追想◆3
話し合いが一段落すると、高遠は所用で外出した。三笠は高遠が用事を言い付けてあったので午後からの出社となり、渡部や日下部が出勤してくるまでの一時間ほど、調査室で独りになった。
自席に着き、椅子をくるりと回して大きな窓から街を見下ろしながら、思案に耽る。色々な情報が入って来て、やや脳内が乱れている。時系列も把握しなければならないため、了はこれまでに得た情報を一つ一つまとめ、並び変える事にした。
恐らく、時系列的に判断し得る一番古い情報は、加藤真美子とエラン・オドワルドの接触である。彼らがシリングで接触し、直後に日本に入国したエランは『佐藤 祐二』という名を使い、一人の女性を暴行している。この『佐藤 祐二』という名だが、拘束の段階では戸籍まで確認出来たため実名だと弁護側も検察側も疑わなかったのであるが、後日CIAから届いたスパイ容疑者と拘束中の男性が同一人物である可能性が浮上、渡部の洗い直しにより、名も偽名であると言う事が判明していた。それ以降は被疑者を身元不明の男性として扱っていたのだった。海外の司法警察に照会しても該当者がなかった事、パスポートも偽造だったため、どの国から入国したかも定かではなかったのだ。どの点に於いても男の身元を特定出来るような情報には行き当たらず、致し方なく裁判は『身元不明の男性』とした上で、仮名『佐藤 祐二』として進めていた。
そして被害女性。名は『秋山 佳澄』と言い、都内の食品加工会社の経理部に在籍するごく普通の会社員と調べが付いていた。経歴の中には、大東石油の経理部に在籍していたという過去もあったが、念のため大学入学時からの一連の職務履歴や入出国記録、通院記録などを調査したが、然して怪しい情報は出て来なかったのだった。そのため、裁判は飽く迄も、一般会社員が男女関係の縺れで暴行され、傷を負わされたという内容で進める事となった。
それからすぐに、シリングの医師からクレアについての連絡を受け、手続きなどで一週間ほどかかった後、彼女が日本に入国している。その時同時に受け取った『紅い泪』と、丸でそのタイミングに示し合わせたかのように起きた飛澤と菅野の襲撃事件。事件はクレア入国の翌日のタイミングで起きた。飛澤は軽傷だった事もありほぼ回復しているが、その翌日に襲われた菅野は未だ集中治療室で生死を彷徨っている。この差は果たして、襲撃犯の加減に因るものか、それとも難いの差なのか。飛澤に一度だけ会い、その時の状況を聞いたが、不意打ちのように背中の脇腹辺りを刺された事以外は、ほとんど何も把握していないという事だった。『一瞬何かがぶつかって来たが、すぐに脚の力が抜け、振り向く事も侭ならなかった』という。
治療中の菅野は腹部を深く刺されている外、後頭部にも頭蓋骨の陥没が認められるほどの酷い打撲が確認された。一般的な打撲のケースを想定し凶器を推測したが、傷口や陥没箇所から推定される物は『直径五センチの円柱型の鉄のような素材で出来た、全長三〇センチほどの棒』という物。ただし、野球のバットのような片端が窄まった形ではなく、両端が同じ太さになっていると思われるため、鉄パイプかそれに似た物であるとして捜査は進められているらしい。『らしい』というのは、この件は直接調査室が捜査を行っているものではなく、飽く迄警視庁の管轄事件として扱われているため、調査室へは簡単な捜査資料と様態の経過だけが寄せられるのみとなっている。
飛澤と菅野の襲撃方法が異なる事から、複数犯による襲撃事件と、偶然一つの事件に纏わる人物が同時に襲われた別の事件として、二方向から捜査が進められている。
捜査の陣頭指揮を取っているのは、刑事課に異動になった北代だという事で、了と高遠は胡散臭さを感じずにはいられなかったが、無理やり横槍を入れたり、極秘捜査などしたところでどこかで発覚し、面倒を引き起こすであろうと、事態を静観する事に決めた。
ただし、飛澤と菅野に『男爵』の件で共通点がある事から、完全な静観も出来なかった。そこで、その関係者の中では菅野の次に『男爵』に顔を知られているであろう了とユリを共に行動させる事で襲撃の隙を絞り込み、捜査の進展を図ろうと目論んだ。未だバークレイによる飛行機爆破事件の真相にも辿り着いておらず、当のバークレイ殺害事件の犯人である『男爵』の逮捕にも至っていない現状は、調査室にとって表向きの存在意義を揺るがし兼ねない状況でもある。制約を受けない筈の組織ならば、捜査はとんとんと進む筈だと言う強引な思い込みをする輩が多い所為だ。実際は、そう巧く行く事は少ない。法の縛りより、捜査対象の妨害の方が、余程現場的には厄介なのだ。ただ、捜査の遅れにちくちく嫌味を言われるのは発起人である一穂や高遠だからまだ思い詰めもしないが、とはいえ危機感を持たぬ訳にも行かない。
創設の真の目的である大鳥と中東諸国との裏取引については、機密情報漏洩やそれに伴う不正取引などの確たる捜査結果も挙がってはいるが、モノがモノだけに、やはり調査室でも大っぴらに捜査する事も出来なかった。さらに案件が挙がれば挙がるほど、この問題をただの漏洩や不正取引という単純な名目だけで扱う事に違和感を感じるようになったというのもある。裏に隠されているであろう真の目的はなんなのか、それをつきとめなければ、事態の解決にはならない。
調査室としては『男爵』の身柄拘束が最優先事項だ。そのために必要な情報が、即ち調査室創設の目的にも繋がる。目先の物から潰して行くのが、一番の近道だと思えた。
『男爵』については、あの『紅い泪』事件以降、特に目立った進展はなかった。『男爵』自身が事件を起こしていない事もあったが、相変わらず先の事件以降の足取りが掴めない事が大きな理由だった。ただし、『男爵』の正体はエルシ・バークレイでほぼ間違いないという特別調査室から各国捜査機関への報告が全面的に受け入れられ、現在は身元不明の強盗犯ではなく、エルシ・バークレイとして国際指名手配されているのが現状だ。それにより、集まる情報は以前よりは多くなった。だが、偽造パスポートの特定や、何よりシリングから行方不明になって数年、顔写真もろくに残っていなかった事から、捜査は依然、難航を極めていた。
飛澤・菅野襲撃事件の情報を掻き集めながら、目下、海外の捜査機関から寄せられる『男爵』についての目撃情報や追加情報と手持ちの捜査情報を精査して過ごし、菅野襲撃から五日後、一穂と高遠から大事な話があると呼び付けられた。
そして、検察庁舎最上階の大臣執務室でユリの両親である芳生 貢・奈津子夫妻について聞かされた。ユリならずとも、了にとってもその話は何ともショッキングな内容で、これをユリに話すべきだと進言された一瞬は、父・一穂が憎いと思ったほどだった。了の中で打ち明ける覚悟が付かないまま、翌日実家に足を運ぶよう言われ、向かうと兄たちと一穂が揃っていた。昨日聞かされた話を実際に捜査した当事者である父と兄の五人を目の前に、話に偽りがないかを確認し、同時に調査室設立の真の目的も聞かされた。
そうであるならば、了にはもう、迷う余地などなかった。否、元々自分が手駒である以上、悩んだところで仕方がないという結論に辿り着いたのだった。
ユリに総てを話す事を受け入れ、その役を一穂に委ねると、一穂は了と二人で話がしたいと兄たちを書斎から出し、そこであの指輪を取り出した。
「この先、これが重要な足掛りとなる。」
一穂はそう言った。
「この指輪は、お前が高校二年の夏に三笠氏と娘の美香ちゃんが許婚の相談をしに来た時に置いていったものだ。」
了は意識をしていなかったために気付かなかったのだが、指輪はあの日、三笠の父・俊造と美香が帰宅した後、座っていたソファに残されていたそうだ。中を確認した一穂が三笠に電話連絡を取ると、いつか了が美香を見初めてくれたその時にそれを美香に渡してやって欲しい。美香はその指輪の事を知らないから、と言い、強引に電話を切ってしまった。配送などで送り返す事も出来たのだが、一穂なりの考えがあり、指輪を保管する事に決めたそうだ。その考えとは何であるか語られる事はなかったが、当然、了と三笠美香の婚姻があると予測しての事では決してなく、別の事を要因としていたことは、了にも察しが付いた。が、語らぬ以上、それはまだ了が知るべきタイミングではないという事だとも理解出来た。了の役割は、この指輪を分析し、手元の情報との接点を探る事のみだった。話が終わった後、了は直ちに庁舎へ戻り、黒崎に非公式に指輪の鑑識を依頼した。
X線検査や金属鑑定など物体検査に必要なあらゆる検査を行った結果、純金製の指輪ではあるが、内部に超小型機器が隠されている事がわかった。黒崎が分解したところ、小型の盗聴器が見付かった。この盗聴器は一般的に出回っているようなものではなく、恐らくこの指輪に仕込むためだけに特別に作られたものであろうという見解が示された。
何故そんなものを俊造が持ち込んだのかは定かではないが、この指輪の鑑識結果は重要なものとした上で、一時横に置く事にした。
その後、菅野・飛澤の襲撃事件から次のターゲットがユリか了である可能性を踏まえ、ユリの保護を行う事になった。
あの法廷での再会。本来は、匠が来ると聞いていたのだった。だからシリングの医師から預かった”紅い泪”を持参したのだが、そもそも何故あれを匠に預けたのかは、了も知らない事だった。了はあの日、匠に”紅い泪”を手渡すよう高遠に言われ、それを実行したに過ぎない。ユリ同様、”お使い”をしただけなのだ。
結果論ではあるが、自然な流れでユリと再会する事となり、そして保護に至る。
保護後、ユリ若しくは自分が襲撃されたのは一度のみ。クレアを収容した施設へ向かう途中の、あの時のみで、それ以降はまるで目的を達してしまったかの如く不審な者を見かける事もなく、身の危険も感じない。
そういえば、雑務に追われてすっかり忘れていたが、ユリに匠やカナエと話す機会を与えねばと思いついた。携帯電話は何かあった時に足がつき易いので、自宅の電話を使わせよう、などと思いながら、了の思考は再び事件へと戻ってしまった。
携帯電話と言えば、佳澄の携帯電話にも指輪と同種と思われる機器が添え付けてあったと黒崎から報告を受けたのはたった数時間前の事だ。
被害者の佳澄は、怪我こそまだ回復はしていないが意識ははっきりしており、事情聴取にも協力的だ。あの携帯電話の入手方法や、機器を埋め込むタイミングがあったかなどを聞き取らねばならない。ただ万が一、佳澄がエランと同様にシリングや大鳥と通じていた場合には、その取調べこそが揚げ足になってしまう。機器の事については自然に話を持って行き、且つ何食わぬ話の中でこれまでの用途について聞き出さねばならない。目下、これが一番手間取りそうに思える。
了は、佳澄が被害者である事の方が厄介だと思い始めていた。佳澄、つまり検察側の主張は飽く迄も『佐藤 祐二』に対する強盗致死傷罪の立証であり、それが立証出来るのであれば、表向き、佳澄の携帯電話の仕様など取るに足らない事なのである。昨今、捜査不足や証拠捏造による冤罪が多発しているから、慎重に捜査をしているという主張も通らぬだろう。何故なら、録音された音声により、佳澄が故意に佐藤祐二に自身を襲わせたのではないという事が明確になっており、佐藤の主張する自己防衛による過失ではないという確たる証拠になってしまっているからだ。仮にそういった事態を『期待して』携帯電話を改良したとして、結局襲ったのは佐藤祐二本人による意思であり、なんら彼を貶める原因にはならないと判断される。そういった結論までを見越しているならば、佳澄に機器の事を尋ねてもさらりと交わされる可能性が高く、場合によっては追求した事その事自体が裏目に出る。
どうしたものか…。
「…はぁ…。」
珍しく、溜め息が出た。
なにからすべきだろう。なにから手をつければ、この事態が丸く収まるのだろう。もうすでに、どこをどう辿って来たかすら思い出すのに苦労するほど、道は入り組んでしまっている。
今すぐに動かなければならないのなら、やる事はたった一つしかない。佳澄の携帯電話について追求することだ。情報漏洩についても圧せる状況ではあるが、正直何かもう一つだけ足りない気がしていた。その何かが判らなければ、了の思考も動かない。
佳澄に単刀直入で尋ねるのもいいが、それでどれだけ自分が求める情報が手に入るかというと、予測では然程目ぼしい情報は手に入らないと思っている。
誰かの手が必要だと考えた。出来れば、佳澄にとって例の機器の事を知っているという事が衝撃的になる人物の協力が…。勿論、事件や今挙がっている限りの組織にまったく関係ない人物では話にならない。
だが、佳澄にそのような人物がいるのだろうか。
佳澄の事を調べよう。
その結論に至ったのは、高遠を見送って思惑に耽ってちょうど一時間後の事だった。
そろそろ渡部や日下部が登庁して来る時間だ。そう思っているところへ、軽やかにセキュリティの電子音が鳴った。
「おはよーございまっす。あれ、蕪木さん、早いですね!」
日下部だった。
「おはよ。」
「何ですか、浮かない顔して。声もなんかしょぼくれてますね!」
全く遠慮のない言い回しをされ、拗ねる気力もなくなる。
「考え事。」
素っ気無く答えると、日下部がにやりと笑った。
「あ、わかった、喧嘩したでしょ!」
指まで指して言う日下部の言わんとするところは、了がユリと喧嘩でもして気落ちしているのだろうという事だった。
全く違うと否定したいところだったが、今朝の状況を考えると、強ち外れてもいなさそうなので返答に詰まった。
「アタリですか! しょうがないなぁ。」
一人納得した日下部は、勝ち誇ったように言うだけ言って、とっとと自席へ行ってしまった。そんな日下部の後姿を見て、了は小さく溜め息を吐く。何か仕返しがしたくて、了もロフトを登った。今情報整理で忙しい筈だが、もう少し仕事を積んでやろうと言う訳だ。
「調べ物ですか?」
「うん。秋山佳澄について、出来る限りの情報を集めてくれ。」
「被害者の?」
「目立った情報がないようなら、親族まで対象に含んで構わない。」
「なんでまた…。」
何も知らされていない日下部には、当たり前のように奇妙な指示であろう。だが、詳しく説明も出来ない。
「携帯端末、改造されてたろ。この先その辺りを突っつかれて説明出来なきゃ、怪しまれるからな。本人に聞くのもいいが、被疑者のみならず被害者を調べる事も調査の鉄則ではあるから。」
尤もらしく、然も当然と言う顔で言うと、日下部がなるほどと頷いた。
「いつまでです?」
「今日中。渡部と手分けしてくれ。」
「…了解です。」
一瞬面倒くさそうな顔をした日下部にそれだけ言うと、視界の隅で渡部の姿を見つけてロフトを降りた。
「…おはごうございます…?」
渡部が妙なイントネーションで挨拶をした。
「おはよ。」
「本部長、外出ですか?」
渡部が、高遠の席を指差して尋ねた。
「ああ。」
「ん~…、あれ?」
「…?」
了が怪訝な顔をすると、渡部が首を傾げたまま「電話あったんです」と言った。
「電話?」
「はい、三笠さんから。朝、登庁したら、本部長に蕪木さんからの頼まれ事で取調室使わせて欲しいって伝えてくれって…。」
「……。」
黙っている了の顔を見るまでもなく、目の前に了がいる事でその伝言の不審さを理解した渡部が、徐々に声を殺して行った。
縮こまる渡部に、了がにやりと嘲った。
「ふぅん。それで?」
「…例の裁判で、被疑者に確認する事があるから、って言えばいいからって…。でも蕪木さんいますね。」
了の中で、何かが繋ぎ合わさった気がした。
「三笠に、『言っておきました』って連絡しとけ。」
「え、でも…。」
「いいから。俺の事を聞かれたら十一時まで外出中って事にしとけ。『高遠さんもさっき出た』って。」
「…はい…。」
不敵に、ほんのり邪悪な笑みを浮かべて言う了に反論は出来ず、渡部は携帯電話で三笠に連絡を入れた。了に言われたとおりに言うとすぐ切れたようで、渡部がおずおずと電話を尻のポケットにしまった。
「それでいい。」
「…何なんです?」
「まだ知らなくていい。日下部に指示出してあるから、手伝ってくれ。」
有無を言わせぬ口調で言うと、渡部はそれ以上追及せず、ロフトを上がって行った。
その後姿から、視線を高遠の席に流す。
(人が悪いな…。)
了は高遠が味方で良かったと、胸を撫で下ろした。