追想◆9
『加藤真美子ちゃんって、知ってる?』
電話口で誰かが言った。
明け方の小雨降る街は、まったく見慣れないものだ。
妙に目覚めが良かったのは何か勘が働いたからなのか、脳に浸透するような声が頭の中に木霊している。
了との話が尽き、眠くなって寝る事にした。ベッドに横になった視線の先では、了が何箇所かに電話を掛けていた。話の内容から、調査室の面々だろうと言う事は判った。行かなくてもいいのだろうかと思ったが、自分があんな事をしてしまった手前、進んで一人にさせてくれと言っているような気がして言い出せなかった。
どう動くか判断するのは了だから、了がいいと思うからここにいるのだろう。
そう思い、目を閉じた。
すぐに了は電話を終えて、ベッドに腰を下ろしたようだ。少しだけ、ベッドの左側が沈んだ。スルスルと横になる音がして、暫くして静かな寝息が聞こえた。目を開けると、部屋は暗くなっていて、薄ぼんやりと了の横顔が見えた。
ここ数日では見られなかった、久々のあどけない寝顔だった。
この安らぎを自分で壊しかけたのかと思うと、怖かった。少しだけ体を近付けて、うとうととする瞼の向こうの寝顔を見つめる。そしてそのまま、眠りに着いた。
夢も覚えていないほど深い眠りの傍らで、「ヴー」という小さなバイブレーション音がした。何度も何度も「ヴー」と鳴るので流石に意識も眠りから醒めた。見ると、枕元に置いた携帯電話が震えていた。ディスプレイに表示された番号は知らない番号だった。だが、何故か出なければと思った。
端末を手に、了を起こさないようにリビングを出、バスルームに入って出た。
「…はい…。」
そう言うと、相手は暫く黙ったあと、こう尋ねて来た。
『加藤真美子ちゃんって、知ってる?』
「真美子…、はい。あの、どちら様ですか?」
尋ねはしたが、聞き覚えはあった。すぐさま、「三笠さんですか?」と続けた。
相手はただひとつ、ふふと笑って、黙ってしまった。
三笠だ。確信した。
了から聞いた話を反芻しつつ、了を起こすべきか、三笠に何を言うべきか、ユリはきょろきょろと挙動不審になった。
『ちょっと用があって、真美子ちゃんとお話をしてるの。』
いつも通りの穏やかな口調なのに、そこはかとなく不気味だった。
「…話?」
『出来れば、ユリちゃんにも加わって欲しくて。』
その三笠の声の向こうで、鈍い呻き声が聞こえた。鋭い痛みを堪える時に漏れる声だ。そしてその声は、真美子の声に聞こえた。
「待って…、待ってください。真美子に何かしてるの!?」
『何をしているかは来て貰えればわかるのよ、ユリちゃん。』
「……。」
『誰にも知らせず、来て欲しいわ。』
「…どこへ…行けば…?」
『美術館、わかるわね?』
「はい…。」
『そこまで来てくれればわかるわ。』
真美子に危害を加えている。助けに行かなければとは思う。だが、一人で行ってどうする。こんな時、ドラマでは一目散に駆けつければ、寸でのところで誰かが助けに来てくれる。でも、現実世界ではどうしたらいいのだろう…。
電話口の三笠は急かすでもなく、ただユリの言葉を待っていた。
了に報せない。これが真美子の助けるための条件なら、従えば真美子だけでも解放されるだろうか。真美子が助かれば、助けを呼べるかも知れない。
結局現実離れした浅はかな選択しか出来ず、ユリは了承した。
「行きます…。」
『今すぐよ? お待ちしているわ。』
冷淡に含み笑いをしながら言う三笠の声に吐き気を覚える。だが、こちらから切る事を躊躇い、携帯電話を耳につけ続けていると、三笠が『ああ、そうそう。』と言った。
『ロケットを持って来てくれる?』
ロケット…?
一口ではぴんと来なかったユリだったが、『了に預けているでしょう?』という言葉で漸くわかった。
父の遺品だ。
しかし、何故…?
「え…?」
と言うと、三笠は『待ってるわね』と言って電話を切ってしまった。
ユリは数分呆然としたあと、足音を忍ばせ、リビングへ戻った。何気なくカウンターを見ると、幸か不幸か了に預けたロケットペンダントが置いてあった。
了は身に付けている物をまずキッチンカウンターの上に置く癖があった。
ロケットを手に、携帯電話を握り締め、窓を見る。まだ雨音がする。ユリは了の部屋に来る時に持ってきたスプリングコートだけを羽織って、家を出た。
エレベータを呼ぶ。
思いの外大きな音を立てるモーター音にやきもきしながら、到着したエレベータに乗り込み、一階のボタンを押すと、『閉』ボタンを連打する。逸る気持ちなど知らないエレベータは、ゆっくりと扉を閉じ、スゥっと一階へ下がって行く。
そうだ、フロントにはこの時間でも誰かいる。どうしようか…。そう思う間もなくエレベータは一階へと到着し、扉が開いた。
フロントを伺い見ながら恐る恐る出ると、誰かがフロント前のソファセットに座っていた。後ろ頭だけが見える。女性のようだ。
歩みを止めると、まるで頭の後ろに目が付いているかのように、女性はゆっくりと振り返った。
「待ってたの。ユリちゃん。」
知らぬ女性だ。だが何故か、この人物は三笠と繋がっていると感じた。
「マミコは…?」
「付いて来てくれればわかるわよ。」
そう言って女性は立ち上がり、エントランスの自動ドアへ歩いて行った。
「フロントさん、お願いしますね。」
言われたコンシェルジュは、いつもいる男性で、若干困った顔をしながら女性とユリを見比べている。
「行きましょう、ユリちゃん。」
ユリはゆっくりフロントの前を通り、女性に近付いて行く。奇跡でも起きて、了がエレベータから飛び出して来ないかと思ったが、そうは巧く行かないらしい。自動ドアを潜り、女性に続いてマンションを出る。
車道まで出ると、車が一台路上に停まっていた。
「乗って。」
黙って従い助手席に乗ると、女性は車を発進させた。行き先は、三笠の言う通り美術館なのだろうか。
はっきりとした恐怖を感じている訳ではないが、余計な事を問いかけるのも危険な気がして、ユリは黙っていた。このまま美術館ではない他の場所に行く事も可能性としては十分ある。寧ろ、ユリが了に何も告げなかったと確認出来ない状況では、言った場所と行き先は違った方が相手方としては安全を確保出来るのではないかと思うのだ。だが予想に反し、辿り着いたのは美術館だった。
「降りて。」
女性はエンジンを止めながら言い、下車した。キーは挿しっぱなしにしているので、もしかするとこの後誰かが車を動かすのかも知れないと、ちらりと思う。
すたすたと行ってしまう女性に、何故か小走りに駆け寄り、後について行く。三ヶ月前の事件以来、用もないので来なかった場所だ。ずいぶん懐かしく思える。
中庭や、本館の佇まいは、当然だが何も変わらない。感慨深く眺めていると、後ろで車が発進する音がした。
ユリはやはりかと思いながらも、振り返る事はせずただ女性について行った。
エントランスから中に入る。飛澤が自慢していたセキュリティが作動しない。ユリはカードを持っていないから、恐らく女性と、そして三笠がセキュリティを解除しているのだろう。だとしたら、防犯カメラも機能していない。
ここで走って逃げ出したら、と思うが、マミコを置いては行けない。
閉館時間内の美術館は光がほとんど入らないようにカーテンが引かれ、非常灯以外の灯りも殆ど点いていなかった。真っ暗な中、女性は職員通路に入り、地下への階段を下る。そして、警備室の前で立ち止まった。
「奥に真美子ちゃんがいるから。」
女性が指を指した。通路の先は、地下保管庫だった筈だ。
行け、という事だろう。三笠もいるのだろうか。
ユリは歩き出した。もう進むしかない。
独りになった通路に、ユリだけの足音が響く。この反響音が、三ヶ月前も怖かった覚えがある。
暗がりの中、徐々に見える保管庫の扉。セキュリティカードがなければ開かなかった筈だと思い、同時に少しだけ開いている事に気付く。
ゆっくりと扉を引き中に入る。
相変わらず広い保管庫の中は、ずいぶんと生暖かかった。
誰かいないのかと、立ち止まってきょろきょろとする。
「来てくれたのね。ユリちゃん。」
どこからか、三笠の声がした。壁のあちこちに響いて、場所が特定出来ない。
「マミコは…、マミコはどこ!」
「そのまま真っ直ぐ進んで。壁際までね。」
ユリは問う事を許されていないようだ。三笠は淡々としていた。
三笠に従い、真っ直ぐ進む。まるで倉庫街の中央通りのように、向こうの壁まで真っ直ぐに道が出来ている。保管庫は美術館の敷地の凡そ倍。三ヶ月前も保管庫を隅々まで見る事はなかったので知らなかったが、壁には細いダクトやパイプが犇めき合いながら取り付けられていた。血管のようなパイプの集合体の前には、それを守るように金網が張られている。
金網まであと数歩のところまで辿り着くと、また声が響いた。
「ロケットは持って来てくれた?」
コートのポケットに入れたロケットを握り締める。
三笠は何故、これが欲しいのだろう…。これには、写真しか入っていないはずだ…。了が何か入れたのだろうか…。
逡巡しながら、「持って来ました。」と答えると、耳元で声がした。
「ありがとう。」
ユリの心臓が跳ね上がった。慌てて振り向くと、その瞬間に腕を掴まれた。
「!!」
緑色の非常灯に照らされた三笠は、微笑んでいた。いつも通りの微笑みなのに、今は何もかもが違って見える。了がいつか言っていた「蝋人形」という言葉を思い出した。
「三笠…さん…。」
「ロケット、下さる?」
「マミコは!?」
「聞こえなかった? ロケットを下さる?」
言いながら腕を潰さんとするかのように三笠が手に力を入れた。痛みで思わずユリは自由な腕で三笠を振り払った。その拍子に、ユリの結った髪がパラパラと解けた。何事かと髪を撫でると、腰まで伸びていた筈の髪が肩ほどまでに短くなっていた。
慌てて三笠を見ると、三笠の手元できらりと何かが光った。
ナイフ…だろうか。
ユリの背中を冷や汗が流れた。そして何かが沸々と心の奥底から湧き上がっていた。
「…三笠さん…どうして…。」
「ロケットを下さる?」
ユリの声は聞こえないらしい。ロケット一つで何もかもが無事に戻るなら、今すぐにでも渡したかった。だが、ユリの中の何かがそれを許さなかったのだった。
「…三笠さん…了がどんな思いで指輪を渡したかわかりませんか…。」
これすら聞き流されると思っていたが、了の名に反応したらしい。三笠がふっと冷たく笑った。
「知らないわ。どうでもいいもの。」
その言葉に、ユリの体中の血がざわついた。湧き上がるのは哀れみだとわかった。
自分より長くいるはずの三笠が、了を理解していない。安っぽい正義感だろうが、了を傷付ける者が目の前にいる、それは許せないのは確かだが、怒りに任せられない、そんなふわっとした何かがユリの中にあった。
「よくそんな事を…。」
巧く声が出なかった。だが、震える声でやっと言った言葉も、三笠に嗤われて終わる。
「子どもの恋愛は懲り懲りよ、ユリちゃん。甘ったるい考えの了もね。
第一あなたにわかる? 私がどれだけ了を想って来たか…。
ただ彼のためだけに生きて来た私を尻目に、どこの馬の骨かもわからない小娘に一生懸命な彼を見ていた私の気持ちが、あなたにわかる? どれだけ寄り添っても、軽く手であしらわれて来た私の気持ちがわかる? 私がどれだけ了に時間を捧げたかわかる? わからないでしょうよ。のほほんと愛され世間も知らず、与えられるだけで育って来たあなたには。ね、悠璃ちゃん?」
視点が違うと、こうも想いが変わるものかと、冷静に思う。
誤解と思い込みと、それを払拭するだけの切欠がなかっただけだと、安易に思う。
視界が拓けていなかった。ただそれだけで、ここまで捩れてしまうものかと思う。仕方なくも哀しい事なのだろう。認識や常識が違うだけで分かり合えないというのは。
妄信するのではなく、そういうものだと受け流す事の努力がなかっただけで、この美しい人は惨めになってしまった。
誰のせいかと思う。
「了は、三笠さんに立ち直って欲しかっただけなのに。自分の人生を歩んで欲しかっただけなのに…。」
誰だろう。三笠をこんなにしてしまったのは…。
「私から了を奪ったのはあなたがお説教をするの?」
そうか。七年前、了が自分を見つけたからか。
それだけで、この人の心は折れてしまったのか。
それを立て直すためだけに、この人はナイフを持ち、人を罵るのか。
この人にとって人生は、その程度のものだったのか…。
「あなたにどれだけの価値があるの? あなたの価値は今やそのロケットを持っている事だけと言うのに。」
ロケット…。ロケットの価値…?
「価値のない人は要らないわ。邪魔をする人も要らないわ。」
三笠が顎を上げて嗤う。一歩、近付く。
理解が出来ない訳でもないし、同情しない訳でもない。自分に然程価値がない事だって自分が一番よくわかっている。それでもこの人を、せめて元の道には戻せないのだろうか。
そんな淡い子ども心も、次の瞬間、消え失せた。
「要らない人は退場よね、ユリちゃん?」
戻せないのか。この人は戻る気もないのか。
拳を握り締め、さらに一歩近付く三笠を睨みつける。
ユリは決意する。改心する事も出来ないなら、何としても了の元へ彼女を連れて行く。不思議と、色々なものが見えた。三笠がナイフを逆手に持っている事、ユリを壁際へ追い込み、間合いが詰まったら恐らくそれを振り上げるであろう事。避けるには、振り下ろした瞬間に彼女の後ろへ回りこむ以外にない事。真正面から突き刺さられるより、避け易いであろう事…。
そのまま来い…。そう思った。
そしてユリの背中が金網に触れ、カシャリと音を立てた瞬間、予想通り三笠が腕を振り上げ一気に間合いを詰めた。ユリはイメージしたまま右に少し体を捻り、右前方へ足を踏み出し…、何かに後ろへ引っ張られた。コートのベルトが引っかかったのだ。
(…!)
肩越しに背中を覗き、ベルトを掴んだ瞬間、三笠がナイフを振り下ろした。
(避けられない!)
痛みに備えぎゅっと身を縮め目を瞑る。
…しかし、痛みは一向に訪れない。
数秒。
恐る恐る目を開けると、暗闇の中で三笠が腕を振り上げたまま止まっていた。
「……?」
唖然としながら目を凝らす。非常灯の光が、三笠の腕を掴む別の手を照らしていた。
「…そこまでにしてやってくれないか…。」
諦めていながらも、どこかで待ち焦がれていた人の声がする。
三笠は苦虫を噛み潰したような顔で、視線だけを後ろに向けていた。
後ろにいるのは、了だった。
「その子は俺の大事な子でね。これ以上その子を傷付けるなら…。」
「どうするの?」言いかけた了に、三笠が言う。
「私の気持ちも汲めない人が、私を責めるの?」
女心というやつだろうか。ユリにはそれがわからない。
気持ちとは、汲んでもらうものなのだろうか…。
「…お前が自分の道を歩んでたら…。」
それは了の本音なのだろうと思った。
致し方なく、そして歩み寄れなかった事には、誰もがその一つ目を他人に求める。
責任転嫁ではない。
そうしなければ、自分の存在を否定するしかなくなってしまうのだ。
ただ、一つ目を求められた者は、開き直れなければその言葉を一生悔いて行かねばならない。
発するに多大な勇気の要る、重い言葉だ。
三笠の振り上げた腕が、間接が外れたようにだらりと落ちた。それが合図と決まっていたかのように、ばっという音とともに灯りが点いた。
煌々と照明の灯る保管庫には、悔しそうに嗤う三笠と、ナイフの刃を掴む了、その後ろにはいつのまに沸いたのかと驚くほどの警官と、渡部、日下部の姿があった。
「連行しろ。」
了の指示に、数人の警官が三笠の両脇に立った。三笠も観念したのか、静かに踵を返して行ってしまった。
了はナイフを別の警官に渡すと、呆然と三笠の後ろ姿を見つめるユリの前に立った。了は怒りもせず、ユリの無事を喜んでいる様子も見せず、ただ無表情だった。ユリはどういう顔をすればいいのかわからなかった。了の姿を見て安堵したのは確かで、体中の力が抜けて行くのがわかった。どうにかしたくて、情けなく笑った。
「ごめん…。」
そう一言呟いた刹那、体が何かの力で左へ大きくぐらついた。
何が起きたか一瞬では理解出来なかった。
理解したのは、右頬がじんと痛むのを感じた瞬間だ。
叩かれた…?
実感が沸かず、ただ鈍く痛い頬を摩り、了を見る。
了は視線を足元に落とし、拳を握り締めていた。その拳はふるふると小刻みに震えている。抑え付けている怒りの大きさに、ユリにやっと恐怖心が込み上げた。
今、無事だからこれで済んでいる。殺されるに至らなかったにしても、了が間に合わなければ腕くらいはなくなっていたかも知れない。
了は心配しただろう。心配してくれたのだろう…。
「…ごめん…。」
一言言うと、堰を切ったように涙が溢れた。涙は、頬を伝わる間もなくぼろぼろと落ちていく。
「ごめんなさい…。」
そんなユリの頬に、了が手を添えた。笑顔などないが、ユリを見つめる視線は柔らかで、温かい。思いながら嗚咽する。
「よかったな。怪我なくて…。」
了の言葉にユリの緊張の糸がぷつっと切れた。
膝の力が抜け、意識の遠のく中、体が崩れていく。ぐん、と、誰かが抱きとめてくれた。了だろう。そんな事を思う。
優しい。この優しさが、三笠には伝わらなかっただろうか。それとも、痛いものだっただろうか。そもそも、感じる事も出来なかったのだろうか…。
ユリには知る由もない。