追想◆10
目を覚ましたのは、病室だった。
あの後、了に抱きかかえられたところまでは覚えているが、それ以降、何も覚えていない。
右から左へ風が吹いた。窓が開いているのかと見ると、カナエがいた。カナエはユリが目覚めた事に気付かないようすで、リンゴを剥いている。
「カナエちゃん…。」
声をかけると、カナエがこちらを見、「まだ寝てたら?」などと暢気な事を言った。
「マミコちゃんも別の病院に運ばれたけど、大した怪我じゃないって了さんが。」
そうだ、マミコ…。
忘れていた訳ではないが、聞くタイミングを逃してしまった。詳しい話は、カナエは知らないだろう。尋ねないでおく。
「よかった…。」
溜め息混じりに呟くと、カナエが剥いたリンゴをしゃくりと食べだした。くれるのではないのか…。
ユリの心の内など知りもしないのであろうカナエは、べらべらと話し始めた。
「ユリが倒れた後、了さんが連絡をくれたのよ。救急車で病院に向かってるからって。何事かと思って急いで来たら、開口一番謝られて。」
土下座の勢いだったらしい。大袈裟な比喩ではないのだろう。了なら土下座もし兼ねない。
「まったく、あんたって子は…。」
言葉とは裏腹に、カナエが苦笑する。責めているのではない事は、ユリにもわかる。了も含め、きっとユリを知る全員が、ユリの選択を責めないだろう。そういう状況だったと納得しているはずだ。
ふと壁掛け時計を見ると、午後三時を回っていた。
「…了は…?」
そろそろ、庁舎に戻っているだろうか。
「お昼くらいにマミコちゃんの容態を連絡してくれて…、引き続きお仕事でしょう?」
「そっか…。」
会いには、来てくれないだろうなどと思う。
「目が覚めたら検査をして、異常がなければ帰っていいって。了さんからも、取り敢えず危険はないだろうから、そのまま自宅に戻って大丈夫だって聞いてるわ。」
「帰っていいの…?」
「うん。」
という事は、飛澤や菅野の襲撃は、『男爵』ではなく三笠やその関係者という事なのだろうか。今回の事で三笠は拘束されているだろうし…、そこまで考え、はたと思い出した。
首元を探る。ロケットがない。
きょろきょろと首を振るが、見当たらない。
三笠は何故、あのロケットに固執していたのだろう。
「カナエちゃん。」
「ん?」
「お父さんのロケット…。」
「…?」
カナエは知らないのだろうかと思ったが、すぐに「ああ」と声を上げた。
「貢さんのね。了さんが、まだ暫く預けさせてくれって持って行ったわ。匠さんと了さんの約束なんでしょう? だから預けたけど、まずかった?」
「ううん…。」
了の手元にあるのは問題ではないが、三笠の言葉は気になる。
退院したら、了に聞いてみるか…?
だが、連絡し辛い。心配させてしまったのは事実だし、この数日、色々あった。改めて一緒にいない時間を過ごすと、元に戻る事がすごく新鮮で、照れ臭く、少しだけ居心地が悪い。すべて終わったら、教えてくれるだろうか。
そんな事を思っていると、扉がノックされた。
「はい。」
カナエが返事をすると、若い女性の看護師が入って来た。
「目が覚めました? ご気分は?」
ユリに向かって微笑む。
「大丈夫、です。」
「立てますか?」
言われて、体を起こしてみる。たった数時間気絶していただけだと言うのに、体が浮いているように覚束無い。そのまま足を下ろし、ベッドサイドに腰掛ける。踏ん張って立ち上がると、ずしりと重力を感じた。
「大丈夫ですね。では、お母さん、検査を始めますので、暫くお待ち下さい。」
「はいはい。」
カナエに見送られ、病室を出た。検査室は三つ隣の部屋で、ユリは入るなり着替えを渡され、ばたばたと忙しなくあれこれ機械にかけられた。
普段病院など来ない上、健康診断以外では医療器具に触れる事も殆どない。
異世界だった。
言われるがまま、導かれるままに検査を受け、一時間後、部屋に戻った頃には、最初に受けた簡易血液検査の結果が出ていた。
「取り敢えず、異常はないようです。怪我もなさそうだし。
おうちに帰って大丈夫ですよ。」
看護師の言葉に、カナエが「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げる。
「入院服はそのままその辺りに置いておいてください。下でお名前を言っていただければわかりますから。荷物の忘れ物にお気をつけて。」
早口に並べ、看護師は出て行った。
カナエが窓を閉めカーテンを引いたのを見てユリは着替えを始め、カナエは広げた荷物を片付けて行く。予め今日中には退院出来るだろうと言われていた事もあり、カナエ自身が持ってきた物は果物ナイフとりんごと紙皿くらいで、あとは了から預かったユリの荷物だけだ。
ユリの着替えもさっさと終わり、看護師の言葉通り一階の受付で名前を言うと、代金を言われた。
結構な数の医療機器での検査だったのに、請求額はたったの数千円だった。医療保険とは偉大なものだと思う。
「さ、帰りましょ。」
支払いを済ませたカナエに続いて病院を出る。
「タクシーでも拾おうか?」
「ううん、いいよ。カナエちゃんが疲れてなければ。」
「じゃあ、歩いて帰りましょ。」
「うん。」
何気ない会話だが、このやり取りでやっとユリは日常に戻る事が出来た。
「叔父さんは仕事?」
「ううん。ちょっと一昨日から出張。」
「へぇ、珍しい。」
「そうなのよ。遠くまで調べに出ないといけない事があってね。折角だし、依頼も一通り片付いてたから、事務所も臨時でお休み出したの。特別有給でね。」
この時期にか?と思う。
ユリが自宅を出た日、確かに狙われているのはユリと了だけだろうという予想をしていたことを確認した。
ただ、だからと言ってそれが正しい予想だったと一旦でも理解出来るのは、少なくとも今朝以降のはずだ。その間、カナエを独りにする訳がないと思えた。
何か理由があるのか。もしかして、事件に関係があるのでは。
そう思うが、これもきっと、カナエに聞いてわかる事ではないと思った。
「いいんじゃない?」適当な返事をする。
「いいでしょ? 明後日には帰るから、それまでは私とユリの二人だけ。ご飯どうする?」
「何でもいい。カナエちゃんのご飯久しぶりだから…。」
カナエがふふと笑った。
「そういえば、了さんちできちんとお食事作れたの? あんた、うちでもろくに手伝わないから心配で…。」
「失礼ね。ちゃんと作ったわよ! さすがカナエちゃんに仕込まれたって驚いてたんだから!」
「なら一安心。」とカナエは満足そうに言った。
三〇分もしないうちに自宅に着いた。数日ぶりの我が家。ずいぶん懐かしい気がした。
「荷物片付けちゃって。あと、お風呂入っちゃいなさい。お湯沸かしてないけど、今日はシャワーにしときなさいな。出たら早めにご飯にしましょ。」
「うん。」
言われて、詰めた荷物を解く。洗濯物を洗濯機に放り込み、無造作に洗い始める。靴を玄関に置いた後、バッグの中を乾拭きして、脱臭剤と乾燥剤を入れ、一時自室に置いておく。
夕方五時。少し早いが風呂に入る。カナエに言われたとおりシャワーを浴び、一通りの汚れを落とし、そそくさと出る。部屋着を着てリビングに戻ると、カナエが作り置きの食事を温め終え、並べていた。凝ったものはなかったが、疲れている体にはこういった全く気兼ね無しに口に入れる事の出来るメニューの方が有り難い。
「さ、ゆっくり食べましょ。」
「いただきます。」
久しぶりの、誰かとの食事。何だか妙に心に染みた。一口一口じっくり租借する。自分らしくなくて、居心地の悪さも感じる。そんな内心を隠したくて、無理矢理、話題を搾り出す。いずれは聞きたかった事ではあるが、果たしてカナエが知っているものだろうか。
「ねぇ、カナエちゃん。お父さんのロケットの事…。」
「なぁに? 返して貰いたいの?」
「ううん、違う…。写真しか入ってなかった…よね?」
「…私は中を見てないから…。」
カナエが困惑した。
「お父さんから何か聞いてない? どういうものかとか。」
「……。」カナエは少し考えた後、「聞いたことないわね」と言い切った。
そうか、とユリが納得仕掛けると、ふと何かが脳裏を掠めた。
──『…が見つかればね…』。
夢で聞いた、母の言葉のような気がする。
もちろん、ユリはこれを実際に聞いていると記憶している。
「お母さん、何か探し物してた?」
「え?」
カナエがさらに困惑する。
「ユリ、今夜くらい忘れなさいよ。無理かも知れないけど…。」
気が昂ぶっているのだと思われたようだ。
だが、こうなるとユリはひかない性格である事もわかっている。
「了さんの方が詳しいんじゃないの? 聞いてみたら? 電話には出られないかも知れないけど、メールくらいならそのうち見てくれるでしょ。」
「……。」
カナエの策でもある。ユリは、今日は了に一段の引け目を感じていると感じていた。了の名前を出せば、諦めるだろうと思っていたし、実際そのとおりなので、ユリは結局黙ってしまった。
その様子に、カナエは苦笑する。
「焦ったって何も見つからないわよ。了さんや高遠さんが、こんなに長い事かかって少しずつ崩すしかない事件でしょ。
まだ知らなくてもいい事なんじゃないの?」
カナエの常套句なのである。
この世には人に知恵を必要なだけ与える神様がいて、人が知ろうとしても知る事が出来ないのは、その神様が調整をしているからなのだとか。
勿論、カナエ自身は何の信仰もしておらず、神様自体何を想定している訳でもない。
だが、この世には知らなければならない事と知るべきではない事が明確に別れていて、その決まりを無理矢理に壊すと、自分もただでは済まないと言う事らしい。
実体験かと思っているのだが、聞くのも野暮のようで聞けずにいる。
ユリもその言葉でずいぶん色々な事から逃げ出せた記憶があるので、この言葉には逆らえない。
「そうだね…。」
そう言うと、無言で食事の箸を進めた。
◆ ◆
ユリの搬送に付き添って、カナエを病院で迎えた後、すぐに美術館に戻った。
今朝、キャリアからの情報を元に美術館へと急ぐと、遠巻きに美術館の正門から立ち去って行く乗用車が見えた。一旦正門を通り過ぎ、後から付いて来ている渡部に前方の乗用車を追うよう指示をし、路地に車を置き、美術館へ突入したのが、乗用車を目撃してから二、三分後の事。
不思議と人気もなく、エントランスに入るも、誰が出迎える訳でもない。三笠のスタンドプレーであると察し、職員通路の扉を抜けると、遠くのほうから響く足音がした。ユリたちに間違いないと思った。
足元に全神経を集中させ、地下通路を行く。徐々に前方の足音に近付いて行く。
ふと、足音が止まった。ちょうど曲がり角だったため覗き込むと、警備室の前で蠢く人影が見えた。一つはユリだ。もう一つは三笠ではないが…。
暗がりで顔は見えない。だが、何故か了はその人影に見覚えがあった。
ユリと思しき人影が、一人で通路奥へと歩いて行った。そういった手筈なのだろう。ユリの足音に合わせ、了も歩を進めた。そして警備室の扉を覗き込むと…。
警備室のモニタの薄光で照らされて、倒れているマミコの姿が見えた。
その傍らで、しゃがみこむ女性のような人影。マミコを介抱しているようにしか見えないその女性が、エランに刺されたあの佳澄であると気づいた了は、思わず扉を押してしまった。
ぎくりとこちらを見る佳澄は、了の姿を確認し、さらに驚いた様子だった。
どういう事なのか…。問うている時間はないが、真っ先に知りたい事でもあった。
立ち尽くす了に、佳澄が声を殺しつつも叫んだ。
「お願い。美香さんを救ってください。」
言葉を汲めない。そこにある感情が理解出来ないからだ。
何故佳澄が三笠を知っている。何故ここにいる。
「ロケットが必要だっただけなんです。」
ロケット…?
「あの中に、すべてが入ってるって美香さん言ってました。あれが欲しいだけなんです。」
ロケットが見当たらなかったのは、ユリが持って行ったからで間違いなさそうだ。
だが何故ロケットを…。疑問に後ろ髪を引かれつつ、了は通路に出た。奥は保管庫だ。ぼそぼそと声が聞こえる。
また足音を殺して保管庫へ歩く。その間に、応援要請していた警官二〇人と渡部、日下部も辿り着いた。
身振り手振りのジェスチャーで、自分が三笠を止める事を伝え、ひたすら陰の中を歩いてユリに近づく。そして無事に三笠のナイフに手が触れた時、どっと了の胸に押し寄せた感情は、安堵でも憎しみでもなく、怒りだった。
しかも、三笠へのものではなく、ユリへの。
三笠の連行を命じ、ユリと退治した時、その怒りは自分でも驚くほどの大きさになっていた。何故、怒りなのかわからなかった。
ただユリに手を上げた時、脳裏に浮かんだ言葉があった。
『覚悟を持ってやっています。』
それは高遠に問い質された時に口にした返答だ。
どんな事があっても解決まで走り抜けてみせる。ユリも勿論、守り抜いてみせる。
その陰にあったのは紛れもない、『ユリが自分を信用してくれている』という大前提だ。だが結局それは、ただの自分の思い込みだと言う事に気付かされた。
いつの間に、そんな儚い妄想に縋り付くようになってしまったのだろう。
人間など所詮、自分自身の信念にしか従順になれない。それを他人に押し付ける事は出来ないとわかっていた筈だ。
ユリがどう思おうと、自分がユリを信じていればそれだけでよかった筈だ。
それなのに…。
足元に落とした視線を上げると、呆然としたユリがいた。溢れんばかりの涙を必死に堪えて、必要もない謝罪をする彼女は今、何を思っているだろう。
そう思うと、情けなくなった。
ユリの頬を打った右手の甲がじんと痛んだ。
その痛みが自分自身のジレンマの答えだと思った。
独り善がりは、大事な人を傷付けるだけだ…。