面影◆10
「とーるちゃぁん、おはよぅ。」
朝も早いと言うのに、高遠は普段どおりの女子高生のようなテンションで、調査室の扉を開けた了に手を振った。
オカマ具合にすっかり慣れてしまった自分に呆れつつ、「おはようございます」と返す。
朝早くから登庁した理由。
高遠との内密な話があったからに他ならない。
三笠にも日下部にも渡部にも、当然ユリにも聞かせる事の出来ない話。少数の組織の中で、さらに了と高遠だけで動いている件は意外に多い。デリケートな案件だからこそだが、二人だけで動いている事を他の三人に知られぬようにするのは、思った以上に大変だった。
事の他、五人で調査に当たっている事件と、二人だけで扱っている事件に共通点が出て来たときなどは、最悪だ。口にする言葉、行動範囲、部下三人の調査への指摘にしても、三人が知り得ぬ情報を使用した指摘は出来ない。元々あれこれ考えを廻らせたり、同時に複数の問題を抱えるのは然程苦ではない了だったが、休息なくこの状態が続けば神経が擦り減る。
さらに裁判でも入った日には、処理許容量を超えかけ、慌てる事もしばしばあった。
それすら気付かれぬようにしなければならず、時折大声で叫び倒したくなる。
「さぁて。」
デスクの前に立ち、背筋を伸ばす了を見上げて、高遠がにやりと笑った。
「取り敢えず、話せなかった追跡車の話からしようか。」
「はい。」
「弾、結構いい場所に撃ち込んだみたいでね。未だに発見されていないようなの。とは言え、罠かも知れないけどね。少なくとも、”あの弾を一緒に連れて動いている何か”がまだ存在するのは事実。
で、直近のデータだけ出して貰ったんだけど、とーるちゃんが直に銃弾を撃ち込んだ車は、あの夜、『ホテル・セントラルアヴェニュー』に三時間一二分立ち寄った後、『シリング大使館』へ向かった。そして『シリング大使館』で約二時間ほど駐車した後、民党本部へ向かった…。」
高遠が言葉を切って了を見上げる。そして動じない了に「…驚かないね。よろしい」と言った。
三ヶ月前、否、約七年前からずっと聞かぬ日はなかった国の名前、その施設。そして、あの事件や父、兄の話から認知した、あの国との太く密なる繋がりを持つ政党。
襲われる理由がエルシ、若しくは件の関係者にあるのなら、疑惑候補からは最後まで外せぬと思っていた名前の数々。
了にしてみれば、驚く理由はない。
「さて、民党本部から発信源が移動したのが、到着の三二分後。そのあと、どこに行ったと思う?」
了は当然と言う顔をし、「現エネ庁次長宅でしょ?」と答えた。
「正解。
今、新規石油輸入先候補として上がっている中東小国の数国のうちの一つが、シリングだからね。話を進めているのは、観光庁に顔が広い大鳥グループの参加の石油会社だしね。エネ庁次長は、その企業出身。
と言う事で、足取りから察するに、とーるちゃんや件の標的となっている人物を狙う輩と、民党・大鳥は繋がっていると結論付けたいんだけど。」
高遠が挑発的な笑みを口許に湛えて尋ねた。「どう思う?」
「異論はありません。問題は、どう繋げるかですね。」
「うん。理由をでっち上げられないと、あれこれはぐらかされて捜査対象に出来ないからね。それについては、とーるちゃんから預かった『コレ』が、ヒントだと思うんだけど…。」
そう言って、高遠は鞄から青いビロードの小箱を取り出し、デスクに置いた。
それは了が高遠に調査を依頼した、ある装飾品だ。
十数年前、これは了の実家に齎された。持ち込んだ人物は、今、民党において強力な影響力を持つ人物で、資源エネルギー庁次長を務める。
「二年前に民党に政権が渡ってからこれまでに至り、エネ庁次官の活躍は目覚しい。うだつの上がらなかった一民間企業のコネ重役が、あっという間に次長にまで成り上がった。
一穂議員に媚まで売った男が、と言う厭味はさておき…。
とーるちゃんが報告してくれた、”アレ”の中身、これと共通点が出て来るんじゃない? 齎した人物に共通点があるように、さ。」
高遠が、小箱を指で弾いた。
「もうそろそろ、結果が出ると思うんですが。」
言い終わるや否や、了のデスクの内線が鳴った。
受話器を上げると、これまた高遠に引けを取らぬ程のテンションで、電話主が話し始めた。
『おはよー。科捜研の黒崎だけど。』
「おはよ。」
科学捜査研究所の研究員、黒崎は、ゆっくり眠るくらいならずっと研究室に篭って証拠品を眺めていた方が有意義だと繰り返し語る風変わりな青年で、計三件の大学院を主席で卒業し、遺伝子工学博士、臨床心理士、放射線取扱主任者などの資格を持つ。秀才でお調子者、おまけに研究室に引き篭もる事が大好きな黒崎は、了の扱う捜査において、幾度となく助けになってくれた。
記憶に新しい活躍では、ユリとの再会を果たす切欠ともなった件の裁判の証拠品の一つである携帯電話の、あの録音データを見付けた事だ。あの携帯電話は、一見、何の改造もされていないように見える端末であったが、ホーム画面においてある特殊なダイヤルをすると録音機能が使用出来る列記とした改造端末であった。
携帯端末の分解中、一般人が使用するにはまず開けぬバッテリー下のパネルを開けたと見られる小さな小さな傷を見付けた黒崎は、基盤に特殊な追加部品がある事を発見。携帯電話に登録された暗証番号と、メールの送受信履歴など、吸えるだけの情報を吸い上げて予測した無秩序な数字五桁を入力すると、録音メニューが表示された、という訳だ。
こんな発見をするものだから、何を頼むにしても便利だった。
本人も証拠品などの捜査が出来ればまず満足なので、多少了が無理な業務外の頼み事をしたとしても誰にも口外せず無報酬で引き受けるし、了が持ち込む証拠品の数々は微妙な位置付けのものが多く、好奇心をそそる非常に楽しい物ばかりと思っていて、暇なときなどは自ら捜査するものはないかと問い合わせてくるほどだった。
そんな黒崎には、つい昨日、偶然手にしたある物の分析を依頼していた。
『頼まれたやつ、”アレ”とおんなじ機械が入ってたよ。豪い几帳面に、ガワに使ってるのと同じ色の青い素材使ってあってね。こんな手の込んだ盗聴器、なかなかないよ?』
黒崎があまりに楽しそうに言うので、了もついにやけてしまった。
「それ、通信履歴は取れるか? 傍受先がどこかとか、何かデータを受信していないかとか…。」
『出来ない事もないが…、難しいなぁ。
通信を受けていたとして、検察庁舎は外部から一切の無線通信を遮断しているから。舎内のネットが未だに有線なのはそれが理由だけど。という事は、必然的に内部という事になるし、内部で無線通信を交わしていたとしても、その履歴は規約違反をする数百の検事を吊るし挙げるだけになるかもよ?』
「構わん。機密保持は保証する。」
『うーん…。ってかコレ、当然曰くが付いてる訳でしょ? 身内を疑うのは、心苦しいなぁ。』
「何とか、頼むわ。」
『んー…。』
黒崎は数秒考え込み、「ま、いいけど」ところりと了承した。
『情報センターに忍び込まないとならないんだけど? そっちの二人の方が得意じゃないの?』
渡部と日下部の事だ。あの二人はあの二人で、ハッキングや情報傍受を得意とする。この職業にあって、紙一重で犯罪者にもなれる人材なのである。
「いや、あいつらには、内密な事なんだ。」
『相変わらず、穏やかじゃないねぇ…。ま、やるだけやってみるけど。お昼までかからないと思うよ。』
「よろしく。」
了が言うと、黒崎は内線を切った。了も受話器を置くなり高遠のデスクに歩み寄り、肩を竦めた。
「同じものだそうです。」
電話の受け答えから、何となく状況は把握出来た事だろうから、特に詳しくは報告しない。高遠も了解をしていて、手短に「やっぱりね」とだけ言い、組んだ指先の上に顎を乗せた。
「さあ、繋がったとみて、一旦話を変えよう。」
本題は、実はここからなのだった。
正確に二四日前、特別調査室で厳重に保管している筈のデータの一部が、流出している”らしい”という事が、内閣お抱えの諜報部隊により発覚した。
情報の種類は極めて機密性の高いもので、調査室と、限られた機関でのみ扱われていた物であった。この事実は、情報分析をされた後に関連各所に通達された。もちろん調査室にも通達はあったが、調査室は政府的には一穂の管轄下にあるため、一度一穂へ通達が行き、その後、高遠の耳に漏洩の可能性が届いたのが、ちょうどユリが検察庁舎を訪れた日だった。
扱う事件の種類が特殊である事もあり、調査室の情報保持能力は、国内でも最高レベルのものだ。人為的に外部へ流さない限り、ハッキングなどという方法によって探られる可能性はほぼ皆無だったし、現にその痕跡は発見されなかった。一穂から調査の指令を受けた高遠は、即座にこれを人為的漏洩と断定。漏れている情報が、本当に調査室で扱った情報かを確認し、了独りに、漏洩元を探らせている。
ただ、問題は漏洩の事実だけではなかった。
寄りにもより、漏洩した情報の一部に大鳥とシリングについての捜査記録なども含まれていたため、これを快く思わなかった内閣、即ち民党の幹部に、一穂及び調査室へ介入する隙を与えてしまったのだった。
特別調査室は、表向きは特殊な調査組織であるだけだが、裏向きには特定の人物や組織の調査を主な対象としている。その事実は、調査室発足当時に内閣に入閣していた極僅かの政治家と法曹人のみが知るところであり、取り分け、当時野党であった民党には、この事を知る者はほとんどいなかった。しかし今回の漏洩により、調査室の存在意義が表向きのもの以外にもあると明確に知られる事になり、民党からの情報公開要請を受けた。
情報公開は出来ない。だから、公開情報の制限をかける事と、現野党である総党から野外と言う大物議員を意図的スケープゴートとして準備させ、その間に漏洩元を突き止め巻き返しを図ろう、としているのが現状である。
捜査対象は五人。高遠と了については疑う余地はなかった。残るは三人。渡部か、日下部か、三笠か…。
そして、漏洩手段。庁舎外へ外部メディアを持ち出す事は赦されていない他、庁舎内では個人の携帯電話を使用するにも許可が必要で、さらに使用可能場所は限られ、使用者は記録される。その記録には、三人は含まれていなかった。
そして…。
「その他、漏れたのは、飛澤氏の転居先と、菅野の転居先、そして、芳生匠により提供された、芳生貢による未発表の研究レポート…。」
飛澤と菅野の襲撃は、この情報漏洩が発覚したとされる日の数日後の事だ。彼らの情報は法務省によって厳密に保護され、転居先の届け出や公開もなされていなかった。彼らを意図して襲ったのであれば、漏洩された情報を元に居場所を知った事になる。この情報を入手出来たか、漏洩した本人か。どちらかという事だ。
個人の行動の一切を監視し、収集し、分析をする。
情報を得て、得をする人物。飛澤や菅野が襲われる事に利益がある人物、若しくは、そう言った人物と接触した人物。情報を外部へ持ち出す技術、或いは手法を持つ人物。条件の総てを満たす人物…。
だが、三人の、特に飛澤や菅野が襲われた時のアリバイは、一見すると疑わしい点は見られなかった。共犯者がいるのでは。可能性を建てたが、複数犯説は否定された。否定したのは、一穂だった。
「一人に絞りなさい。」
一穂はそれだけ言って、あとは任せると言い放った。それを聞いて、この件で一穂は何か知っている事を知ったのであるが、それすらも自分たちで突き止めねばならなかった。
「そこへ来て、またこれに戻るんだな。」
そう言って、高遠がもう一度、青い小箱を弾いた。
この小箱は、了が一穂から手渡されたものだった。十数年前に、現エネルギー庁次官によって持ち込まれた物だという事もその時は知らず、ユリの両親の事で事前に相談をしている最中に受け取った。その時はまだ、漏洩の事すらも知りもしなかった了は、父に小箱の中身を調査をするよう言われ、何の疑問も持たず黒崎に依頼をしていたものだ。
そして今し方、黒崎によって、青い小箱の中身と、了が依頼したもう一つの”証拠品”に埋め込まれていた盗聴器に関連性が認められた事で、被疑者の絞込みはほぼ出来たと言ってよかった。
「問題は、動機、ですね…。」
「うん。難しいなぁ。何となく、メンタルの問題の気もするしね。
それに、仮に仮定している人物が被疑者だったとして、その人物は民党やエネ庁次官とは深い繋がりを持っている。この事実は、情報漏洩とその後の民党の主張とは矛盾する。調査室内部の人間ではあるが、これより太く強力なのは、民党との繋がりの方だからね。ただでさえ探られて痛い腹を結構深いところまで探られているのに、その上、身内が盗聴なんて言う非合法な行為をしていたなんて発覚すれば、向こうは自分で自分の首を絞める事になり兼ねない。
彼らが大騒ぎするのはおかしいから、もしかすると盗聴や情報漏洩は、彼らも想定してなかった事なんじゃないかな。若しくは…。」
「…盗聴を誰かに促されていた場合、騒いだ人物と、その人物は対立、若しくは疎遠な関係である可能性が高い…。」
「うん。
複雑だよ? 事は被疑者独りの問題じゃない。大鳥もシリングもひっくるめて理由付けを完璧に行う事が出来なければ、幾らでも逃げる余地を与える事になるから…。
何せ、”被疑者自身は大鳥にもシリングにも肩入れしていない”んだからね。逃げ道は多い。漏れた情報の内容から飛澤氏たちの襲撃との関連性は濃厚だけれど、お父上の言うように単独犯として捜査しろとお達しも出てる上、その日のアリバイも崩せないとなると、それを軸に強請るのは不可能だし。」
「発覚から一穂の耳に入るまでに、ずいぶん時間が開いているのも気になるんですけどね。俺としては、その辺りに何かもう一つヒントがある気がしますけど…。調査は難しいでしょうね。」
「難しいだろうね。今彼らに何か投げかければ、確実に漏洩した情報の内容に議論を摺り変えられてしまう。我々としては、我々が集めた情報が彼らの手に渡ってしまった事で、大分行動に制限がかかってしまった状況だから。
どうする?」
追い詰める役割は自分がやろうかとにんまりとした笑顔を浮かべて見上げる高遠に、了は溜め息を吐きながら首を横に振った。
「まぁ、無理に動いて、挙げ足を獲られたのでは元も子もないから。
情報提供だけ、つまり、本件の被疑者には、飽く迄も情報漏洩嫌疑しかかけられない。そんな状況だね。」
「…そうですね…。」
「僕も知らない事にして、脅しにかかってもいいよ。とーるちゃんの好きなようになさいな。」
「…はい。」
気は進まないが、いつかは対峙しなければならない。
ずしりと重い胸に思い浮かんだのは、何故か緑色の瞳の人物だった。
茶の濁りのある…。穏やかに笑う…。
そして、ふと思い立つ。
濁っていた目は、どちらだっただろうか…。
自分でも何故今それが気にあるのか解らなかった。だが、とにかく『どちらの目が濁っていたのか』が気になった。
一方で、急に眉間に皺を寄せ、顎に手を当て考え込んでしまった了に、高遠はただ首を傾げた。