記憶◆0
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いつもはこの黴臭い部屋に呼ばれると、数分で接見希望者が現れるのに、今日は十分ほど待たされた。
座り心地の悪いパイプ椅子に、背筋を伸ばして座る。
部屋の中では一人だが、扉の外では係官が待機をしている。窓もないし、人が通れるようなダクトもない完全な密室。逃げる事も出来ないが、逃げる気などさらさらない。
すぅと息を吸うと、扉がノックされた。
「はい。」
答えると、すっかり顔馴染みになってしまった男性が入って来た。
「こんにちは。」
馴染み過ぎて、自分から挨拶をするほどだ。
「お待たせして済まなかったね、エラン。」
詫びる男性に、エランは微笑んだ。
「とんでもない。構いませんよ、高遠さん。」
名を聞いたのは、初めて彼と接見した時だった。
高遠はいつも暖色系の色合いの服を着ていて、センスがよかった。
柔らかい物腰も好感を持てた。
「今日はお仕事の話なんだけれど。」と言いながら、高遠が向かいの席に座った。
まるで普段は世間話でもしているかのような言い回しだ。
エランはくすっと笑って「どうぞ」と答えた。
高遠がいつになく真面目な顔をする。
「君とエルシ、どちらが『抗原』でどちらが『抗体』なのかな?」
「……。」
エランは押し黙ったが、高遠は続けた。
「もう少し早く気付けばよかったんだけどね…。僕も専門分野以外には本当に疎くて。言葉の真意に気付くまでに、随分と時間がかかってしまったよ…。」
高遠は、表情こそ苦笑をする程度だが、語り口は悔しそうだった。
内に秘めた鋭さは感じていたが、表向きは飄々として決して感情をあからさまにしなかった高遠が、本気で悔しさを滲ませ自分に答えを求めている様子は、エランにとって驚くべき事であると同時に、若干自身の自尊心を擽る甘美なものに見えた。
ただ、エランに彼を満足させられる答えは提供出来ない。
「わからないんですよ…。」
一言言うと、高遠が苦笑を引っ込めた。
「私たち自身もわからないんです。
知っているのは、…いえ、知っていたのは…、たった一人だけ…。すでに、亡くなってしまいました。」
エランはそう答えると、高遠を見た。
「私と彼、どちらが『抗原』で『抗体』か。穴を埋めるためのコードを探していますか?」
「探しているよ。
でも、見当たらないんだよね…。」
「本気で探しましたか?」
「…どういう意味かな?」
高遠は本当にわからない様子だった。何故だろう、話に聞いているほど、高遠と”彼女”は親しい間柄ではないのだろうか。
そんな野暮ったい事を勘繰りながら、エランは高遠に呟く。
「あの人は家族をとても大切にしていました。自分の想いへの裏切りの代償だと言って。
あの人は母を除いて恐らくこの世で唯一、私と彼を見分けられる人物でした。
心優しい以上に、使命を優先させてしまう危険な人でした。
あの人が、この世に遺した最後の宝物って、何でしょうね…。」
高遠の視線が、エランを射抜かんばかりに鋭くなった。普段のにこやかな表情など想像も出来ぬほどの表情で、エランを見据える。
なるほど、この人は仮面を脱ぐとこんなに破滅的になるのかと思う。
「芳生 匠は持っていなかった。
オオトリの人間が血眼になって探しているものです。
芳生 悠璃。
今は彼女が持っているんでしょうか…。」
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