追想◆6
調査の通り、秋山 佳澄にマミコから携帯端末が手渡されたのは事実だった。
だが、経緯についてマミコの口から話された事実は、了にとって耳を塞ぎたくなるほどに衝撃的で、そして抑え切れぬ怒りを抱かせる内容だった。
マミコは絵本でも読むかのような穏やかな口調で話し、それが了の神経を逆撫でしていたのもあった。
だが、マミコの事は責められなかった。何故なら、総ては『ユリを護るため』に仕組まれた事だったからだ。
事は三年前に遡った。
そんな前から『ユリに対して仕組まれていた事』があったとは…。
時間が時間だけにある程度のところで話を切り上げねばならず、取り敢えずレストランを出た後、送りがてら話を聞こうと提案したところ、マミコが自家用車を駐車場に停めたままだと言うのでこれ以上話を聞く事も叶わなかった。
去り際にマミコから手渡された名刺は、間違いなく大東石油の社員としての物で、携帯電話の番号も載っていた。裏には、さらにもう一つの番号が。恐らく私物の携帯電話の番号であろう。
未だ警戒を解いていいか判らぬ相手だが、了はこれを素直に受け取り、マミコと別れたのだった。
マンションに戻る道すがら、眠気と疲れで重くなった頭で明日の事を考える。マミコから得た情報を高遠に報告するのは勿論だが、ユリの事も心配だ。そろそろ外出がてら調査室へ同行させたいが、明日は明日で全員が外出の予定が入っている。
取り敢えずユリの話相手でも出来ればとぼんやり時計を見て、了は落胆した。
〇時二分。マンションに戻る頃には二時を目前に迎えている事だろう。
起きている訳がない。起こすのも忍びない。
そう考えて、話さなければならないのではなく、自分が話したいのだと気付く。
溜息を吐く。
気分晴らしにラジオをかけるが、これと言っていい番組もやっていなかった。目ぼしいCDも入れていなかった。気分転換も侭ならない。益々憂鬱になり、溜息を吐きかけてはたと止める。
溜息が多すぎると反省して、憂鬱度を上げる。
早く帰りたい。
久しぶりに、そう思った。
◆ ◆
鬱々とした気分もピークを迎えようと言う頃、漸くマンションの灯りを目視出来る場所へ辿り着いた。あとものの数分で到着する。
ふと自室を見ると、灯りが着いていた。
嬉しさ半分、戸惑い半分で駐車場へ入り、ロビーのコンシェルジュに挨拶をする。交代制とはいえ、こんな時間までコンシェルジュが稼動しているのは都心ならではなのだろうと思いながらエレベータを呼ぶと、すぐに来た。
黙って乗り込み、『29』のボタンを押す。電気を消し忘れたままなのだろうか…。起きているだろうか…。そんな短い思考の間に二九階へ到着し、玄関前で暫し立ち往生する。
起きていたら、少し、分が悪かった。
寝ていてくれと思いつつ、鍵穴にゆっくり鍵を入れ、回す。
重い錠を二つ。次いでノブを握り静かにドアを開けると、玄関の間接照明が点いて明るかった。そのまま物音に気を付け、施錠して部屋に入ると、期待を裏切るようにユリと目が合った。
「おかえり。」
昨夜の事などなかったかのような、いつもと変わらぬ様子に、「うん。」という中途半端な返事を返し、少し間を空けてやっと「ただいま。」と言った。
ユリは特に何をするでもなく、ソファの上で膝を抱えて座っていた。テレビは点いているが音声はかなり絞ってあり、ユリの興味のなさそうな地味な邦画が垂れ流されているだけだった。
「眠れないのか?」
「うん。」
思いの外率直に帰って来た返答に対し尋ねたい事は山ほど浮かんだが、どれも相応しくない気がした。
「…明日…。」
「ん?」
だからという事ではないが、取り留めのない話が口をついて出た。
「調査室に連れて行こうかと思ったんだが…。」
「うん。」
「…あちこちみんな外出の予定が入ってて、駄目だった。」
「そっか。」
了の混沌とした内心を知ってか知らずか、ユリは何食わぬ顔で頷くと、さっと立ち上がって「ご飯食べた?」と尋ねた。
「食べた。」
「そっか。お風呂はあったかくしといたから。」
「……ありがと。」
どうにも思考がついていかず、了はぼそっと呟いて、風呂に向かった。
話したいと思ったばかりではなかったのか。
脱衣所で自問自答をする。
悶々としたまま服を脱ぎ、シャワーを頭から浴びると、少し冴えて来た。
マミコと会っていた事、連絡の有無に限らず勘付いているのではと、有り得ぬ事を思う。決して疚しい事ではない。だが、何故か引け目と感じている。
何気なく思い出した三ヶ月前の事。そう言えば、ユリには隠し事が出来ていなかった自分がいた。
否、ユリに限った事ではない。元々隠し事など出来ない性質なのだ。詰めが甘いとも言われるが、そもそも詰めようと思って動いていた事などただの一度もなかった。
要らぬ事を話すほど口が軽い訳ではないし、何か知っているという素振りをわざわざ見せ付けるほどの捻くれ者でもない。言うべき事と言うべき相手を明確に別けていて、必要以上の事を告げないだけなのだが、他人にはそれが隠し事と見え、そしてそう見られる内に段々自分でも隠し事として扱ってしまう、という傾向があるのだろう。
そう思うと、流され易いという性格であるとも言える。
高遠や、父、兄たちからすれば、扱い易いのだろうと思う。指示が少なくても、ヒントさえばら撒いて置けば状況から判断してある程度は想定の範囲で動く。こちらで何を考えていようといまいと、動けてしまう。そして、そうやって動ける人間だと思われているという自覚が、自分を動かしてもいる。
自分も含め、何事も計算し動く人間しか周りにいなかったような気がする。未来へのビジョンとか、夢の問題ではない。現実的に計算したとおりに人を動かす人間しか自分の周りにいない。好ましい結果に向かって動くのではなく、思い通りの結果になるように動くのだ。
だからユリのように常にその場その場で感情のまま、衝動的に動く人間は新鮮だった。だが考えてみれば、それこそが『普通』なのだろうと思う。
自分が学べなかった生き方をするユリは、突き詰めれば憧れだった。
時間を共有し始めてその意識は強くなるばかりだが、同時に見つめ辛くもなった。
自分の生き方に、多少なりとも引け目があるのだろう。
(確かにな…。)
納得をしたところで、背後で脱衣所の戸を叩く音がした。
「大丈夫? 寝ちゃってるの?」
自己分析がどのくらいの時間を有したか、この声で知れた。余程長い事考え事をしていたらしい。
「ああ、大丈夫。」
答えると、ユリは引き揚げたようだった。
そそくさと髪と体を洗い、湯船に浸かったところで思考を戻す。
引け目は何も、一つではない。
指輪の事もある。話が出来れば楽だが、今話したところで混乱させるだけだろうという考えは変わらなかった。
眠れない原因は、この事もあるのだろう。
守ると言いながら、守り切れていない。
頼りない三三歳だと、溜め息を吐いた。
湯から上がり、面倒なので髪も半乾きのままリビングに戻ると、灯りは落ちているものの、ユリはまだソファの上で丸まってテレビを眺めていた。
「まだ眠れないのか?」
問うと、ユリはゆっくり了を見た。心成しか目がとろんとしている。
冗談でもと思うのだが、今日はそんな気分になれなかった。軽口が叩けない。普段通りに接したいのに、それが出来ない。
「話でもするか?」
気が利かないと思うのだ。だが、実は本当に素になるとこんな言葉しか出て来ない。
了の様子が普段と違うのは、ユリが鋭かろうが鈍かろうがわかるだろう。ユリは了の言葉に軽く首を振ると、「先に寝ていいよ。」と言って視線をテレビに移してしまった。
それきりこちらを向く気配もなく、了は仕方なくベッドに振り向いたが、何故か足はキッチンへと向かい、自分の意思に反して指がケトルのスイッチを入れた。
カップを二つ用意して、インスタントのコーヒーを準備する。夜中なので、砂糖を多めにし、スキムミルクを混ぜた後に沸いた湯を少し注ぐと、仕上げに牛乳を混ぜた。
それを、ユリの目の前に差し出す。ユリはかなり驚いて、おずおずとカップを掴んだ。了はユリの足の横、床に直に座り、つまらないテレビを観た。
見覚えのある、しかし名前のわからない俳優と女優が、ずいぶんとレトロな和室で痴話喧嘩をしている。家は都内のアパートらしく、風鈴までが揺れている。こういった作品が受ける理由がわからない了には、随分と滑稽なシーンだった。
「これ、何?」
「…知らない…。」
ユリに目もくれず聞いたものの、答えなど期待してはいなかった。わかって観ている訳ではないだろうと言うのは、ユリの様子からも明らかだった。
ただ、世間話をするだけの声を出す練習がしたかったのだ。が、了のそのささやかな目論見も無駄に終わる。
「寝たら? 明日起きれないよ?」
「……。」
気遣いをしているようで、言葉を交わす事を避けている事が明らかにわかる口調に、了の言葉も尽きてしまった。
「…そうだな…。」
そう言ってまだ温かいコーヒーを一口啜ると、了は大人しくベッドへ向かい倒れ込んだ。
◆ ◆
数分して、背後から了の規則正しい寝息が聞こえて来た。
我ながら少しきつかったかとも思ったが、居心地の悪さに耐えられなかった。
何か隠し事をしているというのも、それを無理に隠そうとしているのも、何かを言おうか言うまいか迷っているというのも見え見えで、それが嫌だったのだ。
テレビの男女は痴話喧嘩が終わって、小さな和室で背中合わせに座って物言いたげに背後を伺っていた。何故か最初からずっと観ているが、ここまで何一つ気持ちの良いシーンなどなかったし、このシーンも気持ちが悪かった。ただ、何かがずっと引っかかっていた。目が離せなかったのだ。
今日一日を思い起こす。いつもどおり掃除をして、洗濯をして、自分のためだけに食事を作って…。誰とも話さなかったし、耳にしていたのはテレビの音だけだ。
呆っとしているとすぐに、あの指輪の事が頭を駆け巡る。何もなかった事にしよう、と決意はしてみたものの、人の心はそこまで単純には出来ていないようだ。
たった数日で忘れられる訳もなく、吹っ切れる訳もなく。
(カナエちゃんに会いたい…。)
会えぬならせめて、声が聞きたい。カナエなら、声だけでユリがどういう心境か汲んでくれるだろう。甘えだと言う事はわかっていても、今は誰かに、了以外の誰かに甘えたかった。
少し弱気になると、眠くもなった。手元のカップに並々と残ったままのコーヒーを揺らす。寝ようか、などと自分に問いかける。
明日も独りだと了が言っていた。要らぬ事をあれこれ考える事になるだろうか…。
そんなユリの憂鬱をさらに深いものにしたのは、翌午後の事だった。
予定に入っていた調査室の面々の外出が偶然にもほぼ無しになったと、昼頃に了から電話が入った。気晴らしが必要だろうと言われ、そうかもと思ったので、迎えに来た了について数日振りの登庁となった。
「いらっしゃい。」
相変わらず笑顔で迎えてくれる調査室の面々に作り笑いを返しながら、その中に高遠の姿がない事を見つける。
が、いつものソファに腰掛けると、高遠が険しい表情で入ってきた。
「おかえりなさい。」
渡部と日下部の挨拶に申し訳程度の反応をした高遠は、「とーるちゃん、ちょっと」とだけ言って席に着いた。苛立ちを隠そうともしない様子は、あまりに普段の高遠と違いすぎて、ユリは身を縮めた。視線の先で、高遠が了に書類の束のようなものを渡す。了もそれを二枚三枚と捲り読み進めて行くが、徐々に表情が険しくなった。そして、八枚ほど捲ったあと、その手を止めた。
「…どういう事ですか、これ…。」
「今までで一番悪い情報かもね。」
その言葉だけをぼそぼそと呟き黙ってしまった二人に近付いた三笠が、了に目配せをする。了は一つ小さな溜め息をつき、ユリに向かうと
「ごめん。少し込み入った話をするから、カフェに行っててくれ。後で迎えに行くから。」
と言った。言い回しは実にソフトだが、異議を認めぬ口調だった。尤も、異議など唱える必要もない。ユリは黙って従って、オフィスを出た。
エレベータで一八階へ行き、そして喫茶店に向かい、数歩歩いたところで立ち止まった。悠長にケーキを食べながら、紅茶を飲みながら了を待つ気分などには到底なれない。
就業時間だからか、今このフロアには、喫茶店とレストランの従業員以外に人がいなかった。開放されたような気分になったのは確かだった。ユリはエレベータホール前の休憩スペースのベンチに座り、窓の外を眺めた。
今日は朝から曇っていて、少し肌寒かったのだが、どうやらとうとう雨が降って来たらしい。雨粒が窓に水滴で線を描いていく。徐々にそのリズムは早くなり、あっという間にざあともごうとも聞こえる音を上げ、本降りになった。
久々の大雨に、街が一気に陰った。低い雲はすぐそこに浮かんでいる。チカチカと部屋に電気が点り始め、少し早く夕方を迎えた様な気分だった。
天気に引き摺られた訳ではないが、ユリの中の何かが心にひたひたと溜まり、溢れ始めていた。
このままここからいなくなったら、どうなるだろうか。
ふと頭を掠めたのは何故か、そんな事だった。
誰か探してくれるのだろうか。もしかしたら、誰も探さないかも知れない。
特定の者以外の誰とも触れ合う事も許されなかった数日、たった数日だ。なのに、こんな事を思うほどに、ユリは孤独を感じていた。
心を赦せていたはずの了との間にすら、今は壁しかない。
否…。了が最後の綱だったかも知れない。
それを本当の意味で理解するのは、この後すぐだった。
エレベータが上がって来るモーター音が聞こえた。何となしに、このフロアで停まると思った。
休憩スペースの端に、観葉植物と薄い壁で囲われ、隠れれば覗き見ても一目には人がいると判り辛い死角があった。ユリは何故か焦ってそこに身を隠した。
了に会いたくなかったのかも知れない。
と思い、かも知れない、ではないなと思う。トイレに行っていたとでも言っておけばいいだろう。今はそのままオフィスへ引き返して欲しかったのだ。
エレベータが停まり、下りて来たのはやはり了だった。
了は休憩スペースを素通りし、喫茶店に入って言った。すぐにぼそぼそと何かを尋ねる了の声がした。ユリを見かけなかったか店員に聞いているのだろう。店員の返事を聞き、了はすぐに出て来た。そして少しの間レストランの扉を見、傍らに立つ従業員に近付いたが、従業員が首を横に振ると、軽く頭を下げて戻って来た了は、休憩スペースで腰に手を当て、暫く佇んでいた。ユリが身を隠している場所には気付いていない様子で、了は小さく溜め息を吐くと、先ほどユリが座っていたベンチとは違う、窓辺に添えつけられたカウンター席に腰を下ろした。
暫くユリが現れるのを待とうという考えなのだと思った。見えないように隙間から了の横顔を見つめる。何を思っているのか、少し憂いを帯びたその横顔には、見覚えがあった。三ヶ月前、美術館での事だ。夕暮れのラウンジで見た、あの横顔だ。何かを悲しんでいる時の顔。
一瞬で、ユリの中に罪悪感が駆け巡った。出て行かなければならないのではないか。そう思った矢先に、またエレベータが停まった。
下りて来たのは、三笠だった。
「了…、大丈夫?」
了の後姿に三笠が問いかけた。了は少しだけ振り返る様子を見せたが、それ以上の反応は示さなかった。三笠は休憩スペースにある自動販売機でカップのコーヒーを一つ買い、了の前のカウンターに置いた。そして、了の背後から肩に手を乗せ、凭れ掛かった。了の首が少し動いた。ユリにはそれが、寄り添う三笠に首を預けたようにしか見えなかった。
そして、続いたその言葉が、ユリにとっては決定的なものだった。
「三笠、あとで渡したいものがある。話もあるから、外に食事に行こう。」
「…わかったわ。」
ユリは血の気が引いていくのを感じた。指先が冷たい。指輪に始まり、その答えを見たのだ。やはり、という気持ちしかなく、そしてあの部屋にいた事が罪でしかなくなった瞬間だった。
呆然と震えるユリの視線の先で、了が左手で軽く払う仕草をした。三笠に戻れと言う事だろう。三笠は頷き、了の肩をぽんと叩いて戻っていった。その数分後、了は立ち上がり、口も付けなかったコーヒーを乱雑にゴミ箱に放り込むと、休憩スペースを見回しユリがいない事を再度確認して、去っていった。
再び誰もいなくなった休憩スペースの角で、ユリは虚脱した。
重く重く溜め息を吐く。
(帰ろう。家に。)
了の傍にはいたくなかった。
だが、家に帰ったら連れ戻されてしまうだろう…。
そんな発想しか出来なかったユリが選んだのは、『どこか誰にも見つからない遠くへ行こう』だった。