再会◆3
それから二日後。
その日はカナエが久しぶりに友人と食事をするというので留守をしていて、匠も事務所の者も、事務員を除いて依頼の調査で外出してしまったので、二人の事務員に事務所を預け、ユリは自室で一人ぼうっとしていた。
三ヶ月前の一件から、匠はたまに調査に同行させてくれたり、事務仕事なども任せてくれるようになっていたが、正式に事務所に所属する許可はくれず、ユリは宙ぶらりんの立場のまま、事務所を出入りしていた。
探偵職では仕事があれば金は貰えたが、それ以外で実入りがないため、時折短期のバイトをしたりもしていたが、匠の事務所で働く事を諦めきれず、特に雇用情報を漁る事もしなかった。
カナエは、その辺りは匠に任せていたし、匠は匠で何も言わなかった。ユリも必要分の生活費は家に入れていたし、中途半端な立場こそあれ、後ろめたい気持ちは持たなかった。
ただ、瞬間的には焦りを覚える事もあり、司法の参考書や、大学在学中に学んだ経営学について勉強もしていた。
時間のあるときは、参考書を読み耽ったり、図書館や本屋に篭ったりもしている。
だが、今日は何故かそれらの事もやる気にならず、ユリは自宅をうろうろと彷徨った後、リビングのソファに寝転がって、無心で天井を眺めた。
そこへ、電話が鳴った。
居留守でも使おうと思ったが、カナエや匠だったらと思い、のそのそと起き上がり、テーブルの上に置かれた子機を手に取った。
「もしもし。」
日頃から、電話では自ら名乗るなと言われていたので、その通りにする。
すると、「蕪木と申します」と相手が名乗った。
何の事はない、了であった。
「ああ、こんにちは。この間は有難う。ご馳走様。」
即座に挨拶と、奢ってもらった礼を言うと、了は一瞬黙った後、「うはは」と妙な声で笑った。
「…?」
『すみません。笑ってしまった。
ユリさん…かな?』
さん付けで呼ばれ、居心地の悪さと疑問で戸惑う。
「…え? え?」
『ああ、申し訳ない。
多分、了と勘違いをしているんだな。
僕、了の兄です。』
ユリが呆然となった。そして、途端に顔が熱くなる。
「あっ、ごっ、ごめんなさい!
てっきり、了と勘違いを…あっ、了”さん”ですね、ごめんなさい…。」
『いやいや。よく、声が似てるから間違えられるんですよ。お気になさらず。
で…、匠さんはいらっしゃいますか?』
「あの、ごめんなさい。今、仕事で外出をしています。
戻りの予定は、わからないって言っていました。」
『じゃあ、折り返し連絡を下さい。
ちょっと急ぎなので、必ず連絡くださいと伝えてください。
夜、何時でも構いません。』
「わかりました。」
『ごめんね。よろしくお願いします。
それじゃ。』
そう言って、了の兄は電話を切った。
ユリは切れた子機を呆けた顔で眺めながら、ソファに崩れるように座った。
兄…。
兄がいたのか。
相変わらず了について何も知らない。
家族は、兄の他にいるのだろうか。友人は。親戚は。
三か月前、彼女などいないなどと言ってはいたが、もしかすると、その後の間に結婚したかも知れない。既に子供だっているかも知れない。有り得ない話でもない。
何も知らないで、マミコとふざけ合ってしまった。
そう思うと、何だかとても恥ずかしくなる。
「ただいまー。」
玄関が開いて、カナエの声がした。
「おかえり。」
と蚊の鳴く様な声で応えて、しかし視線は子機から外せずにいた。
その様子に、リビングへ戻ったカナエが驚く。
「どうしたの?」
「うん…?」
視線をカナエに向けるが、視点が定まらない。
「ううん。早かったね…。」
「そうなのよ。行ったお店が凄く混んでて。店員さんに遠回しに追い出されちゃった。
その後、お友達の子供が熱出して学校から連絡来ちゃって。途中で解散したのよ。
ユリ、ご飯は?」
訊ねられて時計を見ると、午後の二時になろうというところだった。
「まだ…。
食べてない。」
「じゃあ、何か作るね。」
そう言いながら、カナエがキッチンへ入って行った。付いて行くと、今まで目に入らなかったが、何日分かと呆れるほどの食料品を詰め込んだ買い物袋をどさりと置いて、カナエが整理を始める。
「…叔父さん、いつ帰る?」
「ん? どうして?」
「今、叔父さん宛てに電話があったの。
”蕪木さん”ってヒトから…。」
「あら、蕪木さんって、あの蕪木 了さん?」
「ううん。お兄さんだって…。」
気が抜けた様子で呆然と立ったまま言うユリに首を傾げつつ、”兄”と聞いたカナエがにこりと笑った。
「ああ、きっと駆さんね。」
「”カケル”さん?」
「うん。蕪木さん、お兄さんが四人いるのよ。みんな法律関係のお仕事をなさってて。駆さんは、弁護士さんなのよ。
この間、偶然…かどうかは判らないけど、うちの事務所にね、依頼人の調査をお願いしたいって連絡を下さったの。
あんまり大きな声で言うのもどうかと思うけど、今日もその調査で出かけてるのよ、匠さん。」
そうなのか…。
「で? 駆さん、何て?」
「ああ、うん。
急いで連絡取りたいから、夜何時でもいいから折り返し下さいって。」
「匠さんの携帯にかけた?」
「ううん、まだ。
今かかって来たばっかりだったから…。」
「あら、じゃあ、かけてあげてくれる?
メールでもいいけど。」
「…うん…。」
ぼんやりとしたまま、ユリは自分の携帯を取り出し、匠にメールを送った。思いの外、返事はすぐに来た。
『わかったよ、ありがとう。』
簡単な返事だが、これで用事も終わった。ユリはまだ手に持っていた子機をやっと手放し、キッチンに戻る。
「ねえ、カナエちゃん。」
「ん?」
やっと食材の半分の整理を終えたカナエが、こちらを振り向く事もなく返事をした。
了の事を聞こう。そうは思ったが、いざカナエに呼びかけると、その後どう訪ねていいのか解らなくなった。
「…ごめん。何でもない…。」
了の事をどのくらい知っているかとか、家族構成とか、そんな事をカナエに訊ねるのもどうかと思った。
「ご飯、いいや。夜まで待てる。」
「そう? ならいいけど。
あ、そうだ。事務所にお菓子持ってってくれる?」
「うん。」
そろそろ三時の茶の時間だった。
カナエに手渡された菓子は、帝都ホテルのブリオッシュである。
「あ、いいなー…。」
「ユリの分はないわよ。」
「ちぇ…。」
言いながら、事務所へ向かった。
事務所は家の玄関を出て、階段を下りればすぐだ。
トントンと小気味好い音を立てて階段を下りると、事務所の前に一人の男がこちらに背を向けて立っていた。
「あ…。」
若干の違和感はあるが、了に似ていた。違和感は、スーツの所為かも知れなかった。妙に年寄りくさい灰色だったのだ。食事をした時に着ていたスーツの印象と、大分異なる。
「…何してんの、了?」
声をかけると、男は肩を小さくびくつかせ、ゆっくりとユリを見た。
その顔に、ユリは今日二度目のパニックを起こす。
了ではなかったのだ。
「あっ、あっ、ごめんなさい! 人違いしました!」
慌てるユリを見て、見知らぬ男は面白いものを見るように肩を大きく揺らして笑った。
聞き覚えのある声だった。
「あ…。」
「こんにちは。ユリさん、だね?」
「はいっ。
あの…。もしかして…。」
多分、先ほどの電話の声だ。
「さっきは突然電話してしまって、驚かせてしまって申し訳なかったね。
兄の蕪木 駆と言います。」
そう言って駆が手を差し出した。おずおずユリが握り返すと、駆はぎゅっとユリの手を握った。了に似た大きな手だが、了の手のほうが冷たい記憶だ。
「こちらこそ、何度もすみません…。」
「匠さんに御用があってね。」
「え、叔父に…? あ、でも今外出中じゃ…。」
「そうなの? 今し方、事務所にいるからって連絡を貰ったんだが…。」
駆がそう言っているところで、事務所の扉が開いた。
中から、きょとんとした表情で、匠が顔を覗かせた。
「おや、何をしているのかと思えば。ユリもいたのか。」
「う、うん…。」
電話で人違いをした無礼が匠の耳に入っているかと思い、ユリが肩を竦めた。が、匠は特に何も知らないようで、駆を事務所へ招き入れ、ユリに茶を出すよう言い付けた。
ユリが冷たい麦茶を入れて匠の使う所長室のドアを叩くと、奥から「どうぞ」と軽やかな匠の返事がした。
ドアを開けると、革張りのソファに駆、その前に、自身の事務机に腰掛ける匠の姿があった。
客を目の前に…、と呆れながら茶を出し、引き上げようとすると、駆がユリを呼び止めた。
「ユリさん。」
「はい。」
未だ体裁悪く遠慮がちに振り向くと、駆はにっこりと笑って、
「よろしくね、ユリちゃん。」
と言った。
強張った肩が、”ちゃん”付けで解れた。
ユリは頭を深く下げて挨拶をした後、家に戻った。
カナエに駆が来ていると告げると、カナエは大した事でもないように「そう」とだけ言って、夕食の支度をし始めた。確かに依頼人なのだから、事務所に来ているのは何ら不思議な事ではないが。
「ちゃんとご挨拶した?」
「した。握手までしたわ…。」
「そう。」
カナエは、声はかけるが夕飯の支度に夢中なようで、会話も途切れがちだった。
手伝おうかと訊ねるが、今日はいいというので、ユリは自室に戻る事にした。
部屋に入り、ベッドに倒れ込む。
ふと了を思い出す。
近々連絡をするからと言われて、まだ二日しか経っていないが、もう大分経ってしまった気がした。
そう言えばあの日に、了から渡された小さな箱を匠に渡すと、匠は一瞬神妙な顔をした後、事務所に篭ってしまった。
あの箱も、一体何だったのか…。
手をごそごそと動かすと、硬い物が触れた。見ると、携帯電話だった。
あの後、マミコは半年間の住み込みのバイトをするのだと言ってカナダへ行ってしまい、暫く外で遊ぶ事も、携帯電話に連絡が入る事もなさそうだった。
だから、この二日と言うもの、殆ど携帯電話を見ていなかった。
今日も鳴る事はないだろう。
そう思って手に取った瞬間、着信音が鳴った。
思わず驚く。
そして慌ててディスプレイを見、さらに驚く。
了だ。
気になりはしていたが用事もなかったのですっかり忘れていた。連絡先は結局交換したのだった。
「……。」
何故か、出るのを躊躇う。
着信メロディとともにバイブレーションで端末が震える。すでに五回目の振動を終え、六、七…と規則的に震える。
切れない。
ユリは一つだけ溜め息を吐いて、通話ボタンを押した。
「……。」
『……。』
無言で数秒、身構える。
やがて、
『何か言え。』
と、了の不機嫌な声が聞こえた。
「そっちからかけて来たんでしょうが…。」
呆れた。
が、このやり取りも、久しぶりとなると程なく心地好い。
『あ、箱、悪かったな。有難う。』
「うん。
ああ、そういえば…。あ、これ言っていいのかしら…。
いいわよね、別に…。」
『ん?』
「了のお兄さんって人が、叔父さんを訊ねて来たわ。」
『ああ。駆だろ?』
「うん…って、呼び捨て…?」
『本人を呼び捨てにはしないよ。
仕事を頼まれてくれる人を探してたから、オレが紹介したの。』
「あ、そうなんだ?
了とそっくりね。間違えちゃった。」
『…。』
照れくさかったのか何なのか、了が黙った。
そこで、ユリははたと思う。こんな世間話をするために了が電話などかけて来る訳がない、と。
「で、どうしたの?」
ユリが問うと、了が不可解に口篭った。
『…ああ、いや…。』
「?」
『………何となく。』
「は?」
…どういう風の吹き回しか。
「何? そういう人だったっけ…?」
『失礼な。』
この反応で、ユリには何となく解った。
口では何事もないように言うが、恐らく何かしら理由があって電話をかけて来たのだろう。
その理由は解らないが、言わないと言う事は、”言えない”という状況である確率が高い。
「ま、いいわ。
職場近いんだから、たまにはうち来たら?」
早々に切り替えてユリが言うと、了がふふと小さく笑った後、黙り込んだ。
そしてゆっくりと、
『多分、近いうちに行くと思う。』
と、少し暗い声で呟いた。
「そう…。」
『ま、元気そうなんで安心した。』
「へ?」
突如言われたので何事かと訊ねようとすると、一息先に了が
『あ、すまん、呼ばれた。
んじゃ、また今度。』
「え、あ、うん。」
と、挨拶もそこそこに電話を切ってしまった。
夕方と言う時間帯、平日でもあるし、仕事中だったのだろうから仕方がないが、何か煮え切らない気持ちで、ユリは切れた携帯電話を見た。
”元気そうなんで”…。
つい二日前、会ったばかりではないか。
その時、元気がない素振りを見せたつもりはない。
何なのだろう…。
疑問に思えば思う程、確信が湧いて来る。
了が、動いている…。