面影◆9
検察庁舎を出て、食料品や日用雑貨の買い出しをしにデパートに寄り、そのまま了のマンションへ戻る。
若干日暮れ前の陽の傾きは感じるものの、外は明るく、帰宅に違和感を感じる。
買ったものの片付けをし、さてこれからどうしよう、と二人でカウンターに着く。夕食を仮に早目の午後五時に摂るとしても、まだたっぷり一時間以上ある。テレビを観て潰してしまうには勿体無いが、これと言っていい時間潰しも思い付かない。
無言のまま、”どうする?”という視線を交わらせる。少し開けた窓から入って来る外の騒音が、唯一の音だ。
結局、数分思案した後、適当に話でもしながら過ごそうという暗黙の了解を察して、了が紅茶を淹れ始めた。
早々に電気ケトルがコトコトと水を沸騰させ始める音がし、それを両頬杖を突いてぼうっと聞いていたユリが、「ねえ」と口を開いた。
「ん?」
シンク脇でユリに背を向けていた了が、振り返る。ちらりと見えた手元には、何枚かスライスされたレモンが見えた。
「…クレア、どう?」
先ほどの高遠と了の話がクレアの事だとしたら、という思いは、まだ残っている。盗み聞きした訳ではないという事を悟られないように、端的に質問をする。
了は振り向いた姿勢で暫くユリを見ていたが、ふと視線を外してふぅと口から息を吐き出した。その時、一瞬眉を顰めたのを、ユリは見逃さなかった。そこにどう言った心理があるかは解らないが、これにより、ユリはあの話がクレアの話だと確信したのだった。
「相変わらず…、みたいだな。たまに三笠が様子を見に行っているが…。」
「そっか。」
歯切れ悪い了の答えに、ユリはさっさと納得した。了の答えは、取って飾ったものである事は明白だった。一方で、了はユリがそこまで考えを廻らせているとは思っていない様子で、答えたきり、またユリに背を向けてしまった。
「明日、仕事だよね?」
ユリが素早く違う話を振ると、了の反応もころりと変わった。
「うん。明日から、ちょっと忙しい。」
「そうなの?」
「ああ、取調べと、裁判と…。」
「帰り遅い?」
「遅いかな。深夜回る事の方が多いと思う。明日から暫く、また家にいて貰う。適当に過ごしててくれ。外出出来ないのは、辛いだろうけどな。」
「いいわ、大丈夫。掃除とかしてていいでしょ?」
「いいけど、根詰めてやらなくていいからな。」
「うん。暇潰し程度にやらせてもらうわ。」
それなら、と湯が沸く間に掃除用具の場所や使い方を簡単に教わった。
戻る頃には湯は沸き終えていて、紅茶を飲みながら二人で食事を作って済ませると、ユリはテレビを、了は明日の準備かカウンターで書類を眺めて過ごし、気付けば〇時を回ろうかと言う時間になっていた。
明日早いからと言うので、先に了が風呂へ行ったが、次にユリが風呂から上がって部屋に戻ると、了は既にベッドに横になっていた。微かに寝息が聞こえる。足音を消してベッドに歩み寄り、隣に横になりつつ顔を覗き込むが、すっかり眠りに就いているようだった。
相変わらず、まっすぐ仰向けになり、腹の上で指先を軽く組んだ姿勢で眠っている。これまで了より早く起きる事はほとんどなかったが、了が寝相を崩したところを見た事がない。
ユリは静かに体を横たえ、カーテンの隙間から注ぐ月明かりで青白く光る天井を眺めながら二日間を振り返った。振り返れば、濃く長い二日間だった。
そして、庁舎には半日もいなかったが、了の実家から移動するところから始まった今日一日は、この生活始まって以来、最も長い一日に思えた。
両親や親類についても知る事が出来たし、了の事もずいぶん知る事が出来た。嬉しい事も哀しい事もあったが、全部了に掬い上げられた気がした。
ふと、了の横顔を見る。
両親の事はあれど、ほぼのほほんと暮らして来たユリと違い、了はひどく苦しんで生きて来たように思える。それでも捻くれずに成長した了だからこそ、ユリの事にもこんなに親身になれるのだろう。
危ないほどに、優しいのではないだろうか。そう思うと、高遠が言っていた『生きるのをやめてしまう』というのも、より一層理解出来る気がする。
再び天井を見上げる。
疲れていると言う自覚はあるのだが、眠気がやって来なかった。気が高ぶっている事に気付く。恐らく、この二日で見聞きした事の整理をするまで、気が休まらないだろう。
だが、幸い明日は外出しなくて済む。了が家を出た後に、また眠ってしまっても良いだろう。睡眠時間の確保はいくらでも出来そうだ。
ユリは仰向けの体を少しだけ動かして心地の良い体勢を取り直し、瞼を軽く閉じた。
真っ暗になった視界の中を、白い影がぐるぐると回る。あれは、自分の”思考”だ。未整理故に何者とも繋がっていない”思考”が、収まるべき場所を探して駆け巡っている。
その中でも大きなものが、両親の事だ。
親類の事を知れた事も大きかった。まさか、世間でも名の知れた人物が自分と血が繋がっているとは思いもよらなかった。
そう言えば両親や匠夫妻は、政治や煩わしい問題の起こる要素から極力身を遠ざけて暮らす性格をしていた。特に民党については快く思っていないと繰り返し言っていた。
だから、何故他の親類の事を話さないのか、何故接する事がないのか、とりわけ、何故ユリに打ち明ける事がなかったのか、正体が解れば理由も解ったようなものだ。
恐らく、身内にそういった者がいる事で、余り好い過去がないのだろう。
疎遠になったのは、穏やかに暮らしたいと言う気持ちがあったからに他ならないと思われた。勿論、ユリ如きには想像も出来ないような”何か”があったのかも知れないが、そこは容易に詮索をしてはならない部分だ。
だが、両親がクレアの母シリシを死に追いやった毒物の発案者という事実が、その辺りの心情を明確に想像させた。
毒物や薬品研究を国外へ漏出させる企業や研究所に関わる親族。漏出の事実を知った事による両親の行動は、そういった親類から離れ、さらにそれを正す役割に身を置こうとしての物だろうし、そのような親類なら、早くから疎遠になりたいとも思っていただろう。
両親の行動には一貫性が見えるし、ユリの知っている通りの両親が、そこにあると思っている。
クレアの不幸の一旦に両親が関わり、当事者に近い立場とあれば心も痛むが、決して両親が意図して関わったのではないという事実により、少しは救われた想いだ。
そして両親がそれを正そうとしたのならば、自分も尽力したい。
昨夜、了が告げてくれた想いも背中を押した。だからこそと意気込んだ矢先に、資料室でのパニックだ。あれには、当のユリでさえ、未だに困惑している。
ユリ自身、自分は単純思考だと自覚しているし、それを取り柄とも捕らえている。
それなのに、一度納得した事で取り乱す事になろうとは、思いも因らぬ事だった。
今思い返しても、何故あれほどに取り乱したのか、自分でも理解が出来ない。ただ、脳裏にふと自分を責める”声”が聞こえたのを覚えている。
『あなたさえ、いなければ…』。
そんな言葉が突然聞こえた。現実的に耳に入ったのか、どこかで聞いた言葉を突然思い出したのかは定かではなかったが、とにかくその”声”は、ユリを責め立てたのだった。
そして不思議な事に、普段どんなに責められても心が折れる事のない自分が、あの時一瞬でどん底に突き落とされ、心砕けたのだ。
ユリがいなければ、了がこんなに心を痛める事もなかった。
ユリがいなければ、了がこんなに道を踏み外す事もなかった。
ユリがいなければ、了はこんなに苦しむ必要はなかった…。
消化した筈の疑問や自責の念が再沸し、心を鷲掴み、潰そうとした。
今この瞬間に思い出しても、然程心揺れない言葉だが、あの時は一気にユリを捕らえ、責めた。
その後、了が手を取り、抱き締めてくれなければ、きっと今でも立ち直れていなかったに違いない。
優しく髪を、肩を撫で、無言で情を注いでくれた了には、感謝しか出来ない。
再び首を横に向けると、相変わらず身動き一つせず、規則正しい寝息を立てる了の横顔が見える。
暫く眺めていると、胸の上で組まれた手が解け、左手が滑り落ちた。その様子は余りに無防備で、普段の了からかけ離れている。それが堪らず愛らしくて、ユリはそっと体の向きを変え、了の左手に自分の手を添えた。
起こしてはいけないので、握る事はしない。ただ添えるだけだが、触れた手の温もりが、瞬間にユリの総てを包み込むように伝わって来た。
二人の距離は、決して近くない。もう一人、中央に横に慣れるほどに間が空いている。だが、それすら感じさせないほど、伝わり来る体温と、肌の感触は力強く、心強い。
既に、そこにいる事が当たり前になってしまった目の前の青年は、自分の命そのものだ。
傷付けたくない。
そのためならば、何でもする。何でも出来る。
そんな気がした。
悪い夢など見ないように。
了も、そして自分も。
ユリはふと笑い、目を閉じた。
◆ ◆
寝落ちた筈の意識は、完全に落ちてはいなかったようで、さり気無く触れられた感覚に、了は目を覚ました。ただ、瞼はそのままに、触れた主の動きを暗闇で観察する。
しばらく経っても手は離れず、しかし身動きを取る様子もない。
ゆっくりと目を開け、音を立てないように首を横に倒すと、遠慮がちに自分の手に手を添え眠るユリがいた。
口許にはうっすらだが、心地の良さそうな、安堵した笑みが浮かび、良い夢を見ているのだろうと思わせる。
心細いのだろうかと思ったが、そうではない事はこの笑みで理解出来た。
了は暫し悩んだのち、仰向けにしていた体をユリの方へ向けた。手は極力動かさないように心掛けたが、そのせいで若干ベッドに振動が走った。
だが、熟睡しているのか、ユリが起きる様子はなかった。
寝顔を見つめる。
資料室での出来事を思い出し、了はそっとユリの頬を撫でた。
稜のようなあどけない子供のような寝顔で、思わず吹き出しそうになる。必死に堪えながら、もう一度頬を撫でる。
今日は、涙は流れなさそうだ。
もう、泣き顔は懲り懲りだ。
笑っていなくていい。怒っていて構わない。
とにかくもう、泣かないで欲しい。
それは、誰のためでもない、ただ自分のためだけの願いだ。
ユリが泣けば、生きる希望が消えてなくなりそうだった。
早く、解決してやりたい。早く、何も気を揉まぬ元の生活に戻してやりたい。何度もそう思い、しかしもう、手遅れな事に気付いて唇を噛んだ。
これから先、ユリが元の生活に戻る事は叶わない。過去を背負って生きて行く”人間”だからこそ、過去の蟠りが大きければ大きいほど、路は逸れていく。
その事に無意識に気付き、そしてただ進んで行く事を決めたユリは、誰よりも強く、そして美しいものに見えた。
直視するのが怖くて、微笑みかける事がおこがましくて、無愛想を演じるしか対峙出来ない女性。
他の、興味のない女性に対する無愛想とは全く真逆の、云わば尊敬にも等しい態度で以って、ユリに最大限の愛情を注ぐ事。今ではこれが、事件を解決する事以上に、了にとっての生き甲斐となっている。
現時点で、得ている情報は多い。見えて来た事の他、今まで無意味と思われた情報が、それによって繋がり、意味を為し始めた。
先行きは明るいはずだ。総てが、もう少しで終わる。
(もう少しで、終わるからな…。)
心の中で、囁きかける。そして、添えられただけの手を、ゆっくり握る。
決して細くも整ってもいない手だが、了には誰よりも美しい手だ。
強く握り締めたい衝動を抑え、誓う。
絶対に、離さない。この手が総ての真実を得、自身を解放するその日まで。
この感情が、どのような名前か、自分は知っている。
今までは、少なくとも三ヶ月前に再会するまでは、これがどんな感情でも意識をせず、そして事件と共に葬り去る事に決めていた。
検事と言う職業の規律だとか、そういったもののためではなく、それがユリに対する礼節であろうと信じていた。
だが、今はそうは思わない。否、思いたくなかった。
失うのが怖い。
接していくうち、そう思うようになった。
今までに出会った誰もが自分に与える事が出来なかったものを、ユリならばくれる気がした。
九つ下の、大して社会を知らない少女がくれるもの。
見栄と虚栄ばかりで着飾る事しか知らない女性たちによってささくれた心を癒してくれる存在感。
最早、ユリなしで生きて行くのは、何もない荒野に独り置き去りにされるかのような虚無感に等しい思いがした。
それでも、ユリには言わない。ユリも、きっと気付きもしないだろう。
それでいい。
いずれ、あのロケットを返すその日に、ロケットとともに、自分の想いも総て返す事になるだろうから。
その日まで、これ以上ユリが何も失う事のないように…。
了はただ、そのためだけに傍にいる。
そう、改めて決意をした。
◆ ◆
「どこに行くの?」
そう問いかけると、母は「砂漠の国よ」と答えた。
「どのくらい?」
「一年はかかるなぁ。」と、父が答えた。
何の仕事をしているか知らないので、その期間に疑問は持たなかったが、何となしに「中途半端ね」と呟いた。長期出張に出ると言い出した両親だったが、声が沈んでいたので、何か妙な気持ちを覚えたのだ。何か探り出したいと思っての呟きだったが、賢明な両親は引っかからなかった。
「そんな事ないわよ。」
否定する母の顔は、キッチンで背を向けていたから見えなかった。
だから、そのあと母が発した言葉も巧く聞き取れなかった。
ただ、妙な事を言っていた気がする。
『あの…が見付かれば、早く帰って来られるんだけどね』…。
◆ ◆
突然心臓が止まるような緊張を覚えて目を覚ましたユリの目の前に、了の姿はなかった。
部屋の中はしんとしていて、人の気配はない。
遮光カーテンは締まったままだが、それにしても部屋が暗い。
了の寝ていたベッドの右端は綺麗に整っていて、了が起きてからずいぶん経っている事を物語っている。
起き上がり、耳を澄ますが、何の物音も聞こえない。
ベッドサイドの時計を見ると、五時前だった。
「もう出たの…?」
驚きながら独り言を言う。
朝が早いとは言っていたが、ここまで早いとは思っていなかったので、ユリは呆気に取られた。
見回すと、カウンターには飲みかけのカフェオレが置いてあった。共同生活を始めて、初めて見る。ブラックしか飲まないと思っていたので、意外だった。
ベッドの縁に座り、溜め息を吐く。
すっかり目が冷めてしまった。しかし朝の五時に一体何が出来ると言うのだろうと思うと、二度寝が正しい選択ではないかと思えて来る。試しに寝転がるが、頭もすっかり冴えてしまったので、瞼を閉じようとすら思えなかった。そしてごろんと横向きになって気付く。
了が寝ていた方。
そうと気付くと飛び起き上った。
がっくりと項垂れて、爪を噛む。
二人でいる時は然して意識などしないのに、ふと独りの時に了の形跡を感じると、とても敏感に了を意識する。共にいる時に意識するよりはずっとマシだが、これはこれで居心地が悪い。
思えばこの気持ちは、『大事』だと確認したずっと以前、初めて出会った、三ヶ月前のあの時からだ。
溜息が出た。そんな感情を抱いている場合ではないというのに、暢気に構えているように思えたのだ。
「気を引き締めなきゃ…。」
ユリはすぅと鼻から息を吸い込み、勢いよく立ち上がると、掃除を始める事にした。考えごとをしている間に六時を回り、とはいえ大きな音を出すにはまだ早い。防音設備がきちんとなされているとしても、完全に音が伝わらない家などないので、取り敢えず洗濯と食器洗いだけする事にして、本格的に動ける時間になるまでは、テレビを観ながらだらだらと過ごした。
朝の情報番組はつまらない芸能ニュースしか流さず、ケーブルテレビのチャンネルに切り返ると、サイエンスドキュメンタリー専門チャンネルで、宝石や鉱石の特集をしていた。そこではたと思い出した。
三笠に貰ったイヤリングを、どうしただろうか…、と。
昨日のパニックからこの方、気にも留めなかった。当たり前だが、耳元に手をやっても、ない。昨夜髪を洗っていた時も何も指先に触れなかったので、少なくとも部屋に戻る前、庁舎か車の中で落としたはずだ。可能性が高いのは、庁舎の資料室だろう。
了が帰って来たら言わねば。
だが、もし見つからなかったらどうしようか…。
三笠もあげて数日で着けなくなったのを見たら、それなりに残念がるだろう。バレないようにするのは難しいし、何かいい言い訳でも出来ればいいのだが。
せめて、数日は家で待機する日が続けばいい、とユリは思った。