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男爵は微笑う  作者: L→R
追想
34/48

追想◆7

 検察庁に来た時に渡されたカードは、ユリの行動を制限するものだとずっと思っていたが、違った。

 一八階から一階へ降り、受付前のカードリーダーを目の前に、引っかかったらどうしようなどと思いながら若干挙動不審気味に翳したカードは、何も言わずにユリをゲートの外へと出してくれた。

 そのまま雨の降る外へと出る。傘はないが、どうでもよかった。

 ユリは何食わぬ顔を装い、正門を出、気の向くまま右手の道を行く事にした。豪雨の中、普通に歩いては怪しまれるので、少しばかり早足で歩く。財布は持ってきたので、後で傘を買おう。そう思いながら立ち止まった交差点の向こうのレストランに入っていく、了と三笠を見つけた。大して意識もしなかったが、今日の了はスーツ姿だった。そんな事にも、一々合点が行った。

 自分が誤解している事など露ほども知らぬユリは、唇を噛んだ。

 二人に気付かれてはまずいので、素早く店の前を通り過ぎ、やっと人気のない通りに入った。このまま真っ直ぐ行くと、”純”公園だ。そこまでの間にコンビニはなく傘の工面も出来ないが、何故かユリの足は公園へと向かっていた。

 雨の公園は、誰もいなかった。あまりの雨の強さに、人が外を出歩く事をやめているからだろう。近道のため横切る者もいない。

 都心にある大きな公園だが、住宅地がそれほど遠くない場所にある事もあり、遊具もそれなりに充実している。

 ユリはブランコに座って、項垂れた。

 雨は冷たくて、あっという間に体温を持って行ってしまった。凍える指先を見つめ、この先どうしようかなどと考えたが、血の廻らない脳では何も考えられなかった。

 馬鹿な選択をしたのだろうか。よくわからない。

 後先考えない道は、今までの人生で何度となく選んだ道だったが、今回はその中でも最悪の選択だったのだろうか。

 想いを断ち切るために命を危険に晒す事は、馬鹿げた事なのだろうか。

 …馬鹿げた事なのだろう…。

 それほどに想っていたのだろうか。もしかしたら、明日にこそ、吹っ切る事が出来たのではないのだろうか。

 後悔すればするほど、自覚するのは想いの大きさだけだ。

 涙は雨に混じってよくわからなくなってしまった。どのくらい泣いただろう。

 『失恋の傷は泣けば癒える』と誰かが言っていたが、まだ癒える様子はない。


◆ ◆


「話ってなぁに?」

 ウェイターに案内され席に着いたが、既にオーダーはされているようで、計画的な来店であった事を知った三笠は、メールを受信したスマートホンの端末を少し弄ったあと、逸る気持ちで了に問いかけた。

 幼児の頃からの幼馴染で、ずっと恋焦がれていた男性が了だ。

 司法試験を現役合格したのも、今の職場を希望したのも、総て了の傍にいるため。一度、父が自分の想いを知って婚約の申し出に向かったが、断られた。それでも、ひく事は考えなかった。

 想いは本物だが、それ以上に大事な使命があった。

『いずれ、蕪木一族を大鳥傘下に…。』

 そうなれば、大鳥の重要ポジションに了を推せる。

 蕪木家の五兄弟は全員優秀と言われているが、特に秀でていると言われているのが実は了だった。大鳥でも絶大な権限を持つまでになれるだろう。了にはその方が相応(似合)っていると思った。父もそれに賛成した。

 何が何でも、了を大鳥に入れたかった。大東石油の元重役であり、現エネルギー庁次長を父に持つ自分なら、その後押しが出来る。

 凡そ二十数年、この想いだけで了の後を追って来た。了に女性が出来たときも、勿論『芳生 悠璃』という少女に傾倒した時も、ただ耐えた。

 三笠は今、これまでの事を思い出し、浸り、その”努力”が報われると胸を躍らせている。

 そして了は、その思想の総てを知っている。だからこそ、ユリを敢えて調査室へ入れたのだった。危険な賭けだとは承知の上で、手っ取り早く三笠の問題だけでも片付けようと思っていたのだ。

 それが、三笠の本性を舐めたものだと言う事だとは思ってもいなかった。

 了は三笠の問いに、黙ってポケットから箱を取り出した。

 ユリがあの夜、手にして誤解した指輪の入った箱。青いビロードの箱。

 三笠の前に起き、三笠と視線を交える。

「返す。」

「…どう言う事…?」

 柔らかな作り笑顔を浮かべていた三笠の顔が、一瞬引き攣った。それが了には、何となく小気味好かった。今までは敢えて考えないようにしていたが、こんなに『嫌い』だったのかと、再確認する。

「ユリに、イヤリングを渡したか?」

 答えるではなく、質問を投げる。

「渡したわよ。素敵だったでしょ?」

「…科研に出したら、盗聴器のような物が発見された。一六年ほど前にお前の親父さんとお前がうちに持って来たその指輪からも、同じ物が出て来た。」

「…あら、じゃあ、買ったお店に抗議しなきゃ。」

 白々しい三笠に、見つめる了の視線から感情がふと消えた。否、消したのだ。嫌いだが、人間として否定するほどの感情ではない。今からでも十分人生を立て直せるはずだし、了も高遠も、三笠を訴えるつもりは元々ない。処分は諜報部に委ねる事にはなるが、調査室からは処分軽減を依頼するつもりでいる。ただ、三笠の心を了から引き離さねばならなかった。何が何でも、了が三笠の思うままにはならないという事を理解してもらわねばならない。

 もう少し早い時期だったら感情で訴える事も叶っただろうが、ここまで積み重なり凝り固まった三笠の気持ちは、もう解れる事すらないだろう。

「お前の考えは、指輪に絡んで一穂から何となく伝え聞いたし、高遠さんとの調査でも伺い取る事が出来た。だけど、俺には不要のものだし、これ以上、関わって欲しくない。

 これは、最初で最後の忠告になる。

 これ以上、俺に関わるようなら…。」

「どうするの?」

 言葉を被せて、三笠が不敵に笑った。頬杖を突く様は見慣れたものだが、いつも『板につきすぎていて気持ちが悪い』という印象だった。

「ユリちゃんの事、大事?」

「お前には関係ない。」

「指輪の事、見つかったら大変ね。」

「どうでもいい。

 お前には今、情報漏洩の疑惑もかかっている。盗聴器を経由した漏洩経路と、それに携わっている人間の洗い出しまで終わっている。

 その指輪を持って、調査室を出ろ。処分軽減の嘆願書は出すつもりだ。」

「……。」

 妙な笑みを湛えたまま、三笠は黙って了を見つめていた。述べる言葉が思いつかないのだろうと思われた。

 了からはこれ以上何も告げるつもりはなく、告げる事もない。食事などする気もないから、オーダーはしないという事も店に告げていた。

「今日は戻らなくていい。」

 そう言って、席を立とうと腰を浮かせた了に、三笠がふと笑った。

「知ってた? ユリちゃん、さっき一八階にいたの。ユリちゃんすっかり誤解しているみたいね、私たちの事。」

「……。」

「カードの使用履歴、届いたの。庁舎を出たみたいね。父の部下が追ってるわ。」

 三笠が自分のスマートホンを掲げて揺らした。

「……お前…。」

 低い声で了が呟いた。怒りに握り締めた拳は震えて、すぅっと血が引いて行く。

「本当の目的は何だ…。加藤真実子をどこへやった…。」

 ここでは出すまいと思っていた事だが、やめた。昨夜会ったあと、マミコが帰宅していないと高遠から報告を受けた。高遠は、マミコの父から相談を受けたと言っていた。マミコの話を真に理解した瞬間だった。

「やめてよ、決まってるじゃない。」

 睨み付ける了を挑発するように、三笠が唇をくいと上げた。開き直った人間の凡そ八割がその瞬間に見せるのが嘲笑であると聞いた事がある。それは本性とは別の、謂わばもう一つの人格が出来上がった瞬間であると言う。

「私たちの邪魔をする人間は、要らないのよ。」

 最早演じるつもりもない様子の三笠に、了は黒崎の忠告を思い出す。

──『歯止めは利かなくなっている』と思うよ。


◆ ◆


 冷えすぎて感覚のなくなった肌には、もう雨も感じなかった。水を含んだ服や髪が重くて、体に纏わりつくので苛々とした。

 帰ろうか。どこへ。

 何度も自問自答を繰り返したが、答えが出て来なかった。だが、いつまでもここにいても仕方がない。

 そろそろ本格的に暗くなって来た。夜が近いのだろう。そう思って見上げた時計は、五時一五分を指していた。何かしらの交通機関を使って、遠出をすればいいのではと思いついたので、ユリは取り敢えずブランコから立ち上がり、公園を出た。

 駅はどちらだっけと考えながら歩いていると、シリング大使館に辿り着いた。三ヶ月振り。目的もないので来る事もなかった場所だ。はぁと溜め息を吐き、踵を返した。こちらに、駅はない。

 またぼんやりと歩いていると、帝都ホテルに辿り着いた。思い出でも辿っているのだろうか。

 何と未練がましいのだろう…。

 そうだ、このまま真っ直ぐ行って大通りを南へ向かえば東京駅だ。

 ユリは、閃きに従って歩き出した。


◆ ◆


 雨が酷いので、走り回ってユリを見つけたかったが、困難すぎた。

 三笠にカード履歴の話を聞き、そのまま三笠を置いて店を出た。庁舎へ電話すると、渡部と日下部が舎内を探し回ってくれたが、どこにもいないと連絡が来た。カードの使用履歴には、ゲートを出た記録が残っていて、外に出た事は街がいないと言っていた。

 ゲートの通過は午後三時少し前。了と三笠が店に入る数分前だ。

 三笠と話したのは十分ほど。その時点ではまだ、そう遠くへは行っていないと思われた。

 庁舎周りの探索は渡部たちに任せ、了は車で大き目の通りを周った。

 匠に連絡を入れるか迷ったが、その時間が惜しかったのでやめた。

 車を出してから二時間ほど。徒歩で二時間ほどならこの辺りだろうかと推測して、少し遠巻きに道を選んで周ってみたが、それらしき人影は見付ける事が出来なかった。

 フロントガラスを歪ませる雨が、焦る気を逆撫でる。外が暗くなり、車のテールランプが眩しくなって来た。もうそろそろ見付けなければ、歩いて探さなければならなくなる…。濡れるのが嫌な訳ではない。歩いて探すとは結構な重労働なのだ。体力が落ちて行くにしたがって、見落としも多くなる。

 だがそうも言っていられないかと、ちょうど通りかかった自宅マンションに車を一旦置こうと思ったその時だ。

 本当に偶然に、曲がり角を曲がるユリの後姿を見付けた。

「…ユリ…!」

 車内からでは当然声など聞こえない。

 了は急いでマンション前のターミナルに車を停めると、雨の中へ飛び出した。


◆ ◆


 車の通りが増えて来た。背後でタイヤが水溜りをばしゃばしゃと轢いて行く。

 ばしゃばしゃと言う音は段々自分に向かって来ていた。それに気付いた刹那、左肩を掴まれた。

(痛…!)

 思う間もなく、肩を掴む手が体を強引に振り返らせた。

「…!」

 驚いて声の出ないユリの前に、息を切らせてユリを睨む了がいた。

 手首を掴まれたので、逃げなければと咄嗟に振り払おうとしたが、了の手はユリの手首を錠のように掴んで離してくれなかった。

 了は黙ったまま、じっとユリを睨み付けていた。

 視線を逸らせず、ユリも戸惑いながらその視線を浴びる。段段と、了の体温を手首越しに感じた。相当、冷えているのだろう。寒さなど感じないが、了の手は妙に温かかった。

 後で思い出すと、大雨の中、見詰め合って微塵も動かず佇む二人は、何と異様な存在だっただろう。

 やがて了が顔を逸らし、目を閉じて息を吐き出した。

「…帰ろう…。」

 溜め息混じりの呟きには、有無を言わせぬ強制力があった。

 ユリは黙って従って、了に腕をひかれ、マンションへ戻る事になった。

 車を仕舞って来るのでと了をロビーで待つ間、マンションに来たばかりの日にいたコンシェルジュの男性はユリを見ないよう手元を注視し何かをしていた。恐らく気遣いだろう。有り難かった。

 ロビーはとても暖かくて、静かだった。静か過ぎるのか、耳が鳴った。その耳鳴りに混じって、エントランスの扉が開く音がした。了の姿が見えた。了はユリをちらりと見ると、コンシェルジュに挨拶をし、エレベータへ向かって歩いて行った。

 無言で後に続き、了の部屋に入る。濡れているのであがっていいのかわからずじっとしていると、同じようにずぶ濡れの了が脱衣所の扉を開けてユリを見た。

 そして、「先に風呂に入れ。」と一言言うと、リビングへ行ってしまった。

 躊躇いがあるので誰の目がなくとも動作が遅くなる。おずおずと靴を脱ぎ、脱衣所で水滴の滴る服を脱ぎ、洗濯機に突っ込んでバスルームに入ると、体が大きな武者震いを起こした。

 寒い。

 急いでシャワーから湯を出すと、頭から浴びた。雨水とは違い、シャワーの湯はとても軽かった。

 そのまま髪と体を洗い、数分湯を浴びて温まったあと、さっさと脱衣所に出る。先ほどは気付かなかったが、否、シャワーを浴びる間に了が持って来たのかも知れない、いつも部屋で着ている服が畳んで置いてあった。

 服を来て、タオルで髪の水気を押さえたまま、リビングのドアを開けると、了が濡れたまま紅茶を淹れていた。了はユリを見ると、「ちょっと待ってて」と言ってカップを指差し、風呂へ行ってしまった。

 ユリは湯気の踊る紅茶を見下ろし、ゆっくりとカップを持ち上げた。暖かかった。一口啜ると、眩暈がした。慌てて椅子に座り込むと、初めてすっかり体力がなくなっている事に気付いた。

 少し寒気もしていた。

 もう一口紅茶を啜り、部屋を見回す。つい昼に出たばかりの部屋なのに、妙に懐かしい気がした。

 こうという音がしたので振り向くと、エアコンが暖風を静かに吹き出していた。ここ数日でエアコンの風が一番具合よく当たるのがソファ周りだと知ったので、ユリはソファへと移動した。窓側の端にゆっくりと腰掛け、紅茶を口に含み、カップは一度テーブルに置いた。テレビなど点けるつもりはなかったが、音がないのも落ち着かなかった。寛ぐのも、なんだか違う。背筋は伸ばしたまま、ソファに座って項垂れる事、十分ほど。了が戻ってきた。

 首にかけたバスタオルで乱雑に髪を拭きながら、カウンター脇で自分の紅茶を淹れ、そのままそこで飲む。一口、二口…。何か考えているのか、ユリは横目で伺い見ながら、了の次の行動を待った。

 了はすぐにソファに歩み寄り、ユリと反対側の端にどしっと座った。そしてカップをテーブルに置き、大きな溜め息を吐きながら深々と項垂れ、そのまま動かなくなった。

 どう声をかけるべきか、そもそも声をかけるべきなのかと考えあぐねていると、了は姿勢そのままに曇った溜め息をもう一つ吐き、のっそりと頭を上げ、ユリを見た。ソファの背に凭れ掛かって頬杖を突き、いつも通りの眠たそうな眼差しで見つめる。何を言われるのかとユリが眉を下げると、了はふと目を伏せた。

 そして今度は姿勢を正し、一言「すまなかった」と詫びた。

「全部話すよ。」

 指輪の事か。それしかない。だが、それを自分が改めて聞いて何になるのだろう。

 ユリには疑問でしかなかったが、大人しく聞く事にし頷くと、それを合図に了が話し出した。

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