、シリング国内で処理をする、という結論になったんだそうです。
シリングで起きた事なら、どうとでも調整出来ますから…。」
「菅野を追放すると言うだけじゃ済まなかったのか?」
「その存在そのものが、すでに邪魔な域に達してしまっていた、と父は表現していました。」
「バークレイが同行する理由は?」
「アクセサリーの見分け役です。本当に、”泪”だったのかどうか、最終的に判断出来るのは、この世でバークレイ氏しかいませんでしたから。」
「…俺たちは、バークレイは菅野を殺したかったために飛行機を爆破したと推測しているし、それで捜査も進めている。
でも、正直なところ証拠もないし、証言なんか取れない。
これは本当に正しいのか?」
了の問いに、マミコがもう一度コーヒーを啜り答える。
「バークレイ氏と夫人は、事を荒立てないという選択を貫こうとしたんです。
だから、再婚の件も、エルシとエランの件も、何も語らずに過ごしていました。
菅野館長はその生活を掻き回した人物ではありましたが、それでも彼らは騒ぎにしない方法を模索し続けていました。
彼らにとっては家族も国も大切でしたから、すべてが潰れてしまうのを避けたかったと考えていたと思います。
でも、その思いを、その生き方を、ずっと憎んでいた人物がいました。」
再三に渡り名が呼ばれ、そしてずっと、何かを憎んでいた人物。
「…エルシがやったのか…。」
「…はい。本人がそう言いました。」
一呼吸置いて、溜め息混じりに吐き出されたマミコの答えに、了は両手で顔を覆った。