追想◆8
三笠 美香は幼稚園に入る前くらいに近所に引っ越して来て、何故か小さい頃から一緒にいた。中学くらいになった時に聞いた話だと、一穂があまり三笠の人間をよく思っていなかったらしいが、三笠の両親が事あるごとに了と美香を一緒にいさせた。
「立場上、無碍に追い払う訳にも行かなくて、一穂も、悪ささえされなければと思っていたんだそうだ。
俺自身は大して三笠を意識した事もなくて、前に話したみたいに、淡々と生きてた。
それが…、高校二年の時だったかな…、三笠の親父さんが、三笠を連れて家に来たんだ。」
三笠の父は、美香を了の許婚として認めて欲しいと言い、指輪を一つ持って来た。
「俺は三笠に興味もなかったし、親父も何か思うところがあったらしくて、散々断って帰って貰ったんだが、指輪を置きっぱなしにされたらしい。
俺はそれを、ついこの間、親父から聞いて指輪を受け取った。
ユリが見た指輪は、それ。」
一穂は『この指輪を調べた後、元に戻して三笠に返せ』と言っていた。
「ちょうどその頃に、調査室の捜査情報が外に洩れている疑いが上がってて、高遠さんと俺だけで捜査をしていたところだった。」
一穂はその時、『指輪はその関連での重要な足がかりになるだろうから、内密に、そして物音を立てずに検査しろ』と言った。
「科研の、融通の利くやつに頼んで極秘に検査に回したら、指輪から一種の盗聴器が出て来た。十何年経ってるっていうのに、まだ機能していたらしい。物音を立てずにってのは、検査に出た事を知らせないためだったようだけど。だいぶ古かったんで、箱の中にある状態だと殆ど音も拾えない状態ではあったらしい。」
それとほぼ同じ型の盗聴器が、別のところからも発見された。
「三笠から、イヤリングを貰ったな?」
ユリは無意識に、何もない耳朶を触った。
青い、イヤリング…。
「地下の資料室でユリの様子がおかしくなった時に、落ちたのを拾った。そのときは、それが三笠から貰ったものだとは知らなかったんだが、妙に気になったんだ。両方取り外して、科研に回した。」
勘は当たり、イヤリングからは盗聴器が発見された。
「なんで…? 何のために私に…?」
「一つずつ説明するが、三笠の目的は、俺と結婚する事。そして蕪木の資産を大鳥傘下に収める事。」
「三笠さんが、どうして…?」
「親父からこの調査室についても聞いてるだろ? 婚約という手が使えないので、三笠は調査室へと着いて来た。」
勿論、最初から潰すつもりで。
「親父の影響力の強いこの調査室を大鳥の指揮の元で潰してしまえば、俺の処遇もどうとでもなる。だから大鳥に内部情報や、捜査情報を流した。」
「了と結婚するためだけにそんな事する…?」
「それ自体は『三笠 美香の目的』だからな。」
三笠に指示をしていたのは、恐らく三笠の父である。
「…どういう事…?」
「三笠の後ろにいた親父さんの目的が、別にあるからだよ。
三笠の親父さんは、今のエネルギー庁で次官を勤めてる人物だが、元は大鳥グループ傘下にある大東石油の重役だった。他のグループ企業にも比較的顔は広くて、影響力も大きい。
親父から、オオトリ・ケミカルの話を?」
ユリは無言で頷いた。
「蕪木にも、同規模の薬品会社がある。シェア自体は被ってないんだが、うちの企業で進めているある研究が、オオトリの研究と大きく関わっている。この研究がオオトリに渡れば、大鳥グループを経由して大東石油が進めているプロジェクトの大きな足懸かりになる。三笠はその目的のための『経過』に過ぎない。三笠の親父さんの目的の手段として、三笠は利用されていたって事。」
ユリがぐっと拳を握った。この気持ちには、覚えがある。
三ヶ月前。クレアの父であるアレン・バークレイが亡くなった時だ。
人の不幸や死、人を巻き込んだ騒動が、他の誰かの幸福のための手段や下敷きになってしまう事、或いはそれを嬉々として実行する人物、それをさらりと受け流す事を躊躇いもしない者を見た時の気持ち。
綺麗事を言うつもりなどない。ただ、そこにある善意と悪意の混沌とした様子が気持ち悪いのだ。どうやっても、ユリには理解出来そうもない。
三笠が調査室へ来たのが一年前。漏洩した情報の収集時期と、凡そ一致していた。
漏洩手段は、今朝の高遠から渡された書類にあった。
「青いイヤリングの盗聴器、正確に言うと、データ送受信機なんだが、検査を担当した科研のスタッフが、再検査と解析を行ったところ、受信した音声データを一時的に記憶する機能が備わっていたらしい。」
調査室の捜査情報の一部を擬似音声データに変換、それをイヤリングに記録し、外に持ち出す。一度に持ち出せる情報量はそれほど多くはないが、一年をかけ、要所要所の情報を掻い摘んで持ち出せば、それなりの量にはなる。
情報が洩れており、内部に犯人がいるという状況が齎す事態とは何だろうか。
そこへユリと了の襲撃事件が起きた。発信機を撃ち込んだ車両はその後も足取りだけは追っていた。三笠の自宅を始めとした大鳥関係の施設を一通り周った車が最終的に向かった場所は、内閣諜報本部。
これにより、漏洩事件はそれが調査室に告げられた段階で仕組まれていた事を意味する事となる。
調査室の動向を探るだけならば、三笠をそのまま泳がせて置けばよい。何しろ諜報部からの通達がなければ、了たちが情報漏洩に気付くのはずっと後になっていたであろうからだ。それを敢えて告げて来たと言う事は、目的が情報漏洩より後に訪れる事態にある事と、その時期を自在に操らねばならなかった事を示す。
「それが何なのかは、俺らもまだ調べ切れていない。」
ただ、これで『公正な政治組織の見解を利用し正当な理由を掲げた調査室潰し』の名目が立った事は確かだった。例え三笠 美香が大鳥と繋がりの深い者の娘だとしても、組織へ組み込んだのは他でもない一穂自身だ。
それに、三笠自身に与えられている役割が最初から捨て駒なのだから、三笠がヘマをしようが完璧に役割をこなそうが、どちらでも構わない。調査室が完了にとって『危険なもの』であると訴えかける事が出来ればよいのだ。結果、一穂や調査室の立場は、大分弱く、脆くなった。
「何も知らない者からすれば、『組織としての信用』はこれでガタ落ちだ。三笠の親父さんのは大鳥グループと深く関係したポジションにいる。大鳥にとっては足枷でしかない調査室の信用を何とか崩し、真相なんて知らない議員を誑かして調査室自体を潰さないと。」
調査室に与えられた時間が少ない事は明白だった。早急に、この事態を脱却するための、或いは時間稼ぎとなる状況を手に入れねばならない。
「ここ数日は、その捜査を極秘で行っていた。渡部や日下部も当初は容疑者として監視していた。それを知られては、不都合だった。だから、終わるまでは俺と高遠さんの二人だけで動くつもりだった。
それに…。」
了が俯いた。
「三笠は心理的に不安定に思えた。裏で動いている人間の目的と、三笠自身の目的も違いすぎる。三笠がそれを理解していたかは解らないが、俺には三笠は個人的な気持ちでしか動いていないように思えた。」
だから了と高遠は、方針を『時間稼ぎ』に定め、三笠の行動を逆手に取り、逆襲のタイミングを計った。だが、事態を甘く見ていた訳ではないが、了と高遠、そして一穂だけで背負うにはやや敵が大きすぎた。そして差し向けられた内通者役が感情だけで動いている点が、偶然にもそのあたりの匙加減を絶妙なものにしてしまったのだ。
「俺だけが巻き込まれるならいいが、もしかしたら、危害の矛先がユリに向くかも知れなかった。ユリの身を守るのは簡単だ。だけど、ユリの心までは、俺は多分守れない…。」
ユリははっとする。色々な事を思い出した。
三笠と初めて出会った時の事。検察庁の喫茶ルームで聞いた了の言葉。突然三笠がマンションを訪れた日の事。昨夜のもどかしい了の態度…。
捜査状況など伝えるつもりはこれっぽっちもなかっただろう。ただ、事が落ち着くまで、三笠の事はユリには知られたくなかったのだろう。了と違い、ユリは三笠に悪い印象を持つどころか、懐いていた節がある。そんな話をした覚えもある。
三ヶ月前と同じ。了はユリをただ守ろうとしていただけ。了も人間だから、疲れで落ち度もあった。だから指輪をユリに見られる羽目になった。だけどそれは多分、小さな事故だ。あの指輪一つでは、ユリの思考は誤解する事くらいしか及ばなかった。それに、きっとユリの誤解を、了はちゃんと感じていただろう。
なんだか、とても恥ずかしかった。
指輪を見つけて、妙な誤解をしたあの夜に感じた羞恥心よりもっと大きい。
結局、苦しんでいるのはいつでも了で、自分はのうのうと自分の都合のより想像に浸り一喜一憂しているだけだ。致し方ない事だとは理解できても、とても悔しい。
了の寝顔を初めて見た日。守りたいと思ったのに、自分の事しか考えていなかった。なんと都合がいいのだろう。
沈黙の訪れた部屋に、携帯電話の着信音が響く。了のものだ。
了が立ち上がり、カウンターに置きっぱなしにしていた携帯電話を手に取る。
「はい。…ああ。…なっ…!? …はぁ、わかった、引き続き捜索は続けてくれ。すまん…。」
手短だが明らかに何かあったらしい電話を切り、了は暫く佇んでいた。
「…三笠の身柄を、検察庁の拘留所に一時預ける事にしていた。渡部と日下部に任せていた。」
「うん…。」
「…逃げられたらしい…。行方がわからない。ETCの通過記録や、街中の監視モニタなど可能な限りの情報を集めたが、三笠らしき人物は見当たらない。まだこの辺りにいるかも知れない…。」
ユリに背を向けたまま、了はぼそぼそと呟いた。
ユリは思う。
一穂も了も、三笠を改心させたかったのではないかと。了への想いを断ち切らせるために指輪を返し、自分がただ利用されているだけの存在だと気付かせ、三笠 美香個人として生きて行って欲しいと思っていたのでは。
了はこの後どうしたいのだろう。最後まで、その意志を貫きたいのだろうか…。
「ねぇ、了?」
「ん?」
声はかけたが、振り向く了に、どう聞いたらいいかわからない。
ユリが黙っていると、了はソファに戻り、ユリと向き合うように座った。穏やかな、眠そうな眼差しで、ユリを見つめる。
言葉を待ってくれている。
ユリは息を思いっきり吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「了は、まだ三笠さんを救いたいと思う?」
「……。」
「三笠さんは、やり直せると思う?」
ユリの問いに、了は少しだけ考えて、頷いた。
「…思うよ。やり直して欲しいと思う。」
「…なら私は、了が守りたいものを守りたいと思うの。」
頭に浮かんでくる言葉を、ただ紡ぐだけ。
大事だと思った。その気持ちをもう一度思い出す。了が何を、誰を見ていても、ユリはユリの想いを貫けばいい。
心が満たされていくのを感じる。こんな状況なのに、胸の内が温かなのは何故だろう。
「了がもし三笠さんを少しでも守りたいなら、私も三笠さんを守るわ。」
言葉一つ声にするごとに、何故か涙が溢れる。
想いを棄てるのは結局、保身でしかないのではないだろうか。
自分が強くなろうとしている事に気付く。いつまでも守られている自分は嫌だ。自分の手で守れる人間になりたい。
「了が大事よ。何があっても、守りたいと思うの。
了がこれ以上辛い思いを抱え込まないように、守るって決めたの。」
不思議と浮かんだ微笑みのせいで、大粒の涙が零れ落ちた。
巧く浮かんでこなかった言葉で、今一体どのくらいの決意が伝わっただろう。
いつだって言葉は足りなくて、継ぎ足さなければならないのがもどかしい。
それでも今は、目の前の人のためだけに笑いたい。それが自分の精一杯である事を知っているからだ。
今にも泣き顔に崩れそうなユリを、了がふふと笑った。
照れ笑いか、慈しみか。その両方かも知れない笑みを湛え、了がユリの頬に手を添え、いつぞやのように親指の腹で涙を拭った。
それがユリの堰き止めていた何かを崩した。一気に溢れた想いはもう手が付けられなくて、ユリは勢いよく了の首にしがみ付く。我慢していた嗚咽を一息許すと、止まらなくなってしまった。
大きく震えるユリの背を、了が優しく擦ってくれた。そして子供にやるように、トントンと叩く。
時折強風に煽られた雨粒が窓ガラスを叩く音しかしない肌寒い部屋で、お互いの体温だけが自分の存在を証明している気がする。今世界は閉じていて、二人以外いないような、そんな気がして来る。
まだ何も終わっていないのに、そんな思いになってしまったから、ユリは一言告げ忘れている事も忘れてしまった。
──了が大事よ。『命よりも』…。
そして了もまた、三笠の言葉を忘れかけていた。
──『私たちの邪魔をする人間は、要らないのよ』…。
◆ ◆
暗闇の中でざわざわと音がする。
遠くの方で、金属が擦れる音がする。ふわふわとした感覚の中で夢なのか現実なのかを探る。漸く目蓋を上げればいいという理解をして、目を抉じ開ける。思いの外目蓋は重く、そして疲れているのか目脂が酷かった。
右向きの姿勢を仰向けに直し、左を見る。
そしてぎょっとした。
勢いよく体を起こし、部屋を見回す。
ユリがいない…。
雨はまだ降っているようで、月明かりすら入らない部屋は、真っ暗だ。その中に、人気がない。バスルームを覗くが真っ暗だ。トイレも、そして普段は入らないであろうクローゼット代わりに使っている部屋にもいない。念の為ベランダも覗くが、いない。
この家に、これ以上部屋はない。考えられるのは…、外に出たと言う事だけだ。
玄関に走り鍵を見ると、案の定、チェーンが外れ、鍵が開いていた。靴もない。夢の中のあの音は、夢ではなかったと言う事だ。ならばとエレベータを見るが、到着フロアを示す電気がどの数字にも点いていないから、エレベータが使われてから相当の時間が経っていると思われた。一階に降り、この時間でもいるコンシェルジュに聞くと、女性と二人で出て行ったという。身分証を見せられたので控えていたとメモを見せられた。
メモには『三笠 美香様』と書かれていた。
了は礼もそこそこに家に戻り、キッチンカウンターに走り寄ると携帯電話を手に取った。焦って落としそうになりながら、まずユリにかける。
呼び鈴が三回、四回と鳴るだけで出る気配はない。そのまま十五回ほど鳴ったところで留守番電話サービスに切り替わってしまった。
(…どうする…。)
携帯電話を持って外に出たか否かも判らないから、何度かけても同じだ。次にかけるべきは…高遠か匠か。
数秒の間に思案し、早とちりであるかも知れない可能性を考慮し、了は高遠の番号を履歴から引き出し掛けた。ちらりと時計を見ると、まだ朝方の五時だった。昨夜、ユリを見つけて家に戻り、落ち着いてからは差し障りのない話をぐだぐだとした。疲れと安堵で二人ともが早めに眠気に襲われ、三笠の捜索を任せていた渡部と日下部、オフィスにいるであろう高遠に一応の連絡を入れ、二二時前には寝ていた。随分寝たものだと感心をしている間に鳴った呼び鈴は三回。高遠の声が聞こえた。
起きていた、と驚きながらも胸を撫で下ろす。
『はやいねー、とーるちゃん、おはよう。』
「すみません、朝早くに。」
『どうしたの?』
「それが…、ユリがいなくて…。」
まるで子どものような説明だと、我ながら呆れる。
『いないってどういう事?』
「外に…、マンションの外に出たようなんです。フロントに聞いたら、三笠の身分証を持った人物と一緒に出て行ったと…。
申し訳ありません…。」
『…まぁ、そうなっちゃった以上仕方ない。こちらも捜索は手詰まりだったしね…。取り敢えず、隆ちゃんと直ちゃんには僕から連絡を入れる。ちょうど、オフィスにまだいるのよ、あの子たち。キャリアから辿りましょ。
とーるちゃんも、すぐにオフィスに来れるね?』
「はい。」
『じゃあ、またあとで。』
通話を切ると同時に了は着替え、最後にユリから預かったロケットをかけようとキッチンカウンターの上を見て、思考が止まった。
ない…。
普段から定位置に置く事にしていた。肌身離さずとは言え風呂や寝ている間までは着ける事が出来ないから、カウンターの上の小物入れに入れていた。
昨日、ユリを見つけて家に戻った時も、すぐに水気を拭き取ってそこに置いた。
なのに、ないのだ…。
考えられるのは、ユリが持って行った。
何故…?
ただ、今考えたところでわからない事だ。仕方なし、と了は家を出た。
今日ほど、家が職場に近い事を好いと思った事はない。調査室の扉を開けると、高遠の言うとおり渡部と日下部がいて、了を見るなり手にした紙をぺらぺらと掲げた。
昨今は犯罪や行方不明者の多さから、キャリアも時間外業務には積極的に協力してくれる。そればかりか、夜中でも問い合わせが来てもよいようにと、スタッフを待機させていると言う状況だ。世間的にはブラックと呼ばれようが、結局人命が関わるような事態が起きれば、その理屈はいくらでも覆ってしまう。
了はロフトに昇り渡部から紙を受け取ると、さっと目を通した。調査室で控えていたユリの携帯電話番号から現在の居所の最寄の中継点とその場所が大まかに書かれている。了が高遠に連絡を入れ、庁舎に着くまで約五分強。この間に、キャリアからの調査結果が来ていると言う驚くべき対応速度に、今は感心している余裕はない。
「近いな。当たり前か…。」
「公園の方ですね。」
などと言っているところへ高遠もたどり着き、同時に日下部が「もう一報来ました」と言って椅子をどけた。プリントアウトするのももどかしいと、直接ディスプレイを見ろと言う事だった。
高遠含む全員が覗き込むと、住所と地図が表示されている。
場所は、”純”美術館だった。